壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

天性のまこと

2010年03月21日 22時32分46秒 | Weblog
        草麦や雲雀があがるあれさがる     鬼 貫

 『仏兄七久留万(さとえななくるま)』(鬼貫編、享保十二年〈1727〉序)所出。
 「草麦(くさむぎ)」とは、出穂前の青々とした麦をいう。春の田園風景ののどかな感じがよく出ている。鬼貫の句は、即興性の句の多いことがひとつの特色となっているが、その場合、表現は多く口語調の形をとっている。
 鬼貫は、『仏兄七久留万』の自序で、
        乳ぶさ握るわらべの花に笑ミ、月にむかひて指さすこそ天性のまことにハあらめかし。
        いやしくも智恵といふ物いでてそのあしたをまち、その夕べをたのしとするより偽のは
        しとハなれるなるべし。
 と述べ、幼童純真の境に「天性のまこと」を認めている。
 同書によれば、この句は、鬼貫三十九歳ごろの作と推察されるから、晩年に唱えた童心主義は、このころ既に作品として具現化されていたと見てよいだろう。
 童心にかえって雲雀(ひばり)の動きにうち興じているこの句には、「句整(ととの)はずんば舌頭(ぜっとう)に千転せよ」(『去来抄』)と芭蕉が説くような、厳しい言語彫琢の跡は認められない。また、一句の誠を責め抜いた作品のみに感じ取れる、芸術的な香気も感じられない。
 だが、一句として成功しているのは、作者の無邪気な感動が、「雲雀があがるあれさがる」という一見、無造作に見えながら、じつは雲雀の習性を正確に捉えた表現で詠い出されているからであろう。

 季語は「雲雀」で春。

    「うららかに照っている春の日、あたり一面、青々と伸びている麦畑の中で、雲雀がさえ      
     ずりながら空高く舞い上がっていったかと思うと、もうせわしげに舞い降りている」


      松林図観てさへづりの中にをり     季 己