隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

詩仙堂Shisen-dou と平八茶屋Heihachi Chaya

2017-06-10 10:35:25 | Weblog
詩仙堂Shisen-dou と平八茶屋Heihachi chaya     平成丁酉29年水無月10日


 現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。
凹凸窠(おうとつか)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。
 名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上に各詩人の詩を石川
丈山自ら書いて四方の壁に揚げたことより呼ばれる。
 
 石川丈山は、儒学に比して漢詩の地位の低かった江戸初期に、詩作をもっぱらとした点で特異な存在であり、祖父以来徳川家康に仕えて武名があり,丈山もその幕下にあったが,大坂の役に軍令を犯したため退けられて京都に閑居。藤原惺窩 (せいか) に学んで詩名が高く,「日東の李杜」と称された。寛永 18 (1641) 年59歳で、比叡山のふもとの一乗寺村に詩仙堂を築いて悠々自適の生活をおくり,後水尾上皇の召にも応じなかった。書や画にも巧みであった。主著『覆醤 (ふしょう) 集』 (71) ,
 隷書、漢詩の大家で、わが国における煎茶(文人茶)の開祖である。中国の漢詩の名人である杜甫・李白に匹敵するほどの出来栄えと絶賛されています。丈山の没後、ここは曹洞宗のお寺として残されました。36詩人とその詩を選定したのは、寛永18年59歳の時、36歌仙に倣ったもので、林羅山の意見も求めた。建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。
  さつき  
   富岡鉄斎


■詩仙堂の見どころ
丈山は漢詩をつくるだけでなく、庭づくりの名手としても有名。丈山の手がけた庭園は京都市内にも数ヵ所あり、詩仙堂の庭も丈山自ら手がけた庭園です。庭園には四季折々の花々や木が植えられ、季節ごとに異なる表情を楽しむことができます。おすすめは、5月下旬に赤紫色の花を咲かせる「サツキ」。嘯月楼(しょうげつろう:3層の建物)の1階から眺める「サツキ」が特に素晴らしく、この景色を目的に多くの観光客が押し寄せます。皐月と嘯月楼
11月頃の紅葉の時季の眺めも見事なのだとか。

■「ししおどし」発祥の地
当時、詩仙堂が建てられた場所は山のふもとにあり、夜中に頻繁に出没するイノシシや鹿を追い払うために「ししおどし」が考案されました。イノシシたちはその音に驚き、畑を荒らさなくなったのだとか。また、静寂の中でコーンと竹が石を打ちつける響きは、隠居生活を送る丈山の慰めとなったといわれており、彼がつくる庭には「ししおどし」が設置されるようになりました。それがいつしか全国に広まったといわれています。    

■丈山の壁語録

    

■ 茶室
   
☆ 平八茶屋         
 いきなりの鱧(はも)料理にびっくり。ブロシャーに頼山陽、岩倉具視、夏目漱石(門に出てくる)、北大路魯山人の「とろろ屋の主粘って60年 商売繁盛 子孫繫栄」という18代の還暦祝いの『書』が、
今も家宝として残っているという。
 鮎  天ぷら  とろろかけ麦ご飯
  
 私も皆さまも、大満足でした。
次は、旧三井家下鴨別邸へ行きました。

お読み下され 感謝致します。
  

圓光寺enkouji

2017-06-08 00:06:00 | Weblog
圓光寺 enkouji               平成丁酉廿九年水無月七日     

京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は瑞巌山(ずいがんさん)、開山は閑室元佶(三要)、開基(創立者)は徳川家康。
   

当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた。 十牛の庭と呼ばれる庭園には洛北で最も古いと言われる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟がある。秋は紅葉の名所となる。
水琴窟     奔(ほん)龍庭
渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組であらわした平成の枯山水である。
慶長6年(1601)徳川家康は、下野足利学校第9代学頭・三要(さんよう)元佶(げんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し、学校とした。
孔子家語(ケゴ)・貞観政要などの書籍を刊行し、圓光寺版と称され、使用された木活字が現存している特筆すべき寺院である。活字約5万個という。
  

  
 丸山応挙の六曲屏風一双があった。         
   雨竹風竹図(紙本墨画)

 久し振りに お読みくだされ感謝致します。
 後述する詩仙堂と平八茶屋と旧三井家下鴨別邸へと行ってきました。














わん丸君

2017-04-06 22:43:01 | Weblog

わん丸君
ここ2ケ月 ブログ更新出来ず、閑話休題に移れてません。
ブログの更新も10年となると、以前書いたことが深められずに、困ってしまう。
 
読むには読んでいる本といえば、堤未果氏の増補版ですが、トランプ大統領のTPP交渉拒否から、堤氏の指摘が重なってしまい、切れ味をどこに持っていくのやら 分からなくなっております。

「逃げの有楽斎」のように上手に立ち回れません。
でも、ちゃんと役目をわきまえて、関ケ原の戦以降はお茶茶の後見として活躍しますが、如何せん相手がお茶茶さんでしたからだめでしたね。
 二条城、建仁寺塔頭の書院と如庵で悠々自適な生活を送れたということだけでも、最高の締めくくりでしたね。付け加えるならば、長谷川等伯と狩野派の襖絵に囲まれて、お静さんとの最晩年は何と幸せだったろうと
思います。

「一期一会」ですね。イスラエルのガイドが日本語で繰り返してくれた。
” A once-in-a-lifetime chance"
では、また。

白帝城 Bai di cheng 2

2017-01-18 22:50:42 | Weblog
柚子

白帝城 Bai di cheng            平成丁酉廿九年睦月十九日

犬山城ガイドも、今年で、7年目となりました。


3層4階地下2階となっていますので、ガイドも1日3組目ですと疲れてきます。

でもそういった有難い日は月1日くらいで、私に合わせたように外国の方の訪問が少ない。

1月という寒い月は致し方ないですよね。あくまで待機活動でホッカイロを抱かえて、待っております。

ある仲間は修行ですねと言っております。部屋に電気ストーブがあるにはありますが、外国の方は受付の看板を見ないで

入ってこられます。私のガイドの半数はそういう方たちばかりです。電気は切ってありますから、心配はいらない。

犬山城は別名 白帝城という。

伝えられるところ、「早に白帝城を発す」李白の詩にちなんで、江戸中期の儒学者荻生徂徠が命名したとなっております。

村瀬太乙の「白帝城」という詩があります。

『風光画の如く(ふうこうえのごとく)情に堪えず(じょうにたえず)

況や是れ誰が名づく(いわんやこれたれがなづく)白帝城と

今後未だ知らず(こんごいまだしらず)物の存没するを(もののそんぼつするを)

渡頭独り立ちて(ととうひとりたちて)灘声を聴く(だんせいをきく)』

[寸訳]
犬山城の付近の風景は絵に描いたように美しく感動的である。
誰が白帝城と名づけたのだろうか。後の世の物事は分からないが、私は今木曽川の
渡し場に立ち、急流の瀬音をしみじみと聞いている。


村瀬太乙は美濃の生まれ。幕末:明治の儒学者、詩人, 画家。

頼山陽に学び明治維新の直後、犬山藩の藩校「敬道館」で教授する。

書画共に飄逸(ひょういつ)非凡(世事を気にせず、のんき)と言われた。奇行の逸話が多い。

パソコンの調子がつかめず、ぼつぼつになっております。

お読みくだされ、感謝致します。

真珠湾での慰霊A memorial service at Pearl Harbor2 

2016-12-31 22:13:01 | Weblog

真珠湾での慰霊A memorial service at Pearl Harbor 2    平成丙申二十八年師走三十一日

オバマ大統領は、来年一月に任期を終えるため、最後の首脳会談として真珠湾訪問を選んだ。
スピーチのさわりを記録していこう。

Prime Minister Abe, on behalf of the American people, thank you for your gracious words. Thank you for your presence here today … an historic gesture that speaks to the power of reconciliation and the alliance between the American and Japanese peoples; a reminder that even the deepest wounds of war can give way to friendship and lasting peace.
 安部首相、米国民を代表して、こころのこもった言葉と今日ここに来てくれたことに感謝する。日米の人々の和解と結束の力を示す歴史的な行動であり、戦争の最も深い傷でさえ、友情と恒久平和に変えることができると気付かせてくれるものだ。
To Americans … especially to those of us who call Hawaii home … this harbor is a sacred place. As we lay a wreath or toss flowers into waters that still weep. We think of the more than 2,400 American patriots … fathers and husbands, wives and daughters … manning Heaven’s rails for all eternity.
  米国人、特にハワイを故郷と呼ぶわれわれにとって、この湾は聖なる場所だ。われわれがここに花輪をささげ、今も涙を流す海に花束を投げ入れる時、永遠に天国へ行ってしまった2400人を超える米国の愛国者たち、父であり夫であり、妻や娘であった人たちに思いをはせる
We salute the defenders of Oahu who pull themselves a little straighter every December 7th, and we reflect on the heroism that shone here 75 years ago.
我々はオアフ島を守ろうとした人々に敬意を表する。彼らは毎年12月7日になると背筋を伸ばす。そしてわれわれは75年前にこの地で示された勇敢さに思いをはせる。
<略>
The character of nations is tested in war, but it is defined in peace. After one of the most horrific chapters in human history … one that took not tens of thousands, but tens of millions of lives … with ferocious fighting across this ocean … the United States and Japan chose friendship and peace.
国家の真価は、戦時中に試されるが、平和の下で明確になる。太平洋全域にわたった激しい戦いにより、
数万どころか数千万の命を奪った人類の歴史上、最も恐ろしい一章の後、米国と日本は友情を選び、平和を
選んだ。
<For each otherお互いのために>
It is here that we remember that even when hatred burns hottest, even when the tug of tribalism is at its
most primal, we must resist the urge to turn inward. We must resist the urge to demonize those who
are different. The sacrifice made here, the anguish of war, reminds us to seek the divine spark that is common to all humanity. It insists that we strive to be what our Japanese friends call otagai no tame ni …”with and for each other.”
この地でわれわれは思い出す。 憎悪が最も激しく燃えさかる時、民族主義が最も高まる時、内向きになることに抵抗しなければならない。
ここで払われた犠牲、戦争の苦悩は、全人類に共通する神聖なるものを追求するよう思い起こさせてくれる。
日本の友人たちが言う「オタガイノタメニ」(お互いのために)努力しなければならないことを示している。

Prime Minister Abe, I welcome you here in the spirit of friendship, as the people of Japan have always welcomed me. I hope that together, we send a message to the world that there is more to be won in peace than in war; that reconciliation carries more rewards than retribution.
Here in this quiet harbor, we honor those we lost, and we give thanks for all that our two nations have won …
together, as friends.
安部首相、日本の人々がいつも私を歓迎してくれたように友情の精神であなたを歓迎する。私はあなたと共に、戦争よりも平和から多くを得られるのだということ、報復よりも和解からこそ恩恵を受けられるのだ
というメッセージを世界中に送りたい。   この静かな湾でわれわれは友人として共に、亡くなった人々を悼み、両国が勝ち取ってきたもの全てに感謝をささげる。

May God hold the fallen in His everlasting arms. May He watch over our veterans and all who stand guard
on our behalf. May God bless us all.

  戦没者が神の腕のなかで永遠に抱かれますように。 退役軍人を、そしてわれわれを守る全ての人々を
神が見守りますように。 われわれ皆に神の祝福がありますように。

***いまだに 一神教同士の戦いが続いております。昔の左翼同士の争いがエスカレートしているような気が致します。
全てがグローバル化して解決しにくくなっているようです。

戦火を交えたかつての敵国同士の首脳が、寛容の大切さと和解の力を訴える良い機会だったと思います。

お読みくだされ、感謝致します。 皆さまも良き新年をお迎えください。


真珠湾での慰霊A memorial service at Pearl Harbor

2016-12-30 16:40:24 | Weblog

真珠湾での慰霊A memorial service at Pearl Harbor  平成丙申二十八年師走三十日

十二月二十八日朝、安部首相は、真珠湾のアリゾナ記念館を慰霊のためオバマ大統領と訪問し、
犠牲者らに献花し黙とうした。
安部首相の演説の要点を抜き出します。

The world needs the spirit of tolerance and the power of reconciliation, now—and especially now.
世界はいま、いまこそ、寛容の心、和解の力を、必要としています。
Japan and the United States, which have eradicated hatred and cultivated friendship and trust on the
basis of common values, are now, and especially now, taking responsibility for appealing to the world
about the importance of tolerance and the power of reconciliation.
憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情を育てた日米はいま、いまこそ、寛容の大切さと、和解の力を世界向かって訴え続けていく、任務を帯びています。
That is precisely why the Japan-U.S. alliance is “an alliance of hope”.
だからこそ、日本と米国の同盟は、「希望の同盟」なのです。
The words pass through my mind; those words inscribed on the wall at the Lincoln Memorial in Washington D.C. where I visited with President Obama.
 オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン記念堂。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。
“With malice toward none, with charity for all …let us strive on …to do all which may achieve and cherish a …lasting peace among ourselves and with and with all nations.”
「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。
These are the words of President Abraham Lincoln.
  エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。
On behalf of the Japanese people, I hereby wish to express once again my heartfelt gratitude to the United States and to the world for the tolerance extended to Japan.
私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本にしめしてくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。
The inlet gazing at us is tranquil as far as the eye can see. Pearl Harbor.
It is precisely this beautiful inlet, shimmering like pearls, that is a symbol of tolerance and reconciliation.
私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。   パールハーバー。
真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
We will spare no efforts to continue our endeavors to make that wish a reality. Together with President Obama. I hereby make my steadfast pledge.
私たちはこれからも、願いを実現すべく、惜しみなく努力を続けていく。 オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。

 ***
「パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います」。と誓った安部首相にとって、誤った戦争をしたことへの「戦後の反省」を
 記憶し続ける機会となってほしい。

お読みくだされ、感謝致します。 PCが壊れたりしましたが、やっと年を越せそうです。オバマ大統領のスピーチは続きます。

如庵の一輪a (single)flower in Joan

2016-11-26 21:31:42 | Weblog
如庵の一輪   a (single)flower in Joan      平成廿八丙申年 霜月廿六日


西王母椿 Seioubo camellia



一重の筒咲きで中輪、9~4月に開花する。幕末のころに金沢で誕生したとされる。西王母とは中国の神話に登場する女神(仙女)で、3000年に一度実を結ぶというモモの木、不老不死の霊薬とされるモモの木の所有者である(『西遊記』には孫悟空がそのモモの実を盗む話が載る)。園芸品種名の由来は諸説あるようだが、私には単純にふっくらとした花型を西王母のモモに見立てたもののように思われる(あくまでも個人的な感想)。花には‘カモホンナミ’と同様の香りがある(やや弱いようだ)。‘セイオウボ’はウラクツバキ(‘タロウカジャ’)の血を引くとも推測されているが、ここでは仮にツバキ(ヤブツバキ)の園芸品種として掲載した。
犬山祭りの車山(やま)に 中本町「西王母」がある。
からくり次第は「大人形の西王母が、唐子に桃を採ってくるように扇で指図すると、唐子は梅の木の枝から枝へと渡り、最後にギリにつかまって下りると、「瑤台」の額を上げて終わる。
「瑤台」とは、玉で飾った美しい高殿で、殷の紂王の作った台の名から呼ばれている。江戸時代の楽園の望みの象徴でしょうね。
  有楽苑にて

三井家発祥の地The birthplace of Mitsui family

2016-11-20 23:36:52 | Weblog


来遠像由来

三井家発祥の地  The birthplace of Mitsui family 平成丙申廿八年霜月廿日

三井家発祥地
 松坂市本町通り白壁に囲まれた地。 三井高利ゆかりの場所. 松坂商人の館にも近い。小津清左衛門邸の公開。
    松阪商人の家
    三井高利・
かね夫妻

 初代高平
三井 高平(みつい たかひら、承応2年4月27日(1653年5月24日) - 元文2年閏11月27日(1738年1月17日))は三井家初代当主。三井高利の長男。
 8代三井高福
三井 高福(みつい たかよし、文化5年9月26日(1808年11月14日) - 明治18年(1885年)12月20日)は、幕末・明治初期の実業家。三井家の8代目当主。
業績
幕末維新の際には、幕府と朝廷の間を巧みに動きまわり、三井財閥の基礎を固めた。1859年(安政6年)外国奉行所御金御用達を務め、明治になって政府の銀行行政の実際面で活躍。第一国立銀行・三井銀行を創立。三井物産も設立した。

三井高棟
三井 高棟(みつい たかみね、安政4年1月14日(1857年2月8日) - 昭和23年(1948年)2月9日)は、三井家10代当主。趣味人として知られ、1906年には、麻布区今井町(現東京都港区六本木)に大邸宅の「今井町邸」を建設。約1万3,500坪の敷地内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられたほか、後に国宝となる茶室「如庵」が移築された。1922年には宮内庁からの依頼で英国皇太子を迎え、晩餐会や能観賞などで皇太子一行を接待した。1933年に高棟の隠居に伴い今井町邸は嗣子である第11代当主の高公へと受け継がれたが、1945年、戦災で焼失した。

 11代高公
三井 高公(みつい たかきみ、明治28年(1895年)8月3日 - 平成4年(1992年)11月13日)は三井家11代当主。
敗戦後の財閥解体で三井系各社への支配権を失った後は、父・高棟が創設した幼稚園、若葉会幼稚園を終生にわたって経営した。また、東京都港区西麻布(旧・麻布笄町)にあった総領家三井八郎衛門高公邸(1952年築)は、東京都小金井市にある江戸東京たてもの園に移築され、一般公開されている。夫人の鋹子(としこ・1901年-1976年)は旧福井藩主・越前松平家第18代当主・松平康荘の娘。
自動車愛好家としても知られ、第二次世界大戦前はベントレー・イスパノ・スイザ、ブガッティ、ランチアなどヨーロッパの高級車やスポーツカーを常時10台以上所有し、90歳代になってもベントレー・Tタイプを自ら運転していた。
12代永乗
三井 永乗(みつい ひさのり)は、三井家12代当主。建築家。

1%の豪商ですね。

まだ続きます。よろしく。
 

 


松坂路クイズ

2016-11-08 09:39:43 | Weblog
松坂路クイズ 10問              平成丙申廿八年霜月八日

松坂城跡*三井家発祥地 研修

バスの中で、出されたクイズです。


第1問 松坂の町を最初に作った武将はだれですか。
① 織田信長 ②豊臣秀吉 ③蒲生氏郷(がもううじさと)
 
第2問 松坂の特産品というと、今は牛肉。かつての特産品は?
① 黒砂糖  ②さつまいも  ③ 木綿

第3問 江戸の町にたいへん多かった屋号は?
① 伊勢屋  ②両口屋  ③大坂屋

第4問 三井呉服店が発展して、今もあるデパートは?
① 高島屋  ②松坂屋  ③三越

第5問 松坂の代表的な商人の家に生まれて世界的な映画監督となった人は?
①  黒澤明  ②成瀬巳喜男  ③小津安二郎

第6問 牛鍋とすき焼きの違いは?
① 肉の質がちがう  ② 料理のやり方がちがう ③ 使う鍋がちがう

第7問 本居宣長は、最初はある職業につこうとしてあきらめ、医学・国学を学びました。
最初に修業した職業は?
① 農家  ②画家  ③商人

第8問 本居宣長の書斎は何という名でしょうか。
① 牛の屋  ②松の屋  ③鈴の屋

第9問 江戸時代のほとんどを、松坂の町の領主だったのは、どこの藩でしょうか。
① 尾張藩  ② 紀州藩  ③犬山藩

第10問  御城番長屋の住人は、あることを理由として藩を出て浪人し、そののち再び藩に戻って
城番となりました。藩を出た理由は?
① 給料が安かったから
② 藩主の人柄が気に食わなかったから
③ 藩士の身分から陪審になれといわれたから


解答は第1問3、第2問3、第3問1、第4問3、第5問3、第6問2、第7問3、第8問3、第9問2、第10問3。

すぐ忘れるようになってきたagingですね。
 三井11代当主高公(たかきみ)は自動車愛好家として知られ、第二次世界大戦前は、ベントレー、イスパノ・スイザ、ランチアなど舶来、高級車やスポーツカーを常時10台以上所有し、90歳代になってもベントレー・Tタイプを自ら運転していた。
 明治、大正、昭和,平成と生き抜かれた凄い方でした。

次回お楽しみに。

お読み下され、感謝。



松本城Matsumoto castle

2016-10-31 18:47:26 | Weblog
松本城Matsumoto castle 平成丙申廿八年神無月三十一日



約四十年ぶりに松本城へ訪問できた。


石落としの間
 

最上閣
天井がはられていない。太い梁が井の字の形に組まれている。井桁梁と言って、四方へ出て軒をつくる垂木の下に、さらに太い桔木(はねき)20本が
放射状におかれている。重い瓦屋根の軒先を支えるため、テコの原理を応用している。

天守閣より 回縁がないから危ないことはない。しかし、犬山城はバルコニー(張り出し廊下)があり、天守の壁に張り付いて、眺めを楽しむのが最高なんですよ。
でも、風の強い日はちょっと怖いような気がします。しかも、雨水が溜まらないように床を傾斜させてありますので、それを体感すると高所恐怖症の
人は歩きません。

***旧開智学校
  すぐお隣にある。