月々に月見る月は多けれど
月見る月はこの月の月
と昔の戯れ歌に歌われているほど、陰暦八月十五夜、すなわち仲秋の名月というものは、観月に絶好の夜として喜ばれていた。
しかし、台風が日本列島に最も多く来襲してくるシーズンでもあり、毎年、当てが外れて、がっかりすることが少なくない。
今年の陰暦八月十五夜は、九月十四日であるが、実際の月齢の満月は十五日である。また、台風十三号が沖縄で大暴れしているが、次第に日本列島の方に進路を変えるようである。ところによっては、観月どころか台風に備えねばなるまい。
ともかく、太陽と太陰との運行について言えば、十五夜満月の月の出が、日の入りと、きわめて僅かの差しかないということが、その絶好の条件となっているのである。
「暑さ寒さも彼岸まで」という諺の通り、暑からず寒からずという気温も、観月という夜の行事には、見過ごすことのできない好条件である。蛇足ながら、雷がめっきり減るのも、秋の彼岸ごろからである。
名月の句で最もよく知られているのは、芭蕉の次の句であろう。
名月や池をめぐりて夜もすがら
今夜は仲秋の名月。その清らかな光の池水に映えるあたりを独り徘徊し、
夜通し佳境に酔ったことである。
芭蕉が実際に池をめぐって夜を明かしたかどうかは不明であるが、それはどうでもよい。俳句は事実を述べるものではなく、また、事実を報告することでもないのだから。
「夜もすがら」は、良夜の清影を愛する芭蕉の心の深さを言おうとして工夫された、俳諧の曲節として評価すべきであろう。ちなみに、「夜もすがら」は、一晩中、夜通しの意で、その反対は「ひもすがら」・「ひねもす」である。
中七の「池をめぐりて」に、昔から今までを思い、古今の詩歌をうそぶく余情が感じられる。
名月や神泉苑の魚躍る 蕪 村
日没とともに、東の空にこうこうと冴え昇る大きな大きな月の光には、神泉苑の鯉でなくても、ふと真昼かと疑ってみたくなるだろう。
名月や八重山吹の返り咲き 一 茶
一輪二輪、いじけた山吹の花の返り咲きも、この夜の月の光には、晴れがましい思いのすることであろう。
有名さでは、「名月を取てくれろと泣く子かな 一茶」が勝るであろう。
名月や土偶に耳と眼(まなこ)あり 季 己
月見る月はこの月の月
と昔の戯れ歌に歌われているほど、陰暦八月十五夜、すなわち仲秋の名月というものは、観月に絶好の夜として喜ばれていた。
しかし、台風が日本列島に最も多く来襲してくるシーズンでもあり、毎年、当てが外れて、がっかりすることが少なくない。
今年の陰暦八月十五夜は、九月十四日であるが、実際の月齢の満月は十五日である。また、台風十三号が沖縄で大暴れしているが、次第に日本列島の方に進路を変えるようである。ところによっては、観月どころか台風に備えねばなるまい。
ともかく、太陽と太陰との運行について言えば、十五夜満月の月の出が、日の入りと、きわめて僅かの差しかないということが、その絶好の条件となっているのである。
「暑さ寒さも彼岸まで」という諺の通り、暑からず寒からずという気温も、観月という夜の行事には、見過ごすことのできない好条件である。蛇足ながら、雷がめっきり減るのも、秋の彼岸ごろからである。
名月の句で最もよく知られているのは、芭蕉の次の句であろう。
名月や池をめぐりて夜もすがら
今夜は仲秋の名月。その清らかな光の池水に映えるあたりを独り徘徊し、
夜通し佳境に酔ったことである。
芭蕉が実際に池をめぐって夜を明かしたかどうかは不明であるが、それはどうでもよい。俳句は事実を述べるものではなく、また、事実を報告することでもないのだから。
「夜もすがら」は、良夜の清影を愛する芭蕉の心の深さを言おうとして工夫された、俳諧の曲節として評価すべきであろう。ちなみに、「夜もすがら」は、一晩中、夜通しの意で、その反対は「ひもすがら」・「ひねもす」である。
中七の「池をめぐりて」に、昔から今までを思い、古今の詩歌をうそぶく余情が感じられる。
名月や神泉苑の魚躍る 蕪 村
日没とともに、東の空にこうこうと冴え昇る大きな大きな月の光には、神泉苑の鯉でなくても、ふと真昼かと疑ってみたくなるだろう。
名月や八重山吹の返り咲き 一 茶
一輪二輪、いじけた山吹の花の返り咲きも、この夜の月の光には、晴れがましい思いのすることであろう。
有名さでは、「名月を取てくれろと泣く子かな 一茶」が勝るであろう。
名月や土偶に耳と眼(まなこ)あり 季 己