鶯の笠落としたる椿かな 芭 蕉
『蕉翁全伝』元禄三年の条に、「此の句 西島氏百歳子のもとにての事なり。二月六日、歌仙一巻有り』と注記がある。
これから見て、当主百歳に対する挨拶の心があったはずである。百歳の住まいの庭前の景を詠みすえ、その閑雅なさまをたとえたものと思われる。
鶯の笠に梅を連想するのは、古典和歌以来のありふれたしかたに過ぎない。それを実景に即して椿に転じ、「笠」について「縫う」とか、「被(かぶ)る」あるいは「かざす」などという常識的な発想にとどまらずに一歩俳諧化して「落としたる」と興じたところに、俳諧の新しみがはっきりと認められる。
「梅の笠」というのは、『古今集』に
鶯の 笠に縫ふてふ 梅の花
折りてかざさむ 老かくるとや
青柳を かた糸によりて 鶯の
縫ふてふ笠は 梅の花笠
などとあるように、梅の花を鶯の笠とした発想の和歌はきわめて多い。ここではそれを椿に転じたものである。ただし、句の表現では、「鶯の笠」と一続きになるのではなく、「鶯の」は「落としたる」に対して、主語になっていると見たい。
「鶯」・「椿」ともに春の季語であるが、「椿」雅趣になっており、その古典を通しての俳諧化である。
「この庭に対していると、鶯のさえずりのまにまに椿の花が落ちこぼれた。昔から梅の花が
鶯の縫う笠だと詠まれてきたが、こうして見ていると落椿こそ、鶯がおもわずとり落とした
笠と眺められてくることよ」
東京上野公園の北東に根岸の里がある。江戸時代には閑静な地で、鶯が多かったところから初音の里といった。東京での、鶯の初音の平均日が、きょう三月五日。どなたか初音を聞かれたであろうか。
本来なら、本日は抗ガン剤の投与日。しかし、先週から風邪をひいたらしく、咳・鼻水がひどく、昨晩は39度の熱。血液・尿検査の結果は問題なく、抗ガン剤の投与ができる状態だという。
だが、咳はおさまったものの、鼻水が止まらず、けだるい状態なので投与はやめてもらった。風邪薬を一週間分もらい、次回の投与は、二週間後の三月十九日、ということにしてもらった。
寝るときの顔の向きむき落椿 季 己
『蕉翁全伝』元禄三年の条に、「此の句 西島氏百歳子のもとにての事なり。二月六日、歌仙一巻有り』と注記がある。
これから見て、当主百歳に対する挨拶の心があったはずである。百歳の住まいの庭前の景を詠みすえ、その閑雅なさまをたとえたものと思われる。
鶯の笠に梅を連想するのは、古典和歌以来のありふれたしかたに過ぎない。それを実景に即して椿に転じ、「笠」について「縫う」とか、「被(かぶ)る」あるいは「かざす」などという常識的な発想にとどまらずに一歩俳諧化して「落としたる」と興じたところに、俳諧の新しみがはっきりと認められる。
「梅の笠」というのは、『古今集』に
鶯の 笠に縫ふてふ 梅の花
折りてかざさむ 老かくるとや
青柳を かた糸によりて 鶯の
縫ふてふ笠は 梅の花笠
などとあるように、梅の花を鶯の笠とした発想の和歌はきわめて多い。ここではそれを椿に転じたものである。ただし、句の表現では、「鶯の笠」と一続きになるのではなく、「鶯の」は「落としたる」に対して、主語になっていると見たい。
「鶯」・「椿」ともに春の季語であるが、「椿」雅趣になっており、その古典を通しての俳諧化である。
「この庭に対していると、鶯のさえずりのまにまに椿の花が落ちこぼれた。昔から梅の花が
鶯の縫う笠だと詠まれてきたが、こうして見ていると落椿こそ、鶯がおもわずとり落とした
笠と眺められてくることよ」
東京上野公園の北東に根岸の里がある。江戸時代には閑静な地で、鶯が多かったところから初音の里といった。東京での、鶯の初音の平均日が、きょう三月五日。どなたか初音を聞かれたであろうか。
本来なら、本日は抗ガン剤の投与日。しかし、先週から風邪をひいたらしく、咳・鼻水がひどく、昨晩は39度の熱。血液・尿検査の結果は問題なく、抗ガン剤の投与ができる状態だという。
だが、咳はおさまったものの、鼻水が止まらず、けだるい状態なので投与はやめてもらった。風邪薬を一週間分もらい、次回の投与は、二週間後の三月十九日、ということにしてもらった。
寝るときの顔の向きむき落椿 季 己