広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

秋田いすゞ

2014-09-29 23:55:51 | 秋田のいろいろ
当ブログで何度か取り上げている、秋田魁新報社会面の連載「シリーズ時代を語る」。
秋田県に関係する人物が、ひとり語り形式で自身の半生を振り返るもの。

連載開始当初は興味がないと思っていた人でも、進むうちにおもしろくなることもある。
個人的にはその人自身よりも、その人が関わった組織や事業、さらにその当時の世の中とか、もっと広い範囲での興味なのだけど。(だから、わざわざバックナンバーを探したりはしません)


9月26日まで45回に渡って、蒔苗昭三郎(まきなえ しょうざぶろう)氏が「県体育協会名誉会長」として取り上げられ、例によって途中から興味が湧いた。
今まで、蒔苗氏といえば、秋田経済界を代表する辻グループの関係者で、スポーツ関係の組織や催しに名前が出てくる程度の認識。
連載を読んでもおおむねその通りで、「スポーツのマネージメントと企業経営を両立させた人物」といった流れだった。

※以下、新聞連載からの抜粋・引用と、一部秋田いすゞ自動車ホームページやWikipediaを参考にしました。
・1932(昭和7)年生まれ。現・大館市比内町出身
・5代目・辻兵吉(つじ ひょうきち・2008年没)氏にバスケットボールをやっていたことを買われ、辻グループの企業「秋田いすゞ自動車(以下、秋田いすゞ)」に入社

・呉服店「辻兵(つじひょう)」は、後に秋田ニューシティ(ダイエー秋田店)となる今の大町二丁目にあり、当時の秋田いすゞはその向かいにあった。
→現在のイーホテルの辺りに秋田いすゞがあったのか。(現在はイーホテルに辻兵商事がテナントとして入っている)
今からすればこんな街中に大型車のカーディーラーがあったとは驚くが、当時は郊外はまだ一面田んぼだったろうし、いすゞ自動車は普通乗用車も販売していたから、中心部にあって当たり前だったのだろう。
【30日追記】秋田営林局(現・東北森林管理局。今と同じく中通?)からトラック購入の相談を受け、カタログを持って自転車で出かけたこともあったそうだ。
2024年に秋田いすゞの一部機能が大町二丁目へ移転。いすゞが大町へ“帰ってきた”。

調べてみると、1947年創業の「米代自動車商会」が1949年に秋田いすゞとなり、1950年にいすゞ自動車特約店となっている。
大町にあったのは、工場部門が1958年、本社は1961年まで。その跡に、本金デパート(以前から大町にあり1959年にデパート化。後に移転して現・西武秋田店)や名店街→イーホテルができたのか?
秋田いすゞの移転先は高陽幸町の新国道沿いで、さらに2006年に臨海バイパス沿いに移転している。高陽幸町の跡地は現・いとく新国道モール。

・辻氏の意向で秋田いすゞにバスケットボール部を創設(1955年)することになり、蒔苗氏がその中心的存在となる。
・当時の秋田いすゞ向かい、辻兵(後のニューシティ)があった場所に辻家の邸宅もあったらしく、その庭をつぶしてバスケットコートを作った。
(再掲)秋田いすゞの新車置き場として使われた時のニューシティ跡。ここが「秋田いすゞバスケ発祥の地」と言えそうだ
・1984年、秋田いすゞが全日本総合バスケットボール選手権大会(天皇杯)で優勝
→当時子どもでスポーツに興味がなかった僕も、「秋田いすゞ」がバスケで活躍した記憶はある。能代工業高校と並んで、バスケ王国秋田を築いたチームだった。

・「いすゞ本社が新高輪プリンスホテルで開いてくれた祝賀パーティーは、豪華そのもので、岡部利雄社長ら幹部も勢ぞろいしていました。」
・「秋田いすゞの活躍は結局、この全日本総合バスケでの優勝がピークでした。財政的にチームを抱えるのがきつくなり、2年半後には本拠地を関東に移し、チーム名も間もなく「いすゞ自動車」に変わりました。」
→いすゞ本社と秋田いすゞは、単なる製造元と地方の一販売代理店にとどまらない、深い関係があったようだ。
いすゞ自動車バスケット部は、現在はいすゞとの関係はなくなった(2002年で休部)ものの「横浜ギガスピリッツ」というチームが流れを汲んで存続しているそうだが、連載では言及なし。

僕の記憶では、「新秋田いすゞ」という会社があって、そこでもバスケ部があったような記憶があるが、連載では言及されなかった。
1963年に秋田いすゞの小型車部門を「新秋田いすゞモーター」として分離、2005年に合併し、再度同じ組織になっているようだ。


辻グループの企業には、「秋田ゼロックス」もあるが、これも秋田いすゞや蒔苗氏が関わるものだった。
・「秋田ゼロックスは当初、秋田いすゞ自動車の複写機事業部としてスタート」
・「(当時の秋田いすゞの)辻兵吉社長が富士ゼロックスの小林陽太郎社長と(略)知り合いだったことが縁で、特約店の話が舞い込んだ」「(ゼロックスは)当時、都道府県に根を張る企業とタイアップして販売展開することを方針」としていて、秋田いすゞに白羽の矢が立ったようだ。
・辻氏側は、「トラックは車体の販売そのものより、修理や部品供給で収益を確保してい」るので、「秋田いすゞの業務と複写機事業に似通った点があるとみて」「トラック事業のノウハウを生かせると考え」て、話を受けたらしい。

・「(秋田)いすゞ内に複写機事業部を設けたのが昭和57(1982)年。」「ちょうどトラック市場が冷え込み、秋田いすゞ自体の売り上げが減り、余剰人員も出ていたころ」
・余剰人員の雇用確保と秋田いすゞを身軽にするため、蒔苗氏が辻社長に進言して「同61年、秋田富士オーエーとして別会社化」。「移った従業員は33人」
秋田富士オーエーは、平成2(1990)年秋田ゼロックスに社名変更。現在は従業員140名、年商40億円。
(再掲)2009年の秋田ゼロックスの竿燈の屋台。秋田いすゞも近くにいた
現在も秋田ゼロックスは富士ゼロックスの特約店ではあるが、別に富士ゼロックス本体の秋田営業所も存在しており、競合している形。
設立時の「都道府県に根を張る企業とタイアップして販売展開することを方針」は撤回されたのだろうか。


蒔苗氏はその後、日本バスケットボール協会副会長に就任。
2000年度から「個人登録制度」を導入し、子どもであっても登録料を払わないと試合に出場できないことにしたという。
これにより「協会収入が大幅に増え、運営を安定化できたのです。」「ここでも経営者としての経験が生きた」と言っているが、それは運営する側だけの理論じゃなかろうか。
スポーツをやらない者の勝手な感覚としては、違和感がある。
【11月27日追記】日本にはバスケットボールのトップリーグが2つ存在し、それを統一できない(統一させられない)のは、日本バスケットボール協会の組織運営に問題があると、国際バスケットボール連盟から指摘を受けていた。それが改善されないとして、2014年11月に、日本は国際試合に出場できなくなる制裁を受けてしまった。
こういう時こそ、「経営者としての経験」を活かしてはいかがでしょうか…


・「マレーシアの国家事業で道路を建設するから、10トンダンプを20台売ってほしいと大手ゼネコンから注文が入ったのです。昭和53(1978)年のことでした。」
「私がゼネコンの社長と家族ぐるみで長らく付き合いを続けてきたのが縁でした。いすゞ本社ではなく、秋田いすゞで受注したことが誇らしかったのです。」
→へぇー。秋田いすゞはそんなに力がある企業だったのか。
繰り返しだけど、地方の一販売代理店と思っていたのに、お見逸れしました。

・マレーシアのトラックは、
「販売実績を上げるため、全車を秋田ナンバーで登録。」「(マレーシアでは)秋田ナンバーを付けたダンプがぶんぶん行き交っていました。」
→ここが理解できなかった。
海外なのに「秋田」ナンバー、すなわち日本の運輸省(当時)に登録するというのが分からない。「マレーシア」ナンバーにするんじゃないの?
調べてみると、「国際ナンバー」とか「海外渡航用ナンバー」と言って、自国の車を一時的に他国へ持って行って使い、また自国に持ち帰るための制度らしい。輸出入には該当せず、関税は免除。マレーシアの一件はこれに該当するのだろう。

ただし、ナンバーの登録地名はアルファベット表記。「秋田」は「AKT」だが、1978年当時は「秋」ナンバーだったから「AT」だったようだ。
だから、正確には「ATナンバーを付けたダンプがぶんぶん行き交っていました。」ということだろう。

もう1つ。これはいすゞ自動車とその販売会社との取り決めなのかもしれないが、「販売実績を上げるため、全車を秋田ナンバーで登録。」という部分。
日本国内の国際興業グループのバスのことを考えた。
国際興業グループの各バス会社は、購入する車両は原則としていすゞ製のみ。
これは、(いすゞ本社ではなく)販売会社の「北海道いすゞ」が国際興業グループであるためだそうで、グループ各社は地元の販売会社ではなく北海道いすゞを通して購入する決まりだとか。

ということは、例えば秋田県の秋北バスがいすゞの新車を買う場合、秋田いすゞではなく、北海道いすゞとの間で段取りをするのだろう。
でも、石川や栃木の工場から秋田に運んで納車するために、わざわざ北海道から人が来たりするのは大変そう。もしかしたら、北海道いすゞが関わるのは書類上の形式的なことで、実際には秋田いすゞが頼まれて手を貸したりするのだろうか? などと、以前から疑問に思っていた。
※購入後のメンテナンスは、大館にも拠点がある秋田いすゞが行うのだろう。
(再掲)北海道いすゞから購入したであろう、秋北バスのいすゞガーラ
それに加えて、今回の「販売実績を上げるため、全車を秋田ナンバーで登録。」というくだり。
それなら、秋北バスに納入する車両を北海道いすゞの販売実績とするためには、札幌ナンバーとかにしないといけないことになるのでは?
でも、秋田県内で旅客営業するには秋田ナンバーでないといけないわけだから、それだと国際興業グループではない秋田いすゞの販売実績になってしまうのでは?
北海道いすゞが無駄骨を折っているわけではないだろうし、今は違っているのかもしれないが、蒔苗氏の話とはつじつまが合わなくなる。
(蒔苗氏は車両販売よりも「修理や部品供給で収益を確保」しているとも発言しているから、北海道いすゞの収益は大したことなく、メンテナンスをしているであろう秋田いすゞなど各地の販売会社が国際興業グループのおこぼれをちょうだいしているとも言えるか)


・マレーシアでは、
「ダンプはいすゞ製の新車です。かなり激しい使い方をしていましたが、そうそう壊れません。」社員を交代で滞在させたが、消耗品交換が大半だった。
→さすが「♪いすゞのトラック~」
元秋田市営バスの車両だって、同時期の他メーカー製よりも長く走り続けている。

そういえば、秋田市営バスでも、小型から大型まで、路線から貸切までさまざまないすゞのバスが活躍した。
個人的には、新塗装時代のいすゞ製中型バスは、窓が大きく、さらになぜか他メーカーよりも座席が1列少なくて足元がゆったりしていて好きだった。
1985年導入の路線貸切兼用(ワンロマ)車は、モデルチェンジ後、秋田県内では初の納車先だったかもしれない。大きなフロントガラスや角張ったボディがとても斬新でカッコよく思えた。
(再掲)1985年導入のワンロマ車
でも、中型バスのオートマチック車は、4メーカー中で唯一導入されなかったのがいすゞだったし、当時は画期的だったワンステップ車は日産ディーゼルに先を越されて二番手の導入になってしまった。(その分、大型バスや貸切車両に重点を置いて導入されていた裏返しではある)
中央交通が欲しがったのか、移管に際して優先的に譲渡されたのがいすゞ製の車で、市営バスから真っ先になくなったメーカーがいすゞでもあった。
【30日追記】改めてまとめてみれば、市営バスの新車導入は、日野と日産ディーゼルが1996年度、三菱は1995年度がそれぞれ最後。いすゞは1994年度で、4メーカー中、いちばん早く終了している。これはたまたまなのか、秋田市交通局側に何らかの意図があったのか? いずれにせよ、市営バス末期ではいすゞの影は薄かった。


僕が通った幼稚園では、年長さんの時に社会科(?)見学みたいなのがあって、行き先は国鉄土崎工場(現・JR東日本秋田総合車両センター)と、当時は新国道にあった秋田いすゞの2か所だった。
だけど、両方を見学できるわけではなく、園児を半数ずつに分けて、どちらか片方だけ。
しかも、誰がどちらに行くかは、その園児が進学する小学校(つまり住んでいる場所)で一方的に振り分けられてしまった。
僕は、秋田いすゞのほう。

僕は、当時は鉄道は好きだったが、バスやトラックには興味がなかった。
だから、土崎工場に行かれないと知った時は、大きなショックを受け、「いすゞなんか見なくていい!」と当日はふてくされてお休みしてしまった思い出がある。
今にして思えば…やっぱり鉄道のほうがいいかな? でも、総合車両センターなら一般公開があるけど、いすゞはないし…


蒔苗氏のスポーツと企業経営よりも、いすゞのことに興味を持ってしまった、今回の「時代を語る」でした。
興味がある方は、バックナンバー(縮刷版は未発行)や後に刊行されるであろう書籍をご覧ください。

【2021年11月12日追記】蒔苗昭三郎氏は、2021年11月11日、89歳で亡くなった。

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7 コメント

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Unknown (聞茶)
2014-10-01 00:24:42
私も秋田いすゞが実業団バスケで活躍していた時代を直接は知りませんが、
ノーザンハピネッツ前ヘッドコーチの中村和雄氏も秋田いすゞに在籍していた時期がありますし、
県内バスケット界において秋田いすゞが果たした役割は大きかったのでしょうね。
以前秋田ニューシティ跡地にハピネッツのアリーナを整備するという構想があったはずですが、
こういったゆかりのある場所だったことを踏まえると納得です。
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そうでした! (taic02)
2014-10-01 23:57:43
産業会館跡地もしくはニューシティ跡地にプロバスケ施設構想がありましたね。
http://blog.goo.ne.jp/taic02/e/7057751a0ffbed6dd4cb78bc2ae3d283
立ち消えたようですが、ニューシティ跡地で実現していたら、まさにふさわしい場所で聖地になっていたことでしょう。
返信する
道南バスにエルガミオ新車両登場 (B’zライブトラック)
2014-10-25 21:38:28
道南バスに中古では無く新車両のエルガミオが入りました。また、側面方向表示の位置も大型車と同様、扉の前に付いていて北海道の中型バスとしては初めてなんでしょうね。そろそろ中央バスにエルガミオとレインボー2skgノンステとワンステ登場してもおかしくありませんね。三菱ノンステ車だけは無いのも不思議ですし、中央バス事業としては、気に入らないのでしょうかね。
返信する
三菱ふそう最新未発表? (B’zライブトラック)
2014-10-27 23:47:28
話変わります。
まずは、エアロクィーンエアロエースの2014年モデル、まだホームページには載ってはいないようで、未定なのでしょうね。あとエアロミディもそろそろフレモデルチェンジしそうですね。次のモデルは顔が変わるのでしょうかね。三菱商用バンもどうやらまだ未定のようですね。2015年までに大型~小型までフレモデルチェンジを行うのでしょう。
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エアロスターしか (taic02)
2014-10-29 00:02:44
エアロスターしかモデルチェンジしてないんですね。
他はすっかり見慣れた車になってしまいましたが、そろそろ変わる時期でしょうか。
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Unknown (Unknown)
2021-11-12 22:15:19
先代辻兵吉氏(4代目と6代目以降は未だにいませんが)の義弟ですね。

その関係で、グループの会長を束ねている方です。
返信する
逝去 (taic02)
2021-11-12 23:27:38
2021年11月11日に89歳で亡くなったとのこと。
近年は要職を退いていたなどと報道されていますが、影響力はあったはずで、今後の辻グループはどうなっていくでしょうか。
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