田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

会社を辞めるとき、辞めたとき

2014年10月10日 | 仕事
 サイバーエージェントの藤田社長が新事業を任せていた若手社員の退職に激怒した理由が「バイトを辞めるかのようにだった」とコラムに書いていた。また、退職は競合の引き抜きであり、その社員は過去に億単位の損害を与える失敗があったそうで、かなり怒っての発言だ。

 
 これは経営者の意見であって、労働者には法律で定められた権利があることは言うまでもないが、人情とか道理、義理を軽んじてはならない。近頃、ブラック企業やら、雇う側が『即戦力』などと言い、社員を育てる努力をしていない。企業に言わせれば、社員を育てる余力が無いのであろうが、大きな責任を負わされた上に、辞めさせない会社もあり、若者が働きにくくなっている。

 
 労働環境は、私が経験した1970年代の頃がはるかに良かった。企業戦士の言葉に酔わされて猛然と働いたが、一日一日能力が身についた。全員に余裕があり、あうんの呼吸で業務の分担ができた。だからかもしれぬが、セクハラはなかった。上昇志向の女性にも管理職の門戸は開かれていたが、男と同じ、もしくはそれ以上の相当な努力を強いられた。私はそんな女性の部下になったのが幸いだった。

 
 当時勤めた会社は特殊で、3年働いて一人前と言われた。すなわち利益を上げられる社員になるまでに3年必要と言われた。それまでにかかる費用が経費と税を含め、おおよそ3,000万円かかった。その後およそ10年間をせっせと会社に利益を生ませ、会社に残る者、独立する者、転職する者に分かれたのであった。社に残る者は幹部の道を歩くのだが、おおよそ入社時に決まっていたようである。国家公務員とほぼ同じであった。たまに兵士として採用された高卒の子が、夜間大学へ通学した事例もあったが、なかなか管理職には届かなかったのが事実であるが、本人のためには良いことであった。

 
 退職は上司の許可と経営者(3名)の同意があって許された。就労規則は厳しく、許されない副業が発覚した場合は、解雇に準じた退職勧告があり不名誉なことであった。晴れて上司の許可が出て、経営者に辞表が回っても簡単には許されなかった。辞める理由を述べるのだが、社に不満があれば、それを解消してから辞めろと言われた。不思議と給料の不満を述べる者は少なかった。決して高くは無かったが、手に職が付く分を給料と考えたのであろう。

 
 なぜこのように退職者に対して厳格であったかと言えば、私の地域では同業者間の転職は良しとされていなかった。互いの経営者の同意、良くある話だったが、経営者の娘さんとの婿入り結婚などが良い例であった。これ以外は、最低でも数年間の猶予をおかねば、採用しない不文律があった。道理であろう。

 
 退職までの残された期間中は、社に利益をもたらす事のみならず、後継者を育てなければならぬ使命があった。働かせてもらった社への義理である。晴れて退職できた私だったが、独立は簡単では無かった。食うや食わずのちっぽけな私の事務所に、仕事を与え続けてくれたのが元の経営者であった。

 
 その後社は分裂し、私がもっとも恩義に感じていた経営者が私を誘ってくれたが、私は経営者個人と同様に会社の名にも恩義を感じていた。社を引き継いだ経営者の恩義に報うのを道理とした。三人の元経営者は皆お亡くなりになった。元の社の人々とは人情と道理、そして義理で結ばれている。それが薄くなったぶんだけ、日本が弱くなったような気がしてならない私である。もう一度強い日本を望む。働く人には、決して悪い環境じゃなかったからである。

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