秋田魁新報のくらし面に「えんぴつ四季」という投稿欄がある。朝日新聞の「ひととき」欄のような、エッセイ的なもの。
地方紙ならではの投稿が載ることがあり、例えば、2016年5月20日付の91歳の女性の「昔の太平登山」という投稿が興味深かった。それによれば、1937年の(秋田市立)中通小学校では、午前3時半に学校を出発し、全行程徒歩で太平山前岳山頂までの日帰り登山をしたという、今では信じられないし、知る人も少ないであろう、貴重な昔話だ。
【2018年5月12日追記】中通から前岳山頂までは、直線距離でも14キロ。小学生が日帰りで往復30キロ以上+登山したというのが、信じられない。
うちのばあさんも似たような話をしていたのを思い出した、1920年代後半~1930年代前半(大正末期~昭和初期)かと思うが、船川港町の小学校(現・男鹿市立船川第一小学校)では、全校一斉に徒歩での寒風山登山遠足(行事の名称は正確には聞いていない)をしていたという。
学校と寒風山は、直線で5キロ強。男鹿線で1駅隣の羽立駅まで行けばいくぶん近いけど、そんな話はしていなかったはず。
標高355メートルのなだらかな寒風山を、上級生は頂上まで、下級生は途中まで登っていたとか言っていたし、中通小にはかなわないけれど、学校から山のふもとまで歩いた上に山登りすること自体、今からすればすごい。やっぱり昔の人はよく歩いたようだ。(以上追記)
4月8日付は、珍しく県外から。関東地方の45歳女性による「母の故郷の駅舎で…」。
内容は、足が悪くなった母に代わって、投稿者が「母の故郷である秋田を訪れた」。墓参の後「ふと思い立って母の生家近くにあるJRの駅へ足を向けた」。
その駅にたたずむと、自分が幼い頃、この駅に来た時のことが思い出され、懐かしくなったといったもの。
一読して興味を持ったのは、どこの駅を指しているのかということ。
文中には駅名も地名もないものの、「長く広いプラットホームと地下通路は往時の面影を残していた。」とある。
特に「地下通路」が気になる。
改札口とホームを行き来する通路のことだろう。秋田県内で、というか地方の駅で地下通路がある駅って、さほど多くない。全国的には三島、沼津、熱海、盛岡とか。
秋田県内では、羽越本線・羽後牛島駅と、奥羽本線・井川さくら駅くらいしか思い浮かばない。井川さくらは1995年に新しくできた駅だし、「広い」とは言えないので、明らかに違う。羽後牛島もホーム自体は広くはないが、駅構内はかつて貨物扱いがあった名残りで広い。「駅構内」という意味で「ホーム」としたとすれば、羽後牛島のこと?(そもそも「ホームの幅」って、どの駅もさほど違わない) 投稿には駅舎についての多少の言及もあるが、「~ようだ」程度のあいまいなもので、ヒントにはならない。
ほかに県内に地下通路のある、かつ広い駅ってあるだろうか。
どこの駅かは置いておいて、注意深く読むと、もう1つ引っかかることが。
その駅にいると「この駅から初めて乗った蒸気機関車内の景色や出来事がよみがえってきた。」とある。
「蒸気機関車内」だと、蒸気機関車本体、つまり運転台内ことかと受け取れるが、内容からして「蒸気機関車にひかれた後方の客車内」という意味なのは、いいとしましょう。
よみがえった車内の思い出は具体的には床の油のにおい、木枠の窓、丸い室内灯、木の網棚、木製で硬い背もたれの座席などが挙げられており、旧型の客車であることが分かる。
秋田では、1980年代前半まで雑多な旧型客車が使われていて、僕も乗った記憶がある(この記事末尾)。
引っかかるのは、投稿者の年齢からして「子どもの頃に秋田県内で蒸気機関車の列車に乗った」ことが、あり得たのかということ。
投稿中では、煙のにおいと蒸気音についての言及もあるので、電気機関車やディーゼル機関車とすべきところを、間違ったり誤解したりして蒸気機関車と表記してしまった、つまり言葉を間違えてしまった可能性は低い。
秋田県の国鉄路線では、多くの路線で1972年前後を最後に蒸気機関車が走らなくなっている。
いちばん遅くまで蒸気機関車が走っていたのは阿仁合線(現在の秋田内陸縦貫鉄道のうち、鷹巣-米内沢)で、1974(昭和49)3月まで。
ちなみに、国内で最後まで残っていたのは北海道で、1976年3月まで。
仮に投稿者が乗ったのが1974年3月の阿仁合線だとしても(投稿では「JRの駅」とあるので、現在該当するのは鷹巣=鷹ノ巣駅だけ。その鷹ノ巣駅には地下通路はないので違いそうだが)、投稿者のお歳からすれば2~3歳の時のことになる。(地下通路が怖かったのは小学生の時とあるが、蒸気機関車に乗った年齢については言及がなく、それ以前とも取れる)
後に蒸気機関車が復活運行されるのは、県内では1989年以降だし、それに乗ったとしても、人が多くてのんびりとした沿線や車内ではないだろう。
投稿者が素晴らしい記憶力の持ち主なのかもしれない。
あるいは、投稿者が年齢にサバを読んでいるのか、魁が年齢を誤植したのかもしれない。
はたまた、記録されてはいないが、実は1974年より後でも、ひっそりと蒸気機関車が運行されていた可能性もなくはない。
だけど、その駅から(電気機関車やディーゼル機関車がひく)旧型客車に乗った記憶に、後年の蒸気機関車の復活運行で乗った記憶などが混ざってしまって、実際とは異なる「秋田での記憶」となってしまっているのではないだろうか。
投稿者を責めるつもりはない。「昔来た場所を再訪し、懐かしくなった」という投稿の大筋には影響はないし。欄の性質からして、必ずしも事実のみを伝える必要も高くはないかもしれない。
だけど、仮にも新聞紙面の中のこと。新聞社がノーチェックで掲載してしまうのはいかがなもんだろう。投稿者に「投稿内容はどこの駅でいつ頃のことですか? 紙面には載せませんけど念のため」程度の確認はし、そのウラを取るほうがいいかもしれない。
揚げ足を取って申し訳ないし、感じ方・考え方は様々あって当然だけど、事実は1つなのだから。
当ブログでも、記憶を頼りに昔の思い出をたまにアップしている。自分の記憶にけっこう自信はあるつもりだけど、確かに経験した出来事のはずなのに、その記憶がまったく抜け落ちているなんてことはある。人間の記憶なんて、いい加減なものなのです。
地方紙ならではの投稿が載ることがあり、例えば、2016年5月20日付の91歳の女性の「昔の太平登山」という投稿が興味深かった。それによれば、1937年の(秋田市立)中通小学校では、午前3時半に学校を出発し、全行程徒歩で太平山前岳山頂までの日帰り登山をしたという、今では信じられないし、知る人も少ないであろう、貴重な昔話だ。
【2018年5月12日追記】中通から前岳山頂までは、直線距離でも14キロ。小学生が日帰りで往復30キロ以上+登山したというのが、信じられない。
うちのばあさんも似たような話をしていたのを思い出した、1920年代後半~1930年代前半(大正末期~昭和初期)かと思うが、船川港町の小学校(現・男鹿市立船川第一小学校)では、全校一斉に徒歩での寒風山登山遠足(行事の名称は正確には聞いていない)をしていたという。
学校と寒風山は、直線で5キロ強。男鹿線で1駅隣の羽立駅まで行けばいくぶん近いけど、そんな話はしていなかったはず。
標高355メートルのなだらかな寒風山を、上級生は頂上まで、下級生は途中まで登っていたとか言っていたし、中通小にはかなわないけれど、学校から山のふもとまで歩いた上に山登りすること自体、今からすればすごい。やっぱり昔の人はよく歩いたようだ。(以上追記)
4月8日付は、珍しく県外から。関東地方の45歳女性による「母の故郷の駅舎で…」。
内容は、足が悪くなった母に代わって、投稿者が「母の故郷である秋田を訪れた」。墓参の後「ふと思い立って母の生家近くにあるJRの駅へ足を向けた」。
その駅にたたずむと、自分が幼い頃、この駅に来た時のことが思い出され、懐かしくなったといったもの。
一読して興味を持ったのは、どこの駅を指しているのかということ。
文中には駅名も地名もないものの、「長く広いプラットホームと地下通路は往時の面影を残していた。」とある。
特に「地下通路」が気になる。
改札口とホームを行き来する通路のことだろう。秋田県内で、というか地方の駅で地下通路がある駅って、さほど多くない。全国的には三島、沼津、熱海、盛岡とか。
秋田県内では、羽越本線・羽後牛島駅と、奥羽本線・井川さくら駅くらいしか思い浮かばない。井川さくらは1995年に新しくできた駅だし、「広い」とは言えないので、明らかに違う。羽後牛島もホーム自体は広くはないが、駅構内はかつて貨物扱いがあった名残りで広い。「駅構内」という意味で「ホーム」としたとすれば、羽後牛島のこと?(そもそも「ホームの幅」って、どの駅もさほど違わない) 投稿には駅舎についての多少の言及もあるが、「~ようだ」程度のあいまいなもので、ヒントにはならない。
ほかに県内に地下通路のある、かつ広い駅ってあるだろうか。
どこの駅かは置いておいて、注意深く読むと、もう1つ引っかかることが。
その駅にいると「この駅から初めて乗った蒸気機関車内の景色や出来事がよみがえってきた。」とある。
「蒸気機関車内」だと、蒸気機関車本体、つまり運転台内ことかと受け取れるが、内容からして「蒸気機関車にひかれた後方の客車内」という意味なのは、いいとしましょう。
よみがえった車内の思い出は具体的には床の油のにおい、木枠の窓、丸い室内灯、木の網棚、木製で硬い背もたれの座席などが挙げられており、旧型の客車であることが分かる。
秋田では、1980年代前半まで雑多な旧型客車が使われていて、僕も乗った記憶がある(この記事末尾)。
引っかかるのは、投稿者の年齢からして「子どもの頃に秋田県内で蒸気機関車の列車に乗った」ことが、あり得たのかということ。
投稿中では、煙のにおいと蒸気音についての言及もあるので、電気機関車やディーゼル機関車とすべきところを、間違ったり誤解したりして蒸気機関車と表記してしまった、つまり言葉を間違えてしまった可能性は低い。
秋田県の国鉄路線では、多くの路線で1972年前後を最後に蒸気機関車が走らなくなっている。
いちばん遅くまで蒸気機関車が走っていたのは阿仁合線(現在の秋田内陸縦貫鉄道のうち、鷹巣-米内沢)で、1974(昭和49)3月まで。
ちなみに、国内で最後まで残っていたのは北海道で、1976年3月まで。
仮に投稿者が乗ったのが1974年3月の阿仁合線だとしても(投稿では「JRの駅」とあるので、現在該当するのは鷹巣=鷹ノ巣駅だけ。その鷹ノ巣駅には地下通路はないので違いそうだが)、投稿者のお歳からすれば2~3歳の時のことになる。(地下通路が怖かったのは小学生の時とあるが、蒸気機関車に乗った年齢については言及がなく、それ以前とも取れる)
後に蒸気機関車が復活運行されるのは、県内では1989年以降だし、それに乗ったとしても、人が多くてのんびりとした沿線や車内ではないだろう。
投稿者が素晴らしい記憶力の持ち主なのかもしれない。
あるいは、投稿者が年齢にサバを読んでいるのか、魁が年齢を誤植したのかもしれない。
はたまた、記録されてはいないが、実は1974年より後でも、ひっそりと蒸気機関車が運行されていた可能性もなくはない。
だけど、その駅から(電気機関車やディーゼル機関車がひく)旧型客車に乗った記憶に、後年の蒸気機関車の復活運行で乗った記憶などが混ざってしまって、実際とは異なる「秋田での記憶」となってしまっているのではないだろうか。
投稿者を責めるつもりはない。「昔来た場所を再訪し、懐かしくなった」という投稿の大筋には影響はないし。欄の性質からして、必ずしも事実のみを伝える必要も高くはないかもしれない。
だけど、仮にも新聞紙面の中のこと。新聞社がノーチェックで掲載してしまうのはいかがなもんだろう。投稿者に「投稿内容はどこの駅でいつ頃のことですか? 紙面には載せませんけど念のため」程度の確認はし、そのウラを取るほうがいいかもしれない。
揚げ足を取って申し訳ないし、感じ方・考え方は様々あって当然だけど、事実は1つなのだから。
当ブログでも、記憶を頼りに昔の思い出をたまにアップしている。自分の記憶にけっこう自信はあるつもりだけど、確かに経験した出来事のはずなのに、その記憶がまったく抜け落ちているなんてことはある。人間の記憶なんて、いい加減なものなのです。