宇治行
鮎落ちていよいよ高き尾上かな 蕪 村
「宇治行」(天明三年:1783)の文章中に出ている句である。その文のこの句に関係のある部分だけを引く。
最高頂上に人家見えて高尾村といふ。汲鮎を業として世わたる
たよりとなすよし。茅屋雲に架し、断橋水に臨む。かゝる絶地に
もすむ人有やと、そぞろに客魂を冷す。
〈 山(喜撰ヶ岳)の一番天辺に人家のあるのが見え、それを高ノ尾
村という。村中がすべて汲鮎を生業としているそうである。雲に近
いほどの高い所に粗末な家が建てられていたり、半ば朽ちた橋が
渓流に高々とかかっていたりする。こんな人界ならぬ所にでも住む
人があるのかと、旅に出て初めてこんな景に接する自分にはいか
にも心細い気持がした。〉
鮎が落ちてしまえば頂上のこの村は、渓流とは無関係になり、ほとんど仕事らしい仕事がなく、ひときわ死んだように静かになる。その頃には、水の量もまた、事実において減じてしまう。それらを総括して、尾上そのものが水と離れて、ひときわそびえ立ってきたようだ、というように、地勢全体の晩秋の景観として表現したのである。
季語は「落鮎」で秋。落鮎は下り鮎ともいう。鮎は秋に川の水草の間に子を産んで、後、流れを下る。
「この流れの水とともに鮎も落ちつくした今、そうでなくてさえも高い頂上が、
いよいよ高まさってきたように思われる」
爽やかや織部が好きで人好きで 季 己
鮎落ちていよいよ高き尾上かな 蕪 村
「宇治行」(天明三年:1783)の文章中に出ている句である。その文のこの句に関係のある部分だけを引く。
最高頂上に人家見えて高尾村といふ。汲鮎を業として世わたる
たよりとなすよし。茅屋雲に架し、断橋水に臨む。かゝる絶地に
もすむ人有やと、そぞろに客魂を冷す。
〈 山(喜撰ヶ岳)の一番天辺に人家のあるのが見え、それを高ノ尾
村という。村中がすべて汲鮎を生業としているそうである。雲に近
いほどの高い所に粗末な家が建てられていたり、半ば朽ちた橋が
渓流に高々とかかっていたりする。こんな人界ならぬ所にでも住む
人があるのかと、旅に出て初めてこんな景に接する自分にはいか
にも心細い気持がした。〉
鮎が落ちてしまえば頂上のこの村は、渓流とは無関係になり、ほとんど仕事らしい仕事がなく、ひときわ死んだように静かになる。その頃には、水の量もまた、事実において減じてしまう。それらを総括して、尾上そのものが水と離れて、ひときわそびえ立ってきたようだ、というように、地勢全体の晩秋の景観として表現したのである。
季語は「落鮎」で秋。落鮎は下り鮎ともいう。鮎は秋に川の水草の間に子を産んで、後、流れを下る。
「この流れの水とともに鮎も落ちつくした今、そうでなくてさえも高い頂上が、
いよいよ高まさってきたように思われる」
爽やかや織部が好きで人好きで 季 己