壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

初桜

2010年03月16日 23時05分43秒 | Weblog
        咲き乱す桃の中より初桜     芭 蕉

 桃のほしいままな美に対して、初桜のういういしい、可憐な姿を詠んだものである。「より」という語も、繚乱たる桃にみとれているうちに、その中にかくれていた初桜を見いだした時の気持ち、しかも隠れつつ紛れ終わらぬ姿を生かしているのである。

 「咲き乱す」は、ほしいままに咲き誇っている趣を強く言ったもの。
 
 季語は「初桜」で春。「桃」も春であるが、この句は、「初桜」がつよくはたらいている。「初」を生かして使っているのである。

    「今を盛りと存分に咲いている桃の花の中から、一本のちらほら咲きはじめた可憐な初桜を
     見いだした」


      青年僧来るや日差しの猫柳     季 己

涅槃像

2010年03月15日 21時45分38秒 | Weblog
        神垣やおもひもかけず涅槃像     芭 蕉

 この句は、心・詞ともに『金葉集』に、
        郁芳門院伊勢にましましける時、六条右大臣の北の方あからさまに
       くだりて侍りける時、思ひかけず鐘の声のほのかに聞えければ詠める、
             神垣の あたりと思ふに ゆふだすき
               思ひもかけぬ 鐘の声かな
 とあるのを踏まえている。
 句の「おもひもかけず」の語が、踏まえた歌よりもずっと生動している。歌や和漢の詞句を利用しても、それが芭蕉によって異質のものに昇華されている好例であろう。和歌によって流されてしまわぬところが力である。和歌の中では、三十一音のゆるやかな抑揚の中で、「おもひもかけぬ」もゆるやかなながれをなしていたのである。だが、俳諧に入れると五音の下に小停止があり、下五がまた静かな調子になっているので、「おもひもかけず」が、ぐっと表に出てくるのである。
 こうしてみると、短歌の調べは五音と七音の上を流れ去り、詠じ終わってもその流れはその方向のままに流れてゆくが、俳諧のそれは、ふたたび上へ反響してゆくものであることが感じられる。

 「神垣(かみがき)」は、「神籬(かみがき)」で神域内の意。真蹟の前書きによると、ここは伊勢神宮の外宮である。当時は、両部神道の行なわれた後であるから、神仏混淆の余風が外宮の館にも見られたのであろう。
 「涅槃像」は、釈迦の入滅の画像で、涅槃会(二月十五日)に拝する。野晒(のざらし)の旅の時は僧形であるからというので、神前に至ることを拒まれた経験があるくらいだから、神域内で涅槃像を見たのは、思いもかけないことだったのである。

 季語は「涅槃像」で春。神域で涅槃像を拝した意外の感が、発想の契機になった詠み方。

    「二月十五日、伊勢の外宮に詣でたところが、折しも涅槃会(ねはんえ)にあたって、神域にも
     かかわらず、はからずも釈迦涅槃の像を拝することができて、思いもかけないことであった」


      産み月のひとのひとこと涅槃像     季 己

我が衣に

2010年03月14日 22時08分48秒 | Weblog
          伏見西岸寺任口上人に逢うて
        我が衣(きぬ)に伏見の桃の雫せよ     芭 蕉

 任口上人(にんこうしょうにん)の高風徳化に浴したいという意だといわれているが、そうした意識的なものよりもう少し純粋に感じられる。むしろ、任口上人との対坐のよろこびが浸透しているのだととりたい。それが自然と挨拶となって生かされているのである。誦していると自ずとその感動の中にひきこまれ、なかなか豊潤な味わいのある作だと思う。

 「任口上人」は、浄土宗伏見西岸寺(さいがんじ)第三世宝誉。芭蕉の主家藤堂家の分家で、俳系は松江重頼門。貞享三年没。八十一歳。『六百番発句合』の判をしており、芭蕉とも俳交があった。
 「伏見の桃の雫せよ」は、伏見は桃の名所であり、三月ごろは盛りであるから、それを挨拶に取り入れたものである。あるいは、雨の後であったかもしれない。伏見に、伏して見る意を掛けているかとも考えられる。

 季語は「桃」で春。ただし、桃の花の意。

    「任口上人にお目にかかることができて、よろこびの涙がこぼれそうになる。伏して見る、
     折から盛りのこの伏見の桃の雫も、我が衣を潤してほしい」


      歌垣のつくばに来よと桃の花     季 己

たえだえ青し

2010年03月13日 21時59分32秒 | Weblog
        笹折りて白魚のたえだえ青し     才 麿

 出典は『東日記』。『東日記』には、この句の前に、芭蕉の、「藻にすだく白魚やとらば消ぬべき」という句を載せる。「藻のあたりに群れ泳いでいる白魚は、清らかに透きとおって、そのか細くあえかな姿に、手にすくいとったなら、きっと消え失せてしまうに違いないと感じられるほどだ」という意である。
 この二句は、共に白魚の脆弱なはかなさにも似た美しさを、感覚的にとらえた佳句である。芭蕉の場合は、白魚そのものに即しているところがずっと鋭い。才麿の句は、実景を直截に表現した力強さをもっている。また、「白魚」と「青し」という色彩的な表現も印象的である。
 ともあれ、この二句は、「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  桃青(芭蕉)」、「芋洗ふ女に月は落ちにけり  言水」などと共に、新風を志向する『東日記』を特色づけた先駆的作品ということができる。
 季語は「白魚」で春。

    「笹の葉を折り敷いたうつわに、いきのよい白魚を並べて置くと、半透明の白魚を通して、
     ところどころ笹の葉の緑が透けて見える」


      強東風にペンキ剥げたる朝礼台     季 己

木瓜の花

2010年03月12日 22時07分40秒 | Weblog
 梅には遅れ、桜には先だって咲く美しい花に木瓜(ボケ)がある。
 ボケの花ほど、味も素っ気もない無愛想な木に、愛くるしくて華麗な花を咲かせる、案外なものはあるまい。
        近づけば大きな木瓜の花となる     立 子
 いかめしい棘をつけたかたくなな感じの木が、まだ若葉をようやく吹き出したばかりの三月の末に、梅の花より大ぶりで明るい感じの花をいっせいに開く。
 ボケは、中国原産のバラ科の灌木だが、『延喜式』や『和名類聚抄』など、今から千年以上も前の文献にその名が見えている。それほど早くから日本に移入されたものであろう。ただ、歳時記によっては、江戸中期ごろに渡来したといわれる、とするものもある。

 漢字で木の瓜と書いた木瓜(モッカ)を『和名抄』には、モケと読ませているところを見ると、中国でのモッカという名を、そのまま借用したことがわかる。そして、モケからボケとなったのだろう。
 ボケにも、カラボケ・クサボケ・ヒボケ・ショクボケ・シロボケ・サラサボケ・カイドウボケ・カントンボケと、いろいろな種類がある。しかし、変人は、ただその色を見分けるだけで、いちいち名前まではわかりかねる。
        野路暮れて却つて遠き木瓜あかし     悌二郎
 目に沁みるような濃い朱の色、この色がもっとも普通のようだが、このショクボケは春の花というよりも、むしろ夏の感じがする。
 春らしい、ほのぼのとした味わいを持つものは、うすくれないの花を咲かせるカラボケ、白い花にうっすらと紅をさしたようなカイドウボケ、白地に紅を散らしたサラサボケといった種類であろう。
 

      倒木のつぶやき木瓜の花の数     季 己       

水の色

2010年03月11日 22時51分08秒 | Weblog
        白魚やさながらうごく水の色     来 山

 出典は『続今宮草』。この中で泉石は、
    「いふたりやいふたりやこの句についておもへば、白魚といふ名さへくちをし。
     煮て後なれば也。此の魚は只水いろにこそ」
 と、評している。
 元禄五年(1692)刊の『きさらぎ』に、下五を「水の魂(たま)」とするが、おそらくそれが初案であろう。

 「白魚」は、細長い、10センチほどの半透明の小魚。寿命はわずか一年。ふつう、秋から春の終わりまで食用とされるが、食べ頃は春である。
 白魚の名は、煮ると白くなるところから来ているが、水中にある時は、水と融け合ってしまうかに見える。こうした白魚の特色を、うまくとらえた句だと、泉石はいっているのだ。まことに適切な批評である。
 初案の「水の魂」だと、神秘性は感じさせるが、やや趣向の凝らしすぎの感がある。「水の色」とすれば、鋭い感覚でとらえられた素直な佳句ということができる。

 季語は「白魚」で春。

    「水面近く泳ぐ白魚は、水の色と融け合って、その動きはまるで
     水そのものが、動いているように見えることだ」


      白魚のこぼれて透きし畳の目     季 己

古巣

2010年03月10日 22時18分31秒 | Weblog
          隣庵の僧宗波旅におもむかれけるを
        古巣ただあはれなるべき隣かな     芭 蕉

 主が旅立っていなくなった隣家のさまを、鳥の巣立ったあとの空しさに比した発想である。その空虚な寂しい感じを予想することで、別れを惜しむ情を述べているのである。

 「宗波(そうは)」は、禅宗(黄檗宗)の僧。江戸本所原庭定林寺の住職といわれる。『鹿島紀行』の旅に、曾良とともに随行した人。『鹿島紀行』に、
    「一人は水雲の僧、僧は烏の如くなる墨の衣に三衣(さんえ)の袋を衿に打ちかけ、柱杖
     (ちゅうじょう)引きならして、無門の関もさはるものなく、天地(あめつち)に独歩して出
     でぬ」
 と、書かれているのが宗波である。
 「古巣」は、鳥の巣立ったあとの古くなった巣のことで、ここは、宗波が旅に出て留守になったことを、鳥の巣立ったあとの古巣にたとえたもの。
 「隣」というのも、宗波の庵とみてよかろう。
 「古巣」も「隣」も、共に芭蕉庵とみて、宗波の側からとる説や、一方を芭蕉庵とみる説もあるが、自然に解すれば、両方とも宗波の留守の庵のことと見るべきであろう。

 季語は「古巣」で、「鳥の巣」と同様に春。眼前の古巣を詠んだのではなく、比喩的な使い方である。貞享三年閏三月の作。

    「隣の庵の主が旅立ってしまうと、その跡は、あたかも鳥の巣立ったあとのあの虚ろな古巣
     の感じと似て、ただただ心さびしいことになるだろう」


      鳥交る秩父札所の風化仏     季 己

浜の桃

2010年03月09日 22時11分17秒 | Weblog
          鳴海潟眺望
        船足も休む時あり浜の桃     芭 蕉

 前書きによって、芭蕉は、桃の花が咲いているほとりから、この船を眺めていることがわかる。桃の花に見とれていると、船が動いて行くのが視野に入る。船に目をやると、のどかな春日の下に、その船の進みが折々ふと止まるように感じられるのである。
 悠々たる海面の景、駘蕩たる桃花の情、まことに春日の心を得ている句といえよう。

 桃の花の咲く晩春のころ、芭蕉が、鳴海にいたのは貞享二年(1685)であるから、『野ざらし紀行』の旅の作。
 季語は「桃」で春。「桃」は桃の花の意である。

    「鳴海潟を眺め渡すと、浜の桃は今を盛りと咲き誇っている。浜辺の桃の花は、山のそれとは
     また違った風趣がある。うららかな春日の下、その桃の花の彼方には沖行く船が見えるが、
     まことにのんびりした風景で、その船の進み方も折々休むような感じがする」


      江戸更紗刷毛にさらさら春日濃し     季 己

不精

2010年03月08日 20時26分46秒 | Weblog
        不精さやかき起されし春の雨     芭 蕉

 「かき起されし」を、春雨の音に起こされてゆく、ととる考えもある。だが、やはり誰かに手をかけられて上半身から起こされた趣、とみるほうがおもしろい。それで初めて「不精さや」が利(き)いてくる。
 「かき」は、調子をととのえる語であるが、それによって手をかけて起こされるという、具体的な感触が生きて感じられる。
 珍夕(酒堂)宛書簡の「抱起さるる」が、初案の形と考えれば、いっそうはっきりする。
 元禄四年(1691)、伊賀上野赤坂の兄の家での作。

 季語は「春の雨」。「春の雨」の、ものうい気分を浸透させた発想になっている。

    「めざめると、春雨のしっとりした音が耳に入る。その音についうとうとと不精をきめこん
     でいるうち、とうとう人に掻き起こされてしまった」


      春の雨消えると見えてまたたけり     季 己

春になると

2010年03月07日 21時23分41秒 | Weblog
 春になると、いろいろな花が咲いて美しい。しかし、花は誰か特定の人のために咲くのでもなく、自己を顕示するためでもない。また、自分一族の種の保存のためでもなかろう。
 花はなぜ美しいのか。若くして胸を病んで亡くなった詩人・クリスチャンの八木重吉は答えてくれる――

        花は
        なぜ美しいか
        ひとすじの気持ちで
        咲いているからだ

 と。「ひとすじ」とは、禅語にいう「只管(しかん)」、つまり「ひたすら」であろう。余念を交えないのが「只管」である。
 武者小路実篤は、花を描いて

        人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり

 と、自讃された。
 禅語には、

        百花春至って誰が為にか開く

 と、頌(うた)う。ただ、大いなるいのちにうながされて、無心にひとすじの気持ちで咲くから美しいのだと。

 わたしたちは、花を自分に引きあてて、「自分はいかに生くべきか」と、人間性の真実を花に問いかけ、その答えをうなずきとる心の働きが、人間に埋(うず)みこめられている事実を体験すべきであろう。
 花を見て「美しい」と感じるのは、人間の経験である。この経験をふまえて、人生の意味をうなずきとるのが体験だと思う。経験は、積み重ねるほど知識は高められる。体験は、掘り下げるほど智慧は深められていく。

 このことは「花」を、「絵」や「俳句」に置き換えても全く変わらない。無心にひとすじの気持ちで描かれた絵や詠まれた俳句には、心うたれることが多い。
 年金暮らしの貧しいわが家にも、絵と陶磁器の作品だけは必ず飾っている。心うたれる作品と出逢うと買いたくなるという、悪い病気があるからだ。貧乏ゆえ、有名画家の作品はもちろん買えない。だが、無名の人の中に、得てして「思いのこもった作品」があるものだ。若い作家を育てる、という意味においても、ぜひ作品を購入していただきたい。
 一枚の絵、一つの茶碗を購入するという経験をふまえて、人生の喜びを感じとるのが体験なのだ。こうした経験や体験を積み重ねるうちに、知識は高められ、智慧が深められていくのである。

        花の来処を問わんと欲すれど東君も又知らず

 という禅語もある。「花はどこから来るか、東君(春を司る神)も知らない」というのだ。
 「春」とは、大いなるいのちをいう。自分を包み込むと同時に、自分の中にも内在するいのちだから「大いなる」というのである。


      かげろふやローランサンの少女たち     季 己 

春雨

2010年03月06日 23時01分25秒 | Weblog
          苔清水
        春雨の木下につたふ清水かな     芭 蕉

 『泊船集』に、許六書入れとして、「とくとくの清水の句なり……」と注記がある。
 「とくとくの清水」は、吉野山の奥、西行法師の草庵の跡にある清水をいう。『野ざらし紀行』の旅で芭蕉は、
       「露とくとく試みに浮世すすがばや」
 と詠んでいる。
 「春雨の」の句と「露とくとく」の句と比較すると、芭蕉の心境の展開がよくわかる。
 「露とくとく」の句は風狂の心である。「春雨の」のほうでは、興は句の下にすっかりかくれていて、しんと清水に見入っている心である。
 『野ざらし紀行』の文中で、
     「彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける」
 とこの清水に即して述べている面が、句に生かされてきた発想といってよかろう。
 また、「木下(こした)に」の‘に’がうまい。これを‘を’としたら、軽い平凡な句となってしまう。

 「春雨」が季語。「春雨」の凝視がたしかで、その結果として、苔清水のひそやかさがみごとに生かされている。

    「木々に降りけぶる春雨が、静かに木の下に伝い流れて、それが滴り落ちているのであろう。
     いかにも、ひそやかなこの苔清水であることだ」


      春雨をためてかがよふ団子坂     季 己

落椿

2010年03月05日 21時18分43秒 | Weblog
        鶯の笠落としたる椿かな     芭 蕉

 『蕉翁全伝』元禄三年の条に、「此の句 西島氏百歳子のもとにての事なり。二月六日、歌仙一巻有り』と注記がある。
 これから見て、当主百歳に対する挨拶の心があったはずである。百歳の住まいの庭前の景を詠みすえ、その閑雅なさまをたとえたものと思われる。
 鶯の笠に梅を連想するのは、古典和歌以来のありふれたしかたに過ぎない。それを実景に即して椿に転じ、「笠」について「縫う」とか、「被(かぶ)る」あるいは「かざす」などという常識的な発想にとどまらずに一歩俳諧化して「落としたる」と興じたところに、俳諧の新しみがはっきりと認められる。

 「梅の笠」というのは、『古今集』に
        鶯の 笠に縫ふてふ 梅の花
          折りてかざさむ 老かくるとや
        青柳を かた糸によりて 鶯の
          縫ふてふ笠は 梅の花笠
 などとあるように、梅の花を鶯の笠とした発想の和歌はきわめて多い。ここではそれを椿に転じたものである。ただし、句の表現では、「鶯の笠」と一続きになるのではなく、「鶯の」は「落としたる」に対して、主語になっていると見たい。

 「鶯」・「椿」ともに春の季語であるが、「椿」雅趣になっており、その古典を通しての俳諧化である。

    「この庭に対していると、鶯のさえずりのまにまに椿の花が落ちこぼれた。昔から梅の花が
     鶯の縫う笠だと詠まれてきたが、こうして見ていると落椿こそ、鶯がおもわずとり落とした
     笠と眺められてくることよ」


 東京上野公園の北東に根岸の里がある。江戸時代には閑静な地で、鶯が多かったところから初音の里といった。東京での、鶯の初音の平均日が、きょう三月五日。どなたか初音を聞かれたであろうか。
 本来なら、本日は抗ガン剤の投与日。しかし、先週から風邪をひいたらしく、咳・鼻水がひどく、昨晩は39度の熱。血液・尿検査の結果は問題なく、抗ガン剤の投与ができる状態だという。
 だが、咳はおさまったものの、鼻水が止まらず、けだるい状態なので投与はやめてもらった。風邪薬を一週間分もらい、次回の投与は、二週間後の三月十九日、ということにしてもらった。      

      寝るときの顔の向きむき落椿     季 己   

2010年03月04日 20時57分32秒 | Weblog
        蝶の羽の幾度越ゆる塀の屋根     芭 蕉

 「乍木(さぼく)亭にて」と頭注して、収める。したがって、亭主・乍木に対する挨拶の心がある。「蝶の羽(は)の」と「羽」をとりあげたところに、この蝶のゆるやかな動きがはっきりと生かされている。「幾度(いくたび)越ゆる」というのも動きだけでなく、春の日のゆるやかな経過が出ていて、句をゆたかなものにしている。
 「塀の屋根」で、武家屋敷などのやや古びた築地塀の、どっしりした構えが眼前に浮かんで、可憐な蝶の動きがいっそう効果をあげている。

 「乍木」は伊賀上野の人。原田氏、通称を覚右衛門といった。
 季語は「蝶」で春。現実体験から来たことがはっきりわかり、みごとに蝶そのものが感じられる把握である。

    「この座敷に坐して庭前を見ていると、のどかな春の日に蝶がうららかに舞っている。築地
     塀の屋根を越えたかと見るとまた舞い戻る。さっきからもう幾度あの塀を越えたことであ
     ろうか」


      初蝶や真昼にくすり飲みわすれ     季 己

当帰

2010年03月03日 22時47分42秒 | Weblog
        当帰よりあはれは塚の菫草     芭 蕉

 『笈日記』に、支考(しこう)の「図司ヲ祭ル」の文の後に、呂丸(ろまる)追悼句の一句として掲出されている。
 呂丸の訃報に接して、支考のところに書き送った句であろう。客死という事実を悼んで当帰(とうき)を案出し、それを当季の菫草と対比させている。想像によって詠んだ作であり、発想の上で技巧的なところもあるが、弔意はかなり素直に流露していると思う。
 芭蕉が呂丸の訃報に接したのは、元禄六年(1693)三月四日。

 「呂丸」は「ろがん」ともいわれ図司氏。また近藤氏。通称左吉。羽黒山麓の手向(とうげ)村の住人で、染め物業を営んでいた。「露丸」ともいう。
 元禄六年二月二日、京都の去来宅で客死した。芭蕉を出羽で案内した人で、元禄五年九月、芭蕉来訪の際、『三日月日記』稿本を芭蕉から与えられている。羽黒滞在中の芭蕉からの聞き書きが、『聞書七日草』といわれているものである。
 「当帰」は、セリ科の植物。岩の上などに自生し、高さは七、八十センチ、夏秋の間、白い小さな五弁の花が集まって咲く。根を乾かして婦人病などの薬とする。中国でいう当帰は、日本のものと違うといわれているが、当帰は「当{まさ)に帰るべし」という字義なので、旅人の思郷の念に通じる。

 季語は「菫草」で春。「当帰」という名辞が句を曇らせるはずであるが、「塚の菫草」が確かな使い方なので、句全体としてあわれが生きている。

    「当帰という思郷の念を負う草の名は、あわれ深いものとして詩にもうたわれるが、いま、
     他国に客死してここに眠る呂丸を思えば、その塚の辺りの菫草こそ、いっそうあわれ深い
     ものがある」


      おおここに仏がござる菫草     季 己

上巳

2010年03月02日 22時35分56秒 | Weblog
          上 巳
        袖よごすらん田螺の海人の暇をなみ     芭 蕉

 上巳(じょうし)の当日、潮干狩に興ずる海人(あま)に対して、田螺(たにし)とりに忙しい山里の趣を思いやった句である。和歌的な口調で仕立てたもの。ひなびた田螺とりのさまを「田螺の海人」といい、その挙措(きょそ)を「暇をなみ」とか「袖よごすらん」などという優雅な用語で歌い出したところに、延宝期の尾を引く発想の性格が見えている。天和二年(1682)の作といわれるが、句風は延宝ごろの感じが強い。

 「上巳」は俗に「じょうみ」とも読み、三月初の巳の日の意で、この日行なわれた節句をいうが、中古以後は三月三日とされている。この日は潮が大いに干るといわれ、江戸期から潮干狩を行なう風習がある。
 「田螺の海人」は、田螺をとる農夫。田螺は貝なので、農夫を海人に見なしたもの。田螺はゆでて、浅葱(あさつき)などとともに酢味噌和えにし、雛に供えたものであった。俳諧的な俗の世界のものである。
 「暇をなみ」は、ひまがないので、というほどの意。「……を……み」の形は、万葉以来の歌語。

 「上巳」の句で春。「田螺」も春の季語。

    「今日は三月三日。海辺では大潮なので、人々が潮干狩に興じているであろう。一方、田ん
     ぼでは農夫たちがまるで海人のように、雛に供えるべき田螺をとるのに忙しく、さだめし
     その袖は田んぼの泥でよごれていることであろう」


      紙ひひな匂袋をよろこべり     季 己