今朝の朝刊に西村明氏が『テーブルを囲む大切さ』の随筆を書いていた。西村氏の研究分野は「現在を生きる者たちにとって、死者とはどのような存在か」などの研究をされている東大準教授だそうです。
先生は神道・仏教・キリスト教・新宗教の方々とシンポジウムを持ち、冒頭で「普段はこういう場所で乾杯と言うことはしないのですが・・」と前置き、乾杯をお願いしたそうだ。先生は冷や汗ものだったと書いている。
今まで何も考えず飲み会などで『乾杯』をしてきた私だ。乾杯の音頭を依頼されたこともあったが、主催者の幸を願うのみで、乾杯の意味などは考えもしなかった。その考えに冷や水をさしたのが、我が家の祝儀で義姉が乾杯しなかったことであった。ネットで調べるに、キリスト教原理主義であるエホバの証人は、乾杯を宗教儀式と位置づけ、信者に禁止しているそうであった。酒席で乾杯をしないことは、酒席の目的を否定することにもなりかねぬ。これを義兄に話したら「ならば、献杯なら良いのではないか」と、私の知らなかった『献杯』なる言葉を使った。
さて献杯をネットは「葬儀や法事などにおいて、故人を悼み、杯を捧げる場合、献杯という言葉を用いるのが慣例」とある。これであると献杯は宗教儀式に位置づけられても仕方がない。しかし諸説に、京都のある葬儀社が始めたことが一般的になったとも聞いたことがある。思い出すに、昭和の中頃には無かったように思う。
乾杯も献杯も、わが国の宗教行為では無いと思う。先生が言うように『テーブルを囲む大切さ』で、皆が会しての一声に過ぎないと思う私である。飲み、食べ、話し、笑うことで、先生の言う『土』ができ、次につながるのだと思うのである。良い記事を読んだ。
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