燕は、三月ごろ日本に渡ってきて、北は道南、南は種子島にかけて、ほぼ全国的に営巣し繁殖する。
九月ごろになると、中国南部やフィリピン、ニューギニアなどで冬を過ごすために、海を越えて南下する。これを「燕帰る」「帰燕」「去ぬ燕」などといい、秋の季語となっている。
馬かりて燕追ひゆく別れかな 北 枝
季語は「燕追ひゆく」で、秋の句である。
作者の北枝(ほくし)は、加賀・小松の人で研刀業、のちに金沢に移る。
元禄二年(1689)に芭蕉に入門。
――北枝と芭蕉との出会いは、蕉門のなかで最も劇的であるかも知れない。
若いころ、談林に遊んでいた北枝は、新しい俳風を模索してつかみかねていた。
そこへ元禄二年秋、『おくのほそ道』旅中の芭蕉が訪れたのである。
北枝は、芭蕉の金沢滞在中はもちろん、小松・山中と供をして、松岡まで師を送った。その折の聞書きをまとめて『山中(やまなか)問答』を著した。
このころから、北枝の俳風は一変している。北枝の才が、湧いて溢れたといった感がある。
従来の俳諧観を根本から動かす「不易流行」の風雅観が、北枝にいかに深い影響を与えたか、この一事で推し量れよう。それだけに、師との別れは痛切であった。
折も折、矢のように燕は帰り去る。客は馬をやとってその燕をさらに追いかけようとするような……。
一瞬のうちに燕も馬も消えて、むなしく、空の青さと蹴立てた砂ぼこりが残るばかり。その中に呆然と立ちつくす残された者。涙も流し得ない悲しみの深さがそこにある。
北枝の編んだ『卯辰集』には、「元禄二の秋、翁を送りて山中温泉に遊ぶ三両吟」とあって、「馬かりて」の句を発句として、曾良・芭蕉と三人で巻いた歌仙が載っている。
芭蕉は松岡で別れるとき、
物書いて扇子へぎ分くる別れかな 芭 蕉
と書いて贈ったという。
わずか十日ほどの出逢いではあったが、この二句がふたりの結びつきを何よりもよく示していると思う。
しかも、この二句が予感したように、この後、ふたり相逢うことはなかったのである。
しかし、師に対する敬慕の念は、終生変わることなく、北枝は、北陸蕉門の中心人物であった。
秋つばめ五重塔の澄む日かな 季 己
九月ごろになると、中国南部やフィリピン、ニューギニアなどで冬を過ごすために、海を越えて南下する。これを「燕帰る」「帰燕」「去ぬ燕」などといい、秋の季語となっている。
馬かりて燕追ひゆく別れかな 北 枝
季語は「燕追ひゆく」で、秋の句である。
作者の北枝(ほくし)は、加賀・小松の人で研刀業、のちに金沢に移る。
元禄二年(1689)に芭蕉に入門。
――北枝と芭蕉との出会いは、蕉門のなかで最も劇的であるかも知れない。
若いころ、談林に遊んでいた北枝は、新しい俳風を模索してつかみかねていた。
そこへ元禄二年秋、『おくのほそ道』旅中の芭蕉が訪れたのである。
北枝は、芭蕉の金沢滞在中はもちろん、小松・山中と供をして、松岡まで師を送った。その折の聞書きをまとめて『山中(やまなか)問答』を著した。
このころから、北枝の俳風は一変している。北枝の才が、湧いて溢れたといった感がある。
従来の俳諧観を根本から動かす「不易流行」の風雅観が、北枝にいかに深い影響を与えたか、この一事で推し量れよう。それだけに、師との別れは痛切であった。
折も折、矢のように燕は帰り去る。客は馬をやとってその燕をさらに追いかけようとするような……。
一瞬のうちに燕も馬も消えて、むなしく、空の青さと蹴立てた砂ぼこりが残るばかり。その中に呆然と立ちつくす残された者。涙も流し得ない悲しみの深さがそこにある。
北枝の編んだ『卯辰集』には、「元禄二の秋、翁を送りて山中温泉に遊ぶ三両吟」とあって、「馬かりて」の句を発句として、曾良・芭蕉と三人で巻いた歌仙が載っている。
芭蕉は松岡で別れるとき、
物書いて扇子へぎ分くる別れかな 芭 蕉
と書いて贈ったという。
わずか十日ほどの出逢いではあったが、この二句がふたりの結びつきを何よりもよく示していると思う。
しかも、この二句が予感したように、この後、ふたり相逢うことはなかったのである。
しかし、師に対する敬慕の念は、終生変わることなく、北枝は、北陸蕉門の中心人物であった。
秋つばめ五重塔の澄む日かな 季 己