住みたい習志野

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今問題のロシア、実は昔、戦時国際法で世界をリードしていた

2022-03-13 20:40:59 | 歴史

以前「習志野歴史散歩」を連載して頂いた「ニート太公望」さん、シリーズの中の

習志野歴史散歩:習志野のロシア人捕虜の世話をしたニコライ主教(「ニコライ堂」を造った人) - 住みたい習志野

という記事で、

当時ロシアは、国際法をリードし、「万国平和会議」を主唱。西欧列強に「文明国」として認められようとしていた

と書かれていました。ウクライナが緊迫する中、改めて以下の通り投稿してくれました。

戦争当事者が国連で議決権や拒否権を持っているのはおかしい

 ロシアの拒否権のおかげで国連が機能停止なのですが、自分が当事者である議案には議決権は行使できないとすべきではないでしょうか。習志野市議会でも、自分が利害関係人であるときは一時退席を求めますよね。だからロシアも、採決の前には退席すべきでしょう。当然、拒否権は使えない。
先日も、当番だからと安保理の議長席に平気で座っていましたが、おかしいですよね。

ロシアは国際法破りの常習犯?

 ロシアのウクライナ侵略は市民を巻き込んで、悲惨な様相を呈してきました。「戦争ではなく特殊軍事作戦だ」という強弁に、国際社会からは「国際法違反だ」という非難が巻き起こっています。

 ところで、ロシアは国際法破りの常習犯だ、と言われます。特に日本は第二次世界大戦において、まだ残存期間のあった日ソ中立条約を破棄され、樺太や北方領土をソ連に奪われた苦い経験があるので、そう思う人は少なくありません。ロシアより先に条約を破ったのは、独ソ不可侵条約を破棄して、突如独ソ戦を開始したヒトラーぐらいのものだ、とも言われています。

しかしロシアは昔、国際法をリードしていた国だった

 ところが意外なことに、19世紀から20世紀初頭にかけて、実はロシアは戦時国際法において世界をリードしていた国だったのです。フョードル・フョードロヴィッチ・マルテンス博士(1845~1909)という碩学がいてロシア皇帝を動かし、ハーグ平和会議を開催して戦争というものに国際法の網をかぶせようとしたのでした。

 マルテンスはエストニア人の両親の下に生れ、ドイツ語で教育をうけた後、サンクトペテルブルク大学法学部に入学します。1868年(明治元)にはロシア外務省に勤務、その後、母校サンクトペテルブルク大学で国際法の講師となります。そして、戦争というものが避けられないならば、何とかしてこれに文明の網をかぶせ、野蛮な行為を禁止しようという理論を提唱したのです。

マルテンス博士がリードし、ハーグ条約で、毒ガス兵器禁止、軍事目標以外への攻撃禁止、捕虜の取り扱いなどが決められた

 その学説はロシア政府を動かし、皇帝ニコライ2世は万国平和会議の開催を提唱します。1899年(明治32)、オランダのハーグでその会議が開かれました。26ヶ国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシア、イタリア、日本、ルクセンブルク、モンテネグロ、オランダ、ペルシア、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、セルビア、シャム、スウェーデン、スイス、トルコ、ブルガリア)が集り、ロシア代表としてこの会議をリードしたのはマルテンス博士でした。その結果、陸戦の法規・慣例に関する条約(ハーグ陸戦法規)などの重要な条約と,毒ガス兵器の使用禁止宣言などが採択されます。陸戦法規は軍事目標でないものへの攻撃の禁止、無辜の民の保護、捕虜の取り扱いなどを初めて成文化したものでした。

「ハーグ条約を守って文明国の仲間入りをしたい」という日本の捕虜の取り扱いを「模範的」と賞賛したマルテンス博士

 第2回の会議が予定されていましたが、その前に戦争が発生してしまいます。日露戦争(1904~05、明治37~38)です。ニコライ2世はこの戦争に、ハーグ陸戦法規を適用すると宣言します。この時ニコライ2世は、対する日本は国際法など守れまいが、文明国の戦争とはどういうものか、日本人に見せてやれとうそぶいたといわれます。マルテンス博士は俘虜情報局長に就任し、日本人捕虜の管理に心を砕きます。ハーグ条約が出来て最初の戦争だったため、いかにして理想に近い捕虜の管理をするか、実践してみせようとしたのです。

 ところが、日本に捕虜となったロシア兵がどういう処遇を受けているか、中立国から情報を受け取ったマルテンス博士は、日本は国際法など守れないどころか、大変立派な捕虜の取り扱いをしていることに驚きます。「日本の収容所は模範的だ」と惜しみない賞賛を語ったとされているのです。平和会議後最初の戦争ということで、日露戦争で国際法がどれほど守られ、どれほど守れないか、欧米各国が日本の取り扱いを注目していた中でのことでした。

 なお平和会議は、日露戦争の後、1907年(明治40)に第2回が開催され、第3回は1915年(大正4)に予定されていました。しかし、マルテンス博士は1909年(明治42)に亡くなり、1914年(大正3)には第一次世界大戦が勃発してしまいます。第3回会議は開かれることのないまま終ってしまいました。

 日露戦争は戦場で兵士が戦う戦争でした。バルチック艦隊が日本の沿岸に寄ってきて、都市に艦砲射撃を加え、無辜(むこ)の民が逃げ回るなどという場面は発生しなかったのです。

ところが第一次大戦で様相は一変。「戦時国際法」を守らなくなった世界

ところが第一次世界大戦で、ナポレオン以来の戦争の様相は一変します。長距離砲がパリを砲撃し、ツェッペリン飛行船はロンドンに無差別爆撃を加えました。戦場では非人道的な毒ガスが使われました(砲弾に仕込むのではなく、ボンベから直接戦場にガスを流せば「兵器」ではないだろう、という屁理屈が主張されました)。

また、ロシアでは革命が起こります。そして、帝政派対革命派、さらに革命派の中でも共産主義を掲げる勢力が台頭し、三つ巴で残忍な内戦と粛清を繰り広げます。これはロシア国内の内戦ですから国際法が及ばないのですが、その残酷な様相は、国際法上の取り扱いにも影響を与えます。こうして、せっかくマルテンス博士が戦争にかけた法の網は、早くも破られるようになったのです。続く第二次大戦では、戦時国際法は各国によってズタズタにされ、第二次大戦後は国連憲章が戦争は違法なものであるとしたことによって、戦時国際法が重視されることはなくなってしまいました。戦時国際法はいわば、戦争の正しいやり方を決めているのですが、国連憲章の下で、違法な戦争の正しいやり方ということは矛盾であり、もはや過去の遺物になったのだと考えられたからです。

ハーグ条約以前の野蛮な世界に戻ってしまった

 ところが、国連が出来ても武力衝突の歴史は続きます。そして今回、第二次大戦以来という露骨な侵略戦争の下で、無辜の民が殺され、逃げ回る映像が世界中に流れているわけです。戦争は違法だと言ってみても、これは戦争ではない、特殊軍事作戦だと主張されれば、規制する術がないのです。事態はどうやら、ハーグ陸戦法規以前の野蛮な世界に戻ってしまったようです。

ロシアにマルテンス博士という偉人がいたことをプーチンに思い出して欲しい

 プーチンはロシアに、マルテンス博士という偉人がいたことを思い出し、自分のやっていることを恥じてもらいたいものですね。

マルテンス博士(2014年にロシアが発行した切手)

(おまけ)

日本の捕虜の扱いの話に触れましたが、習志野のドイツ人俘虜収容所の橋口兼尊中尉はドイツ語が堪能で、捕虜から、バイエル社がゴムの添加剤を開発している話を聞き、実兄がやっているゴム工場に導入した、という話があります。習志野の歴史、世界とつながっているんですね。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gomu1944/70/9/70_9_514/_pdf/-char/ja

ゴム薬品輸入の動機と平泉洋行設立の経緯
第一次世界大戦では我が国は連合国に加盟 してドイツに宣戦布告し,大正2年には青島(チ ンタオ)に進駐した。青島で捕虜となったドイツ兵を千葉 習志野にあった捕膚収容所に収 容していたが、そこで軍務に服していた橋口兼尊はドイツ語が堪能であったので、たまたまゴム技術に明るい一捕虜からバイエル社の加硫促進剤のことを聞き、これを実兄橋口巳二 に伝えたのがきっかけで、有機ゴム加硫促進剤が工業的に使われていることを知 った。橋 口はドイツと通商が再開された大正9年に、見本として超促進剤に属する“Vulkacit P"を 輸入した。これが輸入促進剤の第一号である。
(ニート太公望)

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