(ブログ読者の投稿です)
11月ウィーン・フィルが来日へ 北九州、大阪、川崎、東京で公演:東京新聞 TOKYO Web
コロナ禍の中、ウィーンフィルの来日公演が承認された、というニュースが流れています。
ヒトラー・ドイツに併合され、ドイツの一州にされてしまったオーストリア
第一次世界大戦に敗れハプスブルク帝国が崩壊し、ヒトラーに併合されてドイツの一州(オストマルク州といいました)にされてしまったオーストリア。米英仏ソ四ヶ国占領という苦難の時代を経て、昭和30年(1955)、やっと独立を果たします。
(サスペンス映画の傑作「第三の男」の舞台は1950年のオーストリア・ウィーンです)
オーストリアに手をさしのべた戦後の日本
東ドイツ、ハンガリー、チェコを共産化したソ連はオーストリアも東側(ソ連圏の国)にしようと狙っていたのですが、永世中立を条件に、占領4ヶ国とオーストリア政府による国家条約を締結してオーストリア連邦共和国ができた。ところが、どこがこれを国家として承認するか、国際法上の手筈が出来ていなかった。主要国が条約当事国になっているため、もう一つ、国家承認の手筈を整えなければならないことを忘れてしまったのですね。「しまった」とフィーグル首相は青ざめた。ところがそこへ「新生オーストリアを国家として承認する」という電報が届きます。ありがたい。いったいどこの国が、と思って電報を見直すと、それはなんと日本からのものでした。
お礼に日本にウィーン・フィルハーモニーを送ろう
あの青島(チンタオ)で「カイゼリン・エリーザベト」が日独戦争に巻き込まれて以来、ちゃんとした外交関係もなくなってしまった日本が…、ということでオーストリアは大変喜びまして、日本に答礼使を送ろう、オーストリアの至宝、ウィーン・フィルハーモニーを日本に送って演奏会をやろうということになりました。
※参照記事「日本とオーストリアのたった一度の戦争」
http://tamachan.cute.coocan.jp/Qingwar.htm
「カイゼリン・エリーザベト」(エリーザベト皇妃)号はオーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフの美貌の妻エリーザベト(下の写真)の名前を冠したオーストリアの巡洋艦。青島(チンタオ)での日本とドイツの戦闘にまきこまれて沈没した。
(エリーザベト皇妃)
しかし、今でこそオーケストラの引っ越し海外公演など珍しくないのですが、当時前例がありません。それに日本も空襲を受けていて、果してウィーンフィルが演奏できるような場所があるのかどうかも情報がない。
とりあえず、先遣隊としてウィーン少年合唱団を送り込んで様子を見てくることになりました。少年合唱団は日本中で大歓迎を受けます。
(ウィーン少年合唱団の映画「野ばら」。この映画、日本でも大ヒットしました)
日比谷公会堂など、使えるホールがあることもわかりました。そこでオーストリア政府は米軍に交渉し、大型のダグラス輸送機に楽器を詰め込み、地球を半周回って日本で演奏会を開くという大作戦に取り組みます。この時は残念ながらフル編成ではなく、小規模な室内楽編成でしたが、作曲家のパウル・ヒンデミットを指揮者として、モーツァルト生誕200年に当る昭和31年、日比谷公会堂で演奏会を開きました。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/orch/page045.html
(リハーサル中のパウル・ヒンデミット:ビオラ奏者としても活躍した、20世紀を代表する作曲家。ドイツ生まれだが、ナチスに追われ、アメリカに亡命。大戦後もドイツに戻らず、スイスに渡る。晩年は指揮者として活躍)
(昭和34年(1959)の第二回来日公演。指揮はカラヤン)
それから60数年が経ち、今ではウィーンフィルはじめ外国オーケストラの演奏会など珍しくも何ともなくなってしまいました。ウィーンフィルにとっても日本公演は経営上ドル箱で、「また来たの?」という声も聞かれます。しかし、こういう歴史を知っている人は残念ながら多くはありません。
コロナ禍の中、ベートーヴェン生誕250年で来日公演をやるということには、実はこういう歴史的因縁があるわけです。