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住みたい習志野

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東郷元帥 子孫の終戦(習志野の園田さん)12月26日読売新聞

2020-12-27 18:52:28 | 報道

(12月26日付読売新聞の記事)

(園田せつ子さん:習志野市)

東郷元帥 子孫の終戦
私の主人は「軍神」と呼ばれた東郷平八郎元帥の孫でした。明治から続く男爵の家系で園田耠一(こういち)と言います。一般人と華族の結婚に周囲は驚いていました。

  ■華族へ嫁入り 
 女学校を卒業後、結核を患い、私は東京の実家で療養をしていました。でも戦況の悪化で、軍需工場に徴用されました。注射剤を入れるガラスのビンを大量に水道で洗う工場での仕事はつらく、親戚の紹介で1944年4月、海運会社「大阪商船」(現・商船三井)に入りました。そこで出会ったのが耠一でした。
 園田家は戊辰、西南戦争で軍功を上げ、男爵となった武人の家系です。耠一は親戚から、「園田家のためにも華族と結婚するように」と何度も説得をを受けたそうですが、私との結婚を強く主張してくれました。耠一はコッペパンをよく譲ってくれました。出入りしていた海軍省の支給品だったそうです。友人から「コッペパンに釣られた恋」とからかわれたのも今では大切な思い出です。
 45年3月に結婚、東京・自由が丘で姑(しゅうとめ)の八千代さん(東郷元帥の娘)との3人暮らしが始まりました。5月の大空襲では焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、周囲が真っ赤に燃え盛る中、八千代さんと2人で、ひたすら暗い方へ暗い方へと逃げました。あの恐怖は生涯忘れません。

  ■「軍神」の孫、自決
 8月15日に玉音放送を聞いた時、「もう空襲を恐れなくてすむ」とホッとしました。しかし、園田家の戦争は終わっていませんでした。夫の弟で陸軍少尉だった忠男さんが、17日に自決したのです。私と同い年でした。結婚祝いの手紙の字が、とても奇麗だったことを覚えています。
 戦友らの話では、忠男さんは特攻隊長として15日午後に福島の基地から出撃予定だったそうです。正午の玉音放送で終戦が伝えられましたが、陸軍の偵察機が徹底抗戦を呼びかけるビラを散布するなど、情報が錯綜(さくそう)したようです。最終的に17日出撃で決まりましたが、その日の朝、忠男さんは宿舎でひとり、自決しました。
 「聖断一度下リシ上ハ如何(イカ)に作命ト雖(イエド)モ陛下ノ御命令ニ非(アラ)ズ」
 隊肩に向けた忠男さんの遺書にはこう記されていました。「軍神」を祖父に持ち、父が海軍の将官だった忠男さんにとって、陛下のお言葉に背き、出撃することは耐えがたかったのでしょう。苦渋の決断として、自決を選んだのだと思っています。軍国主義の犠牲ともいえる24歳の青年の死が、私には不憫(ふびん)に思えてなりません。

 八千代さんは、忠男さん自決の報を受けても、人前では一粒の涙も見せませんでした。「軍神」のお子様は覚悟が違う、と思ったことを今でも鮮明に覚えています。
 園田家にとって戦後は苦難の連続でした。私の着物は全て芋と交換し、消えてなくなりました。東郷家や園田家の勲章や菊の御紋が入った花瓶なども進駐軍に売り、生活費にしました。華族制度も廃止され、男爵家は終焉(しゅうえん)を迎えました。
  (聞き手 鳥塚新)  (以上、12月26日読売新聞より)

東郷平八郎にまつわるエピソードをいくつかご紹介します。

ゆっくり解説 東郷平八郎

➀アメリカのニミッツ海軍元帥※は自身を「東郷の弟子」と語り、戦艦「三笠」の修復にも力を尽くした
※12月8日の「住みたい習志野」ブログ投稿に「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出て来りゃ地獄へ逆落とし」という「比島(フィリピン)決戦の歌」が紹介されていましたが、その「ニミッツ」さんです。
うま過ぎる!中学生の「イヨマンテの夜」。12月8日は開戦の日、そしてジョン・レノンの命日(投稿) - 住みたい習志野

➁日露戦争で、大国ロシアにアジアの小国日本が勝った、ということでトルコに「東郷ブーム」が起き、子どもの名前を「トーゴー」にするのが、はやったそうです。

トルコの女性作家、ハリデ・エディプ・アドゥヴァル (Halide Edip Adıvar)さんも2番目のお子さんを「ハサン・ヒクメトゥッラー・トーゴー Hasan Hikmetullah Togo」と名付けたそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB

肉じゃがを始めたのは東郷さん?

イギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後に艦上食として作らせようとしたが、命じられた料理長はビーフシチューを知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりという話があります。
しかし、どうやらこれは、1990年代中ごろに舞鶴市が町おこしのため「舞鶴に赴任した東郷平八郎が肉じゃがを作らせた」として宣伝したことが始まりの都市伝説のようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8C

 

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