隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

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広島原爆被爆ー記憶と記録

2015-08-14 17:09:31 | Weblog

広島原爆被爆ー記憶と記録Hiroshima A-bomb victim--memories &records 平成乙未廿七年葉月十四日

 今年は、終戦70年という節目と憲法改正という手続きなしの閣議決定で「集団的自衛権」の強行がなされた。
 昨日は、川内原発の再稼働で原発ゼロではなくなった。一番の問題であった「核のごみ」は各原発で最終処分せねばなるまい。30年後今子供たちがやってかなくてはならないことと先送りとなった。
 
 平成25年 近所に住んでおられるSさん90歳は、社会福祉協議会で長年この地域に貢献され、天皇より瑞寶雙光章を授与された。
 そのSさんは、先の太平洋戦争で体験した事実、及びあの時の光景の全てを出来る限り記憶を辿りながら未来への伝言とするため記述されていた。もう20年も前であるが、当時は50年を節目とした時代の要請でもあった。 =平成7年1月=
 
 彼は昭和18年旧制中学卒業され、東京目黒の逓信省無線電信講習所船舶科に入り、名古屋港無線局での実習、工場での実習を終えると、陸軍・海軍に分けられ、軍属となった。東京軍管区司令官名で「昭和20年5月1日13時、広島市皆実町、暁第16710部隊ニ入隊スベシ」の通達書を受け、広島へ。入隊1か月後、見習士官になり、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と葉隠の武士道を徹底的に学び、この聖戦は、死ぬ覚悟と信念は出来ておったという。
 当時広島の各部隊は、24時間体制で比治山の洞窟堀作業を命ぜられ、8月5日午後6時~翌6日午前6時まで穴掘り作業を行い、午前7時過ぎには帰隊、点呼、朝食の後、午前8時から12時まで仮眠就寝の予定だったという。
 
 小隊全員就寝、横になった直後であった。物凄い閃光、爆風、熱風により内務班全てのものが飛び散り、一瞬何が起きたのか全く分かりませんでした。天井が落下したのです。私は,軍刀で抉じ開け皆夫々に何とか脱出したのですが、お互いに血塗れ(ちまみれ)で小隊全員受傷。居た所は二階の所から折れ曲がった状態で残っていて助かったことが分かった。その時の状況はあたかもマッチ箱を一気に踏み潰した有様で、乾燥していた真夏の暑さの中、空は一面に土と砂ぼこりが高く舞い上がり、視界は殆どありませんでした。よくみると、私達のいた兵舎は匚字型になっていて、たまたま私達の隊は、最後に継ぎ足した新棟にいたためか、ここだけが折れ曲がって立っていたのです。その他の棟は、全部二階の庇が地面に叩きつけられ一瞬にして全壊していました。また、いつも見馴れていた兵舎横の柳の大木直径約50㎝位のもの4本が一斉に同じ方向に折れ曲がって倒れているのを見て、これは唯事でないと直感しました。 持って出た敷布を裂き、頭に巻きながら「比治山に避難」と連呼し行動。その時の光景は到底筆舌に尽くし難い惨状でありました。体のあちらこちらを焼かれた人、人、人・・・。男女の区別も出来ないほどで、外へ飛び出してきた人々が右往左往し、泣き叫ぶ人、人。近くにある防空用水溜りに飛び込む人、人。兵隊を見つけ「兵隊さん、水、水・・・」と足に纏わりつく、焼けた異臭と共に視界のよく分からなかった中でしたが、将に生き地獄を見る思いでありました。
 何とか比治山に着いたものの山の緑は焼けて一面茶褐色となっていて、その物凄さに驚きながらお互い人員の確認(殆ど無理)お互いに受けた傷の手当て(敷布を裂いて巻くくらい)など、市内から這い上がって来た一般市民の人々も皆あちこち焼け爛れ、膨れ上がった大小の水泡を押さえながら血塗れで、呻(うめ)きながら、蹲(うず)くまっていました。

 その頃、急に雨が降り出し、雷も鳴らずこの真夏のこの時期にと不思議なことでありましたが、夫々が手に受けて喉を潤したのでした。ともかく焼けて熱い、痛いの叫び声の中で・・・
  (これが黒い雨ではなかったでしょうか)
ーーーー火傷には油がいいという事で、元気な兵隊が兵舎から軍靴用の”ほ革油を調達。一斗缶から兵隊も民間人も我先にと塗るーーーーあの時の光景は、異臭もさることながら、あたかも生魚を金網に乗せ火にかけ生焼けのまま魚を引っ繰り返した時、皮が剥け、生身が丸出しとなる・・・。
 そんな所へ、ぶよぶよに膨れあがった水泡の所に流れ出る汁・・・。生涯忘れことが出来ない、決して思い出したくない、二度と口にしたくない光景で、手の皮は先の爪に引っ掛かってだらりと垂れ下がり、露出した所の皮も剥げ、そこからしたたり落ちる汁。こんな光景は、言語を絶するものでありました。午後になって、部隊から乾パンの配給があり、これを一般の人々と分け合って食べた思い出が鮮烈です。夕方になりあたりが暗くなると、山から見下ろす市内は一面火の海で赤々と浮かんできた時は、何故?どうして?と理解に苦しみました。この火はゴォゴォと音をたて一晩中燃え続き消えることはなかった、翌7日、近くの国民学校に集合の指示があり、皆、励まし合いながら徒歩で行動。到着後、初めて頭部裂傷、顔面受傷の仮手当を受け、8日まで待機。学校は各教室から机、椅子が校庭へ。廊下と教室は被爆した市内の各部隊の負傷兵が次々と運び込まれてくる。焼け爛れ水泡から汁が流れている者。露出した所の皮が垂れ下がっている者。教室も廊下も負傷兵で溢れていた、
そこを軍医が足早に廻りながら手当の方法もないのか駄目、々、々と呻く者も含め衛生兵に指示する様は、異臭と共に水泡から蠢(うごめ)く白い小さな蛆(うじ)どもの動き、焼け爛れてはけた所にも白いものが一杯ーーーー決して脳裏から消えることのない状況でありました。また,校庭の一遇では、何体かをまとめ荼毘に付していて、その匂いと煙はいつまでも立ち昇っていました。
 翌10日、発熱し倒れてしまい軍用の小船で他の負傷者とともに巌島、臨時陸軍病院で化膿した部分の手当を受けました。

 8月15日この臨時陸軍病院で終戦の詔勅をラジオを通じて途切れ途切れでありましたが、涙ながら全員が直立の姿勢で聞きました。
 云い様もない悔しさ、空しさが込み上げ戦死した諸先輩のことなど浮かび、とめどなく涙が流れ言葉もありませんでした。
 翌、16日本隊に戻り処理作業に従事。

 将来を担う若者、子供達にも被爆体験を率直に、その実態を語り伝えるとともに、もう二度とあの様な惨事が世界に起こることのない様、願わずにはいられません。
そして、あれはもう過去の事だとして、忘却や風化させてしまう様な事があっては、絶対にいけないと思います。無差別に生きとし生けるもの全てを殺戮し焼き尽くす様な兵器は勿論のこと、人間と人間が殺し合わなければならないような戦争も起こしてはならないのに、今まだ世界各地で紛争が絶えず、殺し合いが頻発していることは、人間は救い様のない愚かな動物でしょうか。いいえ、そんなことは決してないはずです。それぞれの民族は、排他的な考えを捨て、宗教的、思想的な考えも、お互いにその立場を理解し合い、人類の英知を傾け、かけがえのない命と共に、地球が永遠の楽土となることを切に願うものであります。

 貴重な被爆体験記を転記させて頂きました。

お読み下され、感謝致しなす。