7日付の読売新聞茨城版の記事を見て、「この問題も終わったか」という感想を持つ。
記事の内容は茨城県と鹿島鉄道沿線自治体が行ってきた財政支援を今年度で打ち切り、来年度以降の財政支援を行わないことを決めたというもの。
鹿島鉄道が来年3月末での廃止を決め、廃止届も国へ出している今、今回の行政サイドの結論も出揃ったため廃止に向けて事態は動くことになる。
行政が財政支援を打ち切る理由として、利用客が減少し続けるローカル私鉄への補助が合理的に説明できないことがある。
確かに4月頃に通学定期の割引等の試験的なサービスを行って通学生を列車に誘導しようとしたが「運賃が高い鹿島鉄道」のイメージを覆すには至らなかった。
特にターゲットとした通学定期客の減少が大きいのはどう考えてもマイナスだ。
本来であれば、この種の試みは廃止届を出す前、新規需要の開拓を目的に試行する必要があったと思うのだが。
その結果は乗客減に歯止めがかかっていないことを端的に示すことになり、逆効果になってしまった。
「利用されない」という点だけを考えれば、この問題の結論は早々に出ていた。
例えば、百里基地へのジェット燃料輸送がなくなり一回目の存亡を迎えた時に実施すべき試みだったと思う。
そうすればもう少し展開も変わっていたかもしれない。
それからもう一つ、利用客が上向かない公共交通に対して野放図に補助を行って存続させることの是非がある。
少数の利用者の利益のために税金を際限なく投入できるかという点。
これは9月末で廃止された桃花台新交通の時も同様の議論がなされているが、今回の鹿島鉄道もその例に倣うことになる。
ただ、「平成の大合併」で自治体が再編される前の沿線自治体であればどういう判断を下したのだろうか。
「もしも」はないが、この点は気になった。
財政上の理由と沿線外の地元対策から沿線自治体が否定的になる中、存続を求めた側が始めた「鹿島鉄道存続再生基金」の方も目標値2億円の10%しか集まっていない。
思うように進まないため閉塞感が強い。
結局、鹿島鉄道を存続させようと補助してきた側は何を望んでいたのだろう。
そんな疑問が頭を離れない。
「単に関東鉄道の庇護の元で走っていてくれればいい」というのが一番近い答えなのだろうと個人的に思っているが、それでは新しい発想も何も生まれてこない。
そして親会社が支援できないとなった途端に議論は迷走。
一致しているのは「お金をかけたくない、出したくない」という点くらい。
「お金をかけない」という点も大事だが、広域的な視点で自治体間の議論はどれだけなされたのだろう。
これも「鹿島鉄道対策協議会」の会合が18年度殆ど開催されていないに等しい現状を考えると、程度は知れている。
結局、地域の公共交通を守るために採った政策が妥当か否かという所まで遡って考えなければならないだろう。
代替バスに関してもコスト感覚を持って考えていく必要がある。
話題を変える。
鹿島鉄道の存続に奔走していたのは地元の高校生達だが、その一方で親や教師はバイク通学や自家用車での送迎を望み、鹿島鉄道での通学には否定的だった。
この話、地元の公共交通離れを象徴するエピソードとして読んだが、地元民でない立場で言えば異様なものに映った。
このような風土に鉄道代替バスを単純に走らせるとどういう結果を招くか、火を見るより明らか。
今後の政策を誤ると、代替バスすら消滅し、鹿島鉄道沿線エリアは「公共交通空白地域」になりかねないという懸念を強く持つ。
それでも公共交通を利用しなければならない交通弱者のためにどういった施策が必要か、沿線自治体は考えなければならないだろう。
今回の記事の内容に基づいて最終的な決断が今月中旬に下されることになる。
「何が何でも路線を残す」立場をとると、何かしらの好材料を見つけてで状況の打開を目指すことになるが、今回の事例では施設・車両の老朽化のみならず、沿線利用客が延びるどころか逆に減ってしまったことに代表されるように好材料は出てこなかった。
散々迷走を重ね、時間をムダに費やしてたどり着いた今回の結末は、一回目の廃線危機の時にどう鹿島鉄道を位置づけるか、自治体はもちろん住民も真剣に考えてこなかった上での当然の結果だった、というのは厳しすぎる見方だろうか。
趣味的には本当に残念だが、今はただ、現実を受け入れるしかない。
記事の内容は茨城県と鹿島鉄道沿線自治体が行ってきた財政支援を今年度で打ち切り、来年度以降の財政支援を行わないことを決めたというもの。
鹿島鉄道が来年3月末での廃止を決め、廃止届も国へ出している今、今回の行政サイドの結論も出揃ったため廃止に向けて事態は動くことになる。
行政が財政支援を打ち切る理由として、利用客が減少し続けるローカル私鉄への補助が合理的に説明できないことがある。
確かに4月頃に通学定期の割引等の試験的なサービスを行って通学生を列車に誘導しようとしたが「運賃が高い鹿島鉄道」のイメージを覆すには至らなかった。
特にターゲットとした通学定期客の減少が大きいのはどう考えてもマイナスだ。
本来であれば、この種の試みは廃止届を出す前、新規需要の開拓を目的に試行する必要があったと思うのだが。
その結果は乗客減に歯止めがかかっていないことを端的に示すことになり、逆効果になってしまった。
「利用されない」という点だけを考えれば、この問題の結論は早々に出ていた。
例えば、百里基地へのジェット燃料輸送がなくなり一回目の存亡を迎えた時に実施すべき試みだったと思う。
そうすればもう少し展開も変わっていたかもしれない。
それからもう一つ、利用客が上向かない公共交通に対して野放図に補助を行って存続させることの是非がある。
少数の利用者の利益のために税金を際限なく投入できるかという点。
これは9月末で廃止された桃花台新交通の時も同様の議論がなされているが、今回の鹿島鉄道もその例に倣うことになる。
ただ、「平成の大合併」で自治体が再編される前の沿線自治体であればどういう判断を下したのだろうか。
「もしも」はないが、この点は気になった。
財政上の理由と沿線外の地元対策から沿線自治体が否定的になる中、存続を求めた側が始めた「鹿島鉄道存続再生基金」の方も目標値2億円の10%しか集まっていない。
思うように進まないため閉塞感が強い。
結局、鹿島鉄道を存続させようと補助してきた側は何を望んでいたのだろう。
そんな疑問が頭を離れない。
「単に関東鉄道の庇護の元で走っていてくれればいい」というのが一番近い答えなのだろうと個人的に思っているが、それでは新しい発想も何も生まれてこない。
そして親会社が支援できないとなった途端に議論は迷走。
一致しているのは「お金をかけたくない、出したくない」という点くらい。
「お金をかけない」という点も大事だが、広域的な視点で自治体間の議論はどれだけなされたのだろう。
これも「鹿島鉄道対策協議会」の会合が18年度殆ど開催されていないに等しい現状を考えると、程度は知れている。
結局、地域の公共交通を守るために採った政策が妥当か否かという所まで遡って考えなければならないだろう。
代替バスに関してもコスト感覚を持って考えていく必要がある。
話題を変える。
鹿島鉄道の存続に奔走していたのは地元の高校生達だが、その一方で親や教師はバイク通学や自家用車での送迎を望み、鹿島鉄道での通学には否定的だった。
この話、地元の公共交通離れを象徴するエピソードとして読んだが、地元民でない立場で言えば異様なものに映った。
このような風土に鉄道代替バスを単純に走らせるとどういう結果を招くか、火を見るより明らか。
今後の政策を誤ると、代替バスすら消滅し、鹿島鉄道沿線エリアは「公共交通空白地域」になりかねないという懸念を強く持つ。
それでも公共交通を利用しなければならない交通弱者のためにどういった施策が必要か、沿線自治体は考えなければならないだろう。
今回の記事の内容に基づいて最終的な決断が今月中旬に下されることになる。
「何が何でも路線を残す」立場をとると、何かしらの好材料を見つけてで状況の打開を目指すことになるが、今回の事例では施設・車両の老朽化のみならず、沿線利用客が延びるどころか逆に減ってしまったことに代表されるように好材料は出てこなかった。
散々迷走を重ね、時間をムダに費やしてたどり着いた今回の結末は、一回目の廃線危機の時にどう鹿島鉄道を位置づけるか、自治体はもちろん住民も真剣に考えてこなかった上での当然の結果だった、というのは厳しすぎる見方だろうか。
趣味的には本当に残念だが、今はただ、現実を受け入れるしかない。
鉄道経営で成功する為には、集客の為に力を入れ、かつ徹底的なコストを削減する事が必要だ。もちろん安全を確保しての話だが。
樽見鉄道なんかは苦しいながら経営者が必死に頑張っている姿勢がある。
そんな企業には地元も応援したくもなろう。
まず経営者があの手この手で頑張るのが必要ではないか。