壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

尾上

2011年09月10日 00時01分31秒 | Weblog
          宇治行
        鮎落ちていよいよ高き尾上かな     蕪 村

 「宇治行」(天明三年:1783)の文章中に出ている句である。その文のこの句に関係のある部分だけを引く。
        最高頂上に人家見えて高尾村といふ。汲鮎を業として世わたる
       たよりとなすよし。茅屋雲に架し、断橋水に臨む。かゝる絶地に
       もすむ人有やと、そぞろに客魂を冷す。

       〈 山(喜撰ヶ岳)の一番天辺に人家のあるのが見え、それを高ノ尾
        村という。村中がすべて汲鮎を生業としているそうである。雲に近
        いほどの高い所に粗末な家が建てられていたり、半ば朽ちた橋が
        渓流に高々とかかっていたりする。こんな人界ならぬ所にでも住む
        人があるのかと、旅に出て初めてこんな景に接する自分にはいか
        にも心細い気持がした。〉

 鮎が落ちてしまえば頂上のこの村は、渓流とは無関係になり、ほとんど仕事らしい仕事がなく、ひときわ死んだように静かになる。その頃には、水の量もまた、事実において減じてしまう。それらを総括して、尾上そのものが水と離れて、ひときわそびえ立ってきたようだ、というように、地勢全体の晩秋の景観として表現したのである。

 季語は「落鮎」で秋。落鮎は下り鮎ともいう。鮎は秋に川の水草の間に子を産んで、後、流れを下る。

    「この流れの水とともに鮎も落ちつくした今、そうでなくてさえも高い頂上が、
     いよいよ高まさってきたように思われる」


      爽やかや織部が好きで人好きで     季 己