覚海上人の七生譚
高野山大学教授 下西 忠
高野山増福院の門前に「覚海大徳翔天之菖跡」と大きな石碑がありますが、それは覚海が仏法の護持のため天狗になって、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説によって書かれたものです。高野に登山した谷崎潤一郎がこの伝説をもとに 『覚海上人天狗になる事』という小編を書き
ましたが、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』には、検校覚海が七度生まれ変わったという前生譚が書かれています。前生とは、この世の中に人間として生まれてくる以前に生を受けていた世の意で、前世のことをいいます。
覚海は貞応二年(一二二三)八月十七日、八十二歳で亡くなりました。武家が台頭し、保元の乱、平治の乱を通して平氏が実質上の政治的実権を貴族から奪い取ったいった時代、さらにその平氏が源頼朝に敗れ、西海の藻屑となり滅亡していった世の激動期を生きた人物でありました。また承久の乱の顛末(てんまつ)を見聞したであろうことを考えると、覚海は、ある意味で日本の大きな激動期にその生涯を生きたことになります。また彼の没年、貞応二年といえば、延慶本『平家物語』によれば、平氏の象徴ともいえる平清盛の女(むすめ)、建礼門院(高倉天皇中宮、安徳天皇母)が波瀾万丈の生涯を閉じた年でありました。
覚海は建保五年(一二一八)に高野山の検校になり、承久二年(一二二〇)検校の職を辞しました。高野山の検校までのぼりつめた覚海は、前生を知ろうと弘法大師に祈念したところ、大師は彼の七生、つまり天王寺のは海の蛤(まぐり)であったのが、あるきっかけで犬となり、さらに牛、そして馬になって熊野詣をし、さらにすすんで最終的に高野の検校になっているのだと告げたというのです。舎利讃歎の声、誦経(じゅきょう)、念仏、陀羅尼なんどの声を聞くたびに転生していったというのです。天王寺から熊野、そして高野というルートはさまざまな想像をかきたてますが、ここでは紙面の都合ではぶくことにします。
天仁三年(二一〇)大安寺で行われた百数十日間の法談を記した『百坐法談聞書抄』に悪業のみつくる男の前生譚が伝わっています。閻魔王の前に連れていかれた男は、法華経を読んだ功徳でもって現在僧侶となつていると答えると、閻魔王はこの男の七生の先の事を知らなかったと恥じて、いよいよ仏法を修行せよと帰したという話があります。何事においても結縁は空しからずということでありましょうか。
参与770001-4228(本多碩峯)
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