木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

吉原への道

2012年05月16日 | 江戸の風俗
明暦の大火、いわゆる振袖火事で江戸の多くは灰燼に帰した。
葺屋町(現代の中央区日本橋人形町付近)にあった吉原も同様に、灰となった。
もともと、明暦の大火以前に、あまりにも繁華街に近い場に遊郭があることを憂慮していた幕府は吉原の移転を命じる。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。
幕府の優遇措置もあり、移転を認めた吉原の住人たちは、新天地へと移動する。
この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。
かくなる事情から、新吉原は江戸の外れといってもよい場所に位置した。

現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、ごく一部の人間以外にはどこにあるのかイマイチ分かりにくい場所にあるのだが、JRでいえば日暮里が最寄駅となる。
ただ、江戸時代の人間であれば、日本橋や神田、浅草方面から行くのがごく普通であった。
江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」も吉原は格好の研究対象と思ったのか、かなり詳しく記載している。

昔、新吉原に通うの遊客は専ら雇馬にのりて行く。すなわち馬士{まご}、小諸節を唄い行く。

とある。何とも牧歌的な光景であるが、わざわざ、「昔」と断っているところを見ても、江戸後期にもなって、吉原に馬で通う人間は少なかったのだろうと思う。
「守貞謾稿」では、馬や駕篭、舟での所要料金も記載している。
またもや、1文=30円レートで計算してみる。

馬     並二百文(6,000円) 白馬三百四十八文(10,440円) 日本橋~大門
駕篭   二朱(15,000円) *雨の場合は増賃  小伝馬町~大門
猪牙舟 百四十八文(4,440円)  
屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円) 柳橋~山谷堀


ちなみに、現代の小伝馬町から台東区千束までのタクシー料金をみてみると、10km程度なので2,000円弱である。
江戸時代の人は現代人が電車やバスを乗るのと、同じ感覚で歩いていた。現代人が電車やバスを乗り継いで行ける場所にタクシーを使う場合の費用格差よりも、江戸のほうの格差が大きかった。
江戸は贅沢に関してはかなりきっちりと金を払っていた時代だと言えよう。

現代人の感覚からすると、やはり舟で行くのが趣があるように思う。
柳橋は現代でいうと、JR総武線の浅草橋駅の近く。この辺から舟に乗って大川(隅田川)に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が8丁(900m弱)だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。衣紋坂という堤から一般の道へ降りる坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折された五十間道(三曲りとも言われた)が広がる。やがて、大門が見える。大門は、「おおもん」と読む、と「守貞謾稿」もわざわざ書き加えている。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。


日本堤公園。堤という江戸の面影は全くないが、確かにまっすぐである。今でも、この地には日本堤という地名が残っている。


なんとなく寂しげな見返り柳。今ではあまり見向いてくれる人がいないのだろう。


五十間道。この地形はうれしい。多分、昔と変わっていないのだろう。三曲りと呼ばれた地形がよく分かる。

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