壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

内容過多

2011年09月20日 00時02分30秒 | Weblog
        追剝を弟子に剃けり秋の旅     蕪 村

 高僧の逸話にでも取材したのか、それとも純粋の空想になるものか、とにかくあまり成功していない句の実例である。
 蕪村における小説的構想の句においては、成功不成功は「季題」の情趣が十分に発揮されるか否かにかかっている。
 この「秋の旅」の句は、内容過多であり、道具立ての一応の説明に終わっており、何よりも「秋」であることの必然性が希薄である。つまりかんじんの季題が、季感の情趣を十分に発揮し得ていないのである。この句が失敗作である所以(ゆえん)を研究してみれば、同時に蕪村の芸の特性もはっきり認識できるのではなかろうか。

 季語は「秋の旅」で秋。

    「ある高僧が秋深い行脚(あんぎゃ)の旅にあったとき、ある場所で追剝
     (おいはぎ)に襲われた。しかし、もとより死生を超越した人物とて、
     ただねんごろに是非を説いて聞かせた。すると、追剝も過去の罪業を
     はじめて自覚し、今後は弟子として伴って行ってくれと懇願した。高僧は
     快く願いを容れて、その場で直ちに彼の頭を丸めて仏弟子としてしまった」


      敬老の日の集ひみな口あけて     季 己