壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

当帰

2010年03月03日 22時47分42秒 | Weblog
        当帰よりあはれは塚の菫草     芭 蕉

 『笈日記』に、支考(しこう)の「図司ヲ祭ル」の文の後に、呂丸(ろまる)追悼句の一句として掲出されている。
 呂丸の訃報に接して、支考のところに書き送った句であろう。客死という事実を悼んで当帰(とうき)を案出し、それを当季の菫草と対比させている。想像によって詠んだ作であり、発想の上で技巧的なところもあるが、弔意はかなり素直に流露していると思う。
 芭蕉が呂丸の訃報に接したのは、元禄六年(1693)三月四日。

 「呂丸」は「ろがん」ともいわれ図司氏。また近藤氏。通称左吉。羽黒山麓の手向(とうげ)村の住人で、染め物業を営んでいた。「露丸」ともいう。
 元禄六年二月二日、京都の去来宅で客死した。芭蕉を出羽で案内した人で、元禄五年九月、芭蕉来訪の際、『三日月日記』稿本を芭蕉から与えられている。羽黒滞在中の芭蕉からの聞き書きが、『聞書七日草』といわれているものである。
 「当帰」は、セリ科の植物。岩の上などに自生し、高さは七、八十センチ、夏秋の間、白い小さな五弁の花が集まって咲く。根を乾かして婦人病などの薬とする。中国でいう当帰は、日本のものと違うといわれているが、当帰は「当{まさ)に帰るべし」という字義なので、旅人の思郷の念に通じる。

 季語は「菫草」で春。「当帰」という名辞が句を曇らせるはずであるが、「塚の菫草」が確かな使い方なので、句全体としてあわれが生きている。

    「当帰という思郷の念を負う草の名は、あわれ深いものとして詩にもうたわれるが、いま、
     他国に客死してここに眠る呂丸を思えば、その塚の辺りの菫草こそ、いっそうあわれ深い
     ものがある」


      おおここに仏がござる菫草     季 己