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紀州が生んだ元臨済宗派管長  山本玄峰師

2011-09-25 17:14:54 | 高野山
 
裸足で八回の四国遍
紀州が育んだ
臨済宗妙心寺派元管長 
         山本玄峰師

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 遷化前年の写真

亡き父がご親交頂いた現在の本多家菩提、臨済宗耕月寺住職 川崎宗隆師から山本玄峰著「無門関提唱」をご恵贈頂き拝読、はじめて山本玄峰師の偉大さに気付いたのが事業の失敗が縁で歩き遍路から帰宅した時でした。
 「回想 山本玄峰」玉置辨吉著に同郷の和歌山県東牟婁郡湯の峰(田辺市本宮町)出身の玉置氏が庵に玄峰師を訪ねた時の印象を次のように語っています。『老師は縁側で新聞を読んでおられたが、加担の雲水とでも思われたか、ちらと顔を見ただけで、何も言われなかった。わしもお姿を拝んだだけで、何も言わなかった。

Sekeiji

 

四国三十三番雪渓寺に建つ

 しかし、わたしはその時、「なんと立派なお相だな」と思った。その印象が今も忘れられない。わたしの師匠精拙老漢(せいせつろうかん)もそうであったが、禅宗の老師なんてものは、色の黒い、眼玉のギョロとした、口の大きい鼻のあぐらをかいた、雲助か山賊のような面魂をしたものとばかり思っておった。ところが、縁側でしずかに新聞を読んでおられるこの老師は、何と色の白い上品な柔和な円満な御相をしておられることかと感銘したのである。その禅僧というよりは、真言か天台の大長老といった感じであった。・・・』と紹介されている。
 さて、私は徒歩巡拝一度、バイクで3回、巡拝団の引率で2度,合計五回の満願の経験ですが、
ここでご紹介させて頂く山本玄峰禅師は慶応二年正月生まれ壮絶な人生体験、
終戦時臨済宗妙心寺派管長を最後の勤めとし、療養生活、五月末から断食生活に入り、六月三日夜半待者に「旅に出る、法衣の支度をしてくれ」の一語を残して、遂に九十七歳で遷化されました。
 老師のお母さんが妊娠を知らずに再婚されたので、老師は不要の子として生まれました。それで、人権思想薄い僻地であり、生まれるとすぐ首をねじられたのだという。しかし死なない。こんどはたらいで半日ふせておいたが、死なない。
いかにも不思議に強い子であった。親たちも、これは神仏の召使いであろうとあきらめ、それからは大切に育てられた。
 渡瀬の岡本家に貰われ育てられた。
 湯の峯は山また山の奥地である。老師の少年時代は、明治初年のころでもあるから、学校などあるはずなく、文字も知らないまま成長して、十六歳まで筏流などをされたそうです。 
 十七歳の時大病して、その後眼病にかかり、失明近い状態になった。京都、大阪の名医をたずね、ある病院では四年半も入院して治療につとめたが直らな。この上はもう弘法大師におすがりして治していただくより他に方法がないと決心して、裸足で七回、四国霊場八十八ヶ所を巡拝する願いをかけて遍路に出発された。
 百十年前の遍路である。晴雨にかかわらず、歩き通して一回巡拝するのに、四十五日から五十日かかったそうです。その頃遍路宿の宿料は一銭五厘から二銭位、道後温泉で五厘位だったそうです。わらじは一銭に四足くれたところもあり、たいてい五厘であった。お接待にお米を貰うとそれを売って、納経料や宿賃にあてた。当時は遍路にお接待(ものを施すこと)することが盛んで、その地方の人々ばかりでなく、特に紀州からなどは大がかりな接待団体が来て、散髪や米、麦、餅、おかず、菓子、ちり紙、わらじ、草履等たくさんくれる。現在でも歩き遍路に、当地の人々による接待風習があります。
  〈肉眼も心眼もともに開ける〉
老師は巡拝七回目のとき、三十三番雪渓寺(せっけいじ)のそばに来て病気になって倒れた。やむを得ず雪渓寺の通夜堂(遍路の無料宿)に泊めてもらい観音菩薩に祈願をこめるうちに、ほとんど絶望視されていた視力が出てきた。老師はある日当時の雪渓寺の住職太玄和尚にあい、お礼をのべて、「なおこの上遍路を続ければ、この眼は全治するでしょうか」とたずねた。
 太玄和尚は、「それは治る。しかし肉眼で見ることもさることながら、心眼を開くことが、もっとも大切だ。心眼を開けば、宇宙全体がわかるようになる」といわれた。
 老師は大いに感じるものがあり、お礼の裸足巡拝をさらに一回(都合八回)行い、太玄和尚の弟子になり、得度をされることになった。老師の修行は、同参の人を驚かせるほどきびしかったが、心眼を開いたのは、雪渓寺であった。
 老師は遍路をしているとき、よく道を間違えられたそうですが、人はからかって、「五回もきていて、道をまちがえるのか」、というと老師は「わしは、道を覚えに来ちょらせん」。と答えられたそうです。眼が見えるようになったが、文字を覚えなければならないので、他の修行僧に比べて数倍する努力がいった。僧堂生活はきびしく、時間外に燈火をつけることが許されないから、夜中に本堂の縁の下には入ったり、古俵を山に持っていってそれにくるまったりして、線香を三本ぐらい束ねて火をつけ、その光で辞書の一字ずつを照らして、飲み込むようにして覚え、一字を覚えると、その一字を破り捨てるようにして勉強されたという。
 老師は太玄和尚についで雪渓寺住職となられたが、さらに悟後の修行を続けられ、後に白隠の道場、松蔭寺や龍澤寺を再興され、花園大学長や、臨済宗派妙心寺管長となられました。
 老師は四国遍路をされること前後十三回、八十八歳のときも、霊場ことごとく巡拝されました。
  〈玄峰師言行録〉
 老師は大変お酒が好きであったそうですが、小生の亡父(舜二)も酒が好きで玄峰師の書物をよく読んでいて赤線を引いている、そこに、『老師は禅僧の話に、いきなり酒がとびだすのは、不謹慎きわまりないようですが、とにかく、好きなだけでなく、飲みっぷりの良さにかけても絶品であった。猪口など差し出しても、「「こんなもん、ジャマくさい。これについでくれ」と、湯飲み使ってグイグイやった。日銀の法皇、一万田尚登氏も老師の茶碗酒の豪傑、初対面に驚いた一人。
 一万田さんがすすみ出て挨拶した。すると、「ああ、そうか、あんたが一万田さんか。あんたはご苦労なこっちゃナ。毎日ぎょうさんのお札勘定して、ご苦労なこっちゃな」
 羽織袴に威儀を正していた一万田さんは、それを聞くとハァッと言ったきり二
の句がつげなかった。もちろん、老師とて日銀総裁が自らゼニ勘定をしたりせぬ
ことは百も承知である。それを、こういうふうにパッと表現されるところに、並ならぬ人間が感じられたのだろう。しかし、一時間か二時間たつと、老師はパッと湯飲みを伏せる。
 「わしはもう、これでやめや。あとは皆さんでやって下さい」そういって、スッと寝床に消える。私は酒飲みでないが、これはなかできることではないと思う。と、
 老師を訪ねると大喜びの酒飲み相手となった当時大阪朝日編集局長だった進藤次郎氏が書かれている。
  〈田中清玄氏の回想から〉
 私が料理が好きで次のような文章に眼をやった。
『全く荒れるに任せた破れ寺、白隠禅師の菩提である三島市の竜沢寺で老師は托鉢と座禅の修行をしていた。そこに十一年と十ヶ月の刑期をおえて小菅刑務所を出所すると、翌々日の五月一日、玄峰老師に相見して教えを懇願した。それまで生命を賭けてやってきた共産主義が誤謬(ごびょう:あやまり)であるとの考えに達していたが、さて、それに代わる自分の道は何かということで、全く行き詰まっていた。老師は快く、私を受け入れられ、その年の六月から私は、雲水((雲がどことさだめなく行き水が流れてやまないように)諸国を修行して歩く僧。)同様の修行を竜沢寺出始めた・・・・』
『入山するとすぐ、私は典坐(てんぞ)といって飯炊きをやらされた。竜沢寺の起床は三時、すぐ読経が始まり、粥坐(しゅくざ:朝食)が四時である。生まれて初めて炊く飯だから、お焦げや生煮えばかりだった。
「あんたは殺生しとるな」
 炊事場にまわって来ると老師は言われるが、鳥や魚を料理しているわけではないから、何のことか、サッパリわからない。三ヶ月経ってやっと、まともな飯が
炊けるようになったある日、 「あんたも、やっと殺生せんようになった」
 と言われる。なるほど、ものの味を生かすのが料理で、それを生かさぬのが殺
生か。そうすると、物の価値を生かすのは経済で、物と人を生かすのが政治か
と、愚昧(ぐまい:ばかで、物の道理がわからないこと。)な私にもわかる。
 老師の言葉は常に人を見ての言葉だった。一つのことに囚われないから、こち
らが同じことを言って褒められる時もあれば叱られる時もある。
 これも私の未熟さを語ることになるが、竜沢寺へ入って一週間ほど経った
夜、何のために竜沢寺へ入山したのかと老師に問われて、私は得々として、言下に答えた。
 「世のため、人のためにと念願して修行したいからです」
 その時は、「ああ、奇特なことじゃ」と誉められたが、それから三ヶ月経っての
ことだ。同じことを老師に問われて、私が同じことを答えると、いきなり頭ごな
しに怒鳴りつけられた。
 「お前は、まだ解らぬのか!。わしは、世のため、人のためと念じて修行したこ
とは一度もない。みんな自分のためにやっているのや」 捨て台詞のように言って、老師は隠寮に入ってしまわれた。』
 最近は料理もテレビ番組で言葉や姿や形で真似られるが料理人の心を知るには繰り返し繰り返し鍛錬が必要だ。 
                 終わり

本多碩峯書


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