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先回の番外編で、「戦争で自ら尊い命を犠牲にした人を祀る所に、戦争の記念日に首相が行く」という世界的に何の問題の無いことを、朝日新聞という日本人が「東京裁判のA級戦犯の靖国参拝」という間違った言葉を使ったことで、日中間の争いになったことを示した。
現実には戦後の東京で「リンチ」は行われたが、「裁判」が行われていないのだから「犯罪人」もいないので、すべては朝日新聞という日本人がねつ造したもので、それが元になって日中間の争いが生まれているのだから、中国の責任ではなく、日本の責任と考えられる。
靖国問題が「日本人が創造した日中問題」の1に相当するが、これに類似したのが「南京事件(反日日本人の命名による南京虐殺事件)」である。
1930年代の終わりの頃、南京付近で起きた日中間の紛争は、1937年に起こった上海事変(第二次)から戦闘が広がって南京事変に至った約5か月間のことである。
事実は簡単で、清朝を滅ぼした中華民国の軍隊がドイツなどの支援を受けて次第に力をつけ、当時、上海に駐留していた日本軍に攻撃を掛けて追い出そうとした。
この軍事行動は、もともと中国の領土だった上海に、日本、イギリス、フランス、アメリカなどが一部を占領して「租界地」を作り、そこに自国軍隊を派遣していたのだから、中国が力をつければ反撃は当然のことでもある。
前の政権(清朝)の時に奪われた国土だから、新政権(中華民国)が領土回復を期して外国軍を攻めるのは問題ではない。中華民国は精鋭部隊を上海に投入して租界地を持っていた5カ国のうち、日本軍を攻めた。
しかし、当時の日本軍は強かったので、激戦の末、上海戦に勝ち、逃げる中国軍を追って当時の首都の南京に到達した。1937年12月のことである。
南京に日本軍が迫る中、中国の民間人はかなり南京から奥地に逃げたが、それでも20万人程度の民間人が軍と一緒に南京城に残った。ところが「普通の戦争の常識」と「中国という国の常識」が大きく違うことが起こった。
中国軍は自ら仕掛けて上海で日本軍を攻撃し、敗退して南京まで下がった。南京は当時の首都で、難攻不落の南京城で囲まれ、軍隊も首都防衛軍がいる。史上名高いコンスタンチノーブルの戦いやさまざまな攻城戦などの例から見ても、世界の常識ならそこに立てこもって最後の一戦ということになる。
ところが世界の常識と中国の常識は違う。こともあろうに総大将の蒋介石は日本軍が南京城を包囲した12月9日の2日前に逃亡、続いて総大将の唐生智も12日の逃亡。首脳部は逃亡したのに兵は逃亡できないように長江への逃げ道に「督戦隊(逃げる味方を打ち殺す任務を持った憲兵隊)」を配置した。
攻城戦では攻める側は城の中がどうなっているかは不明だから、攻撃をし始めたら城の中に砲弾を撃ち込む。そうすると無差別に殺すことになるので、かならず「投降勧告」を行い、1日ほど置いて白旗が上がらなければ攻撃を開始するという手順を踏む。
この場合も12月9日に南京城を包囲し、降伏しなければ翌日の正午から攻めるという投降勧告を行ってから日本軍が攻め入った。南京城の中には中国側や外国人がいる「非戦闘地域」があったが、攻める日本軍に地図が示されているわけではないので、どこが非戦闘地域か不明だった。
事実を確認するのは大切な事で、日中間に故意に争いをもたらすのは両国にとって望ましくない。反日日本人が事実と違うことを作り上げたことで、日中間にいざこざが起こるのは実にばからしい。
(平成25年10月26日)
武田邦彦