壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

菊の奴

2011年09月09日 00時00分06秒 | Weblog
        菊作り汝は菊の奴かな     蕪 村

 ――菊の世話に没頭している者を、表面では誇張して揶揄しながら、裏面では菊作りを品位ある趣味としてその姿を慈しんでいる――とするのが、これまでの大方の解釈である。
 もちろん、その解釈が危なげないものであることは明らかである。しかし、変人は一歩進めて、菊の世話に心身をとらえられている人が、ふと自身の姿に気づいて、自身に呼びかけるように心中で独語したものとしたい。その方が、一句の興が倍加するように思われる。現に元禄時代の句に、
        けふ菊の奴僕となりし手入かな     粛 山
の先例がある。
 薄暗くなるまで菊の世話をする。夜は燭の明かりでなおそれを続ける。一夜過ぎれば、また直ちに菊の前へ立たねば不安でいたしかたがない。こうして寸暇もなかったあげく、ふと、「これでは俺は菊にこき使われているようなものだ」と独語すると、おかしさが急にこみ上げてくると同時に、ひとしお強く菊と自分との因縁の深さを、楽しく意識せずにはいられなかったのである。

 季語は「菊」で秋。

    「菊を作っている者よ。一事に執するのもいいが程度があるぞ。そんなに
     まで菊の世話にうつつを抜かしてしまっては、汝はもはや菊に顎で使わ
     れている、菊の奴僕(どぼく)と同じではないか」


      院展は花びらうすき白芙蓉     季 己