壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2010年03月04日 20時57分32秒 | Weblog
        蝶の羽の幾度越ゆる塀の屋根     芭 蕉

 「乍木(さぼく)亭にて」と頭注して、収める。したがって、亭主・乍木に対する挨拶の心がある。「蝶の羽(は)の」と「羽」をとりあげたところに、この蝶のゆるやかな動きがはっきりと生かされている。「幾度(いくたび)越ゆる」というのも動きだけでなく、春の日のゆるやかな経過が出ていて、句をゆたかなものにしている。
 「塀の屋根」で、武家屋敷などのやや古びた築地塀の、どっしりした構えが眼前に浮かんで、可憐な蝶の動きがいっそう効果をあげている。

 「乍木」は伊賀上野の人。原田氏、通称を覚右衛門といった。
 季語は「蝶」で春。現実体験から来たことがはっきりわかり、みごとに蝶そのものが感じられる把握である。

    「この座敷に坐して庭前を見ていると、のどかな春の日に蝶がうららかに舞っている。築地
     塀の屋根を越えたかと見るとまた舞い戻る。さっきからもう幾度あの塀を越えたことであ
     ろうか」


      初蝶や真昼にくすり飲みわすれ     季 己