木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

水茶屋と笠森お仙

2012年05月15日 | 江戸の風俗
水茶屋はもとはヨシズ張の小屋で、日中に商いをし、日が暮れると店じまいをする出茶屋であった。
当初は街道や神社仏閣などの付近に設けられ、腰掛茶屋とも呼ばれる粗末なものであったが、次第に町内にも増えていった。神社や寺の水茶屋はその後もほとんどが出茶屋であったが、町内の水茶屋は、享保の終わり頃から、座敷などのついた居茶屋が見えるようになる。
水茶屋は現代でいうところの喫茶店であるが、茶酌女が若く綺麗な娘だったところから、娘目当ての男連中が押し寄せるようになる。
寛政以前では、客はお茶の代金のみ置いていったが、後にはお茶代の何倍、何十倍もの金を置いて行く客が多くなった。
水茶屋は見栄っ張りな江戸っ子の射幸心を煽ったのであろう。人々は競うように高い金を置いて行く。上方ではらこうはいかないのであろうが、朱に交わって赤くなったのか、上方から下った歌舞伎作者の並木五瓶もずいぶんと江戸では水茶屋で無駄な金を遣っている。
水茶屋でもっとも有名なのは浅草観音境内の二十軒茶屋である。この茶屋は、参拝客の休憩所であったが、一方では吉原通いの者も休憩するようになり、美女を置くようになった。
水茶屋の全盛期は、田沼時代の直前の明和から安永にかけてで、この頃には一枚絵にも描かれる看板娘が現れるようになる。
ひとくちに水茶屋といっても時期が長いので、初期と後期ではかなり雰囲気も違うのであるが、標準的な水茶屋は表に床几や腰掛けが出してあり、その上にムシロ、さらに座布団が敷いている。店先には朱塗りのかまどがあって、そこには真鍮の茶釜が置いてある。横には「お休み処」と書かれた長方形の行燈が掛っていた。
酒は出せないのが原則であったが、こっそり頼むと腰の瓢箪からお神酒が出てきたこともあるらしい。
水茶屋御法度で「身売り同様のことを致し」不届きである、といった文が見られるところからも、一部では春が売られていた。
天保の改革では厳しい取り締まりにあったせいもあり、天保以降、揚弓屋へと人気が移って行くことになる。

笠森お仙」は、明和五年の秋頃に現れた看板娘である。
お仙は、谷中の水茶屋「鍵や」の看板娘であった。あっと言う間に、鈴木春信が浮世絵に描くほど人気者となり、その当時の江戸三大美女と称賛されたが、お仙の人気は抜きんでいていた。
後にお仙は、御庭番である倉地政之助の女房になる。
今でいえば、人気絶頂のアイドルが公務員に嫁ぐような感じであるが、百姓の出であるおせんにしてみれば旗本の奥方は出世には違いない。
もともと、御庭番は吉宗が紀州から連れてきた信頼のある一七家を基礎としている。倉地家もその一七家のうちの一家であるが、吉宗に同行した政之助の祖父・文左衛門が、笠森稲荷の大の信者だった。政之助とお仙の結びつきも、その縁が大きかったのだろう。
御庭番というのは、公儀隠密であり、その妻となったお仙は、気苦労も多かったであろうが、子宝にも恵まれ、七〇歳の天寿をまっとうしている。


今も人でにぎわう浅草寺

↓ よろしかったら、クリックお願いします。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村


最新の画像もっと見る

コメントを投稿