森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

ペインリハ学会を終えて

2013年09月02日 11時26分39秒 | 日記
金曜より博多に向かい、昨日夜に帰宅してきました。今回はダブルヘッダーということもあり、少し大変でしたね。金曜日、日本ペインリハビリテーション学会の理事会、懇親会に出て、台風の進路を横目に今後のことを建設的に確認できました。あと数年基盤作りとなると思います。次年度に開催することになった第19回日本ペインリハビリテーション学会は9月に大阪で開催する予定です。私が大会長を仰せつかりました。信迫準備委員長をもとに準備をすすめてまいります。懇親会終了後、22時過ぎには翌日一緒に講演する松尾先生のもとに向い、飲み、そして兵庫医大の竹林先生を待ち、信迫氏とともに懇談をしました。1回目の懇親会はしごです。

翌日はセンスタイル様の主催の講演を午前中2時間半にわたり行い、そのバトンを松尾、竹林、信迫の三氏に渡して、会場を後にしました。信迫氏も一旦後にして、翌年のための開場下見です。沖田実大会長の講演になんとか間に合い、その後、東京大学の住谷先生の講演の司会をさせていただきました。その内容は認知神経科学からみた疼痛医療であり、疼痛患者の体部位再現の問題から始まり、モーターコマンドと感覚情報の解離、空間無視とCRPS患者の類似的現象、そしてそのメカニズム、自己中心空間の問題や身体イメージの障害など、最新のillusory line やmental number bisectionなどの話題もふまえて、お話いただきました。こう考えると、疼痛患者は、もともとは脳にダメージがないにもかかわらず、結果として脳損傷と似たような機能不全を来していることから、慢性化から脱却できないと認識することができ、最終的には運動麻痺の神経メカニズムや高次脳機能障害の神経メカニズムが適応できるわけで、したがって、脳損傷者に対応したリハビリテーションの適応となることはサインスから考えて間違いないと思う訳です。出力系と入力系の食い違いを考え治療を考える。これが新しい疼痛医療の考え方でしょうね。なぜなら、身体局在の疼痛が主たる問題ではないわけですから。それはあくまでも結果にすぎません。ある神経メカニズムについて彼と共通認識をもてたことは、今後の研究の方向性を意識づけることができました。特別講演後、講師のみなさま、関係各位と懇親会を行い、その後20時にはセンスタイルの方に向かいました。そこではセンスタイルの国中代表をはじめ、講演を終えた松尾氏、そして翌日に講演を控えた竹林氏と楽しい懇親を行うことができました。竹林氏の方向性やいくつかの治療にみえる適応性や問題点を共通認識することができました。彼の翌日の講演が聴く事ができず残念でしたが、まだうちで呼ぶ事ができればと思います。ただ聴くだけでなく、インタラクションしないと彼も成長できないと思いますし、我々も成長できません。その後、ペインリハ学会で発表している前岡先生や出版社、書店の方々もお見えになり、遅くまで飲む事になりました。2回目の懇親会はしごです。

日曜日は一般演題等を聴きながら、原稿を修正するといった時間を過ごすことができました。また午後には、整形外科、心療内科、心療内科看護部、リハから慢性疼痛にどのように関わるかを考えるシンポジウムをきき、特に心療内科の看護部からの現象を概念化していく作業に感銘を受けました。有意義な時間を過ごすことができました。患者の病態を現象からとらえる、そんな当たり前のことが、治療法優先だとなかなかできないのも実情です。考え、考え、考え、そしてストラテジーを考案する、そこが基本だと思います。

さて、一般演題の中からうちの研究室の今井亮太君が優秀賞に選ばれました。私も知らされておらず、突然のことで、うれしい思いになりました。努力は裏切りません。彼には院に入ってからは厳しく接していますが、それにへこたれる事なく、毎日臨床、そして臨床研究にうちこんでもらっています。遊ぶ時間を削減してもやる意味があると思います。是非とも将来的に疼痛リハビリテーションを引っ張って行く一人になることを希望しています。長崎大のメンバー等といい意味でのライバルが出てきて、うれしい限りです。疼痛グループでは、昨年の信迫氏の優秀賞、ならびに運動器疼痛学会での優秀賞、そして今年は大住君の日本疼痛学会での優秀論文賞、そして今回と勢いにのっていますね。他のグループもこれに次いでください。

さて、私はまた明日より箱根です。日本認知科学会でディスカッションしています。司会は明治大の嶋田先生(身体性の空間、時間の一致・不一致で有名な)です。どういうコラボになるか楽しみです。学術振興会議理事長の安西先生など、著明な認知科学者がいらっしゃるということなので、緊張するか、私自身楽しみです。しかし、肉体はぼろぼろです。

脳科学と生命倫理

2013年09月02日 11時24分25秒 | 脳講座
BMIやNeuromodulationは一歩間違えば人の手で人を崩壊に導かせる技術になるかもしれない。と自分を律する意味でも問題提起しておこう。医療者も一患者のためと思いつつ、「生物としての人間」の一人として、そのものの本質的倫理を考える必要があると思う。おそらく、こうした介入は医療における常識的行為となることは間違いなさそうである。遺伝子治療やiPS細胞と時同じようにして。

DBSによるパーキンソン病の治療効果が示されている一方、うつ病の効果も示されている。しかしながら、この事実は感情のコントロールを外部から行うことができるということを暗示している。また外部からの物理的刺激(介入)は、人間の自由意志という問題にも接近してしまう。Libetによる問題提起は、くしくも自己の意識的な意欲を外部からの脳に対する何らかの刺激によって作動させることが可能ではないかという視点がうみだしてしまう。すでに粗雑であるがラットのサイボーグ化は可能なわけである。

常識は文化が変われば非常識となる。時が経てば非常識となったり常識となる。常識や非常識にまどわされず、常識でなく生物としての人間としての良識を問うべきと声を高く発せないといけない時がくるかもしれない。そもそも、平等にコミュニケーションをとったりする権利を主張すること自体が自然としての人間として不自然である。自然に存在する石や花々を見れば、同じであるものこと自体が不自然だ。生きて死ぬ私、それは定めである。どのように生まれるか、どのように死ぬか、どのように病気になるか、どのように障害になるか、そんなことを予知でき、みんな人工的に平等になる社会を想像したとき、果たして本来の人間の姿がそこにあるのか。自然(平等でない)だからこそ、できるだけ公平にという社会倫理的秩序を生み出してきたわけではないか。

自分の脳波で動かしたアンドロイドが行った倫理的に間違った行為を律したり、罰したりすることができるであろうか。これは身体(アンドロイド)、脳(人間)といった心身問題にも通じてゆく。そうかんがえれば、私の研究の一つであるNeurofeedbackもethics問題に抵触してしまう。他人の心を客観化できてしまえば、本音と建前を使い分けることができない、なんて不自然でストレスフルな社会になってしまうであろうか。。。


iPS細胞から脳の再生。脳損傷者の治療に少しの光が。と思うが両手をあげては万歳できない。ますます「人間の脳」は「人間の脳」をどうしようとしているのか困惑するのではないかと。「心」はどのように宿るのか。「意識」の来歴は?などとサイエンスを考えるとともに、「病」「死」というものをどう捉えるべきなのかと。実はここ数年、臓器移植に対しても、おなじような生物としての人間の存在・倫理を考えている。以前の医療者としての考え(特に腎疾患を研究していた来歴からも)しか持ち得ていない時は、諸手をあげて賛成だったが、今はそうではない。揺らいでいるというのが正確だろう。意思表示カードも以前はすべて○だったが、今はそのカードの存在すらわからない。自分は臓器提供しても、他の者にはそれを好意的には薦めないだろう。こういうethics問題は答えはでないが、どこかで人間とは何かと、自問することが大切だろう。そうでないと医療者は杓子定規的に決めてしまう。そして人間の脳は自分の生きてきた道を肯定するため、幅広い教養と幅広い意見から、対象者は判断すべきだと思う。

そういった意味でゴーギャンの絵画は実に的を得ている。「どこに向かおうとしているのか」人間とはそういう意味では面白い。

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature12517.html