HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

布を操る技師たち。

2022-08-24 06:48:05 | Weblog
 アパレル業界で活躍されたデザイナーが相次ぎ亡くなられた。まず、8月5日の三宅一生氏。同氏は1960年代、ヨーロッパから輸入される生地や衣服が主力である中、生活と関わる服を目指すことで、自らの世界観や作風を打ち出そうとした。そうした気概がのちに「プリーツ・プリーズ」という画期的アイテムを誕生させる。

 人の体型は洋の東西、民族・人種で千差万別。だが、衣服の世界は欧米がリードしてきただけに、シルエットはアワーグラスからサック、トラペーズ、フィットアンドフレアー、ボディ・コントゥールまでと、欧米人の体型にそったものが基本だった。そうしたレギュレーションに一石を投じたのがプリーツ・プリーズである。



 人が着ていない状態ではほぼストレートのラインだが、プリーツが着る人の体型によって変幻自在なシルエットを生み出す。まさに1枚の布が匠の技であらゆる可能性を引き出し、それから生まれた服は着る人を如何様にも美しく見せる。服を着るためにダイエットすることなど無意味。あなたのありのままの姿に似合う服がプリーツ・プリーズと言わんばかりだ。まさに服は着る人のライフスタイルに寄り添っていくことを具現化したとも言える。

 ただ、人気を博すと、たちまち模倣品が現れる。名古屋の名鉄百貨店がプリーツ・プリーズに類似した商品を販売した。これに対し、三宅デザイン事務所は不正競争防止法に基づく損害賠償訴訟を提起。1999年6月29日、東京地裁は類似品を販売した名鉄百貨店と、同商品を製造したアパレルメーカーのルルドに対し、損害賠償(各々10万円)を支払うように命じた。日本の司法は模倣品に甘すぎるとも言えるが、被害額が少なかったゆえの判決という点で、本家プリーツ・プリーズがそれだけファン客から認められていた証左でもある。

 この判決が報道された直後、筆者が住む福岡の西日本新聞が別の報道をした。イッセイミヤケのプリーツ・プリーズで用いられている技術は、地元でアパレルメーカーの下請け加工を担っている「オザキプリーツ」が先に開発していたのではというもの。確かに同社は天然素材にプリーツをかける「MAX PLEATS」や交織の生地を織る機織の織とその生地を折って加工する折から生まれた「Pli ORIORE(プリオリオレ)」という技術で特許を持っている。



 プリーツ・プリーズがこうした特許を盗用・侵害したかどうかの真相は明らかにならなかった。まあ、三宅一生氏がプリーツを生かした服のデザインを考案したとしても、実際服作りに落とし込んでいく中で、プリーツ加工のノウハウが必要なのは間違いない。デザイナーの訃報に際し、どうしても画期的なデザインばかりがクローズアップされるが、その背景には「加工業者の秀逸な技術力があったからこそ」という報道があってもいいのではないか。


 ファッション本流からは逸れるが、こんなエピソードもある。北野武氏が芸人ビートたけしとして人気を集めていた1980年代半ば、イッセイミヤケのブランドも一世を風靡していた。たけしがその服を着て漫才の舞台に立つと、三宅氏の事務所から電話があり「すいません。漫才やるときに、うちの師匠の服は着ないでください」との要請を受けたとか。たけし氏はそれにカチンと来て、イッセイミヤケのショップを訪れ、商品を爆買いしたという逸話が残る。

 三宅氏本人が「服を着ないで」と言ったのであれば、デザイナーとしてあまりに度量が小さい。おそらくブランド管理会社としての判断だったと思う。たけしも爆買いしたのは腹いせというより、ネタになると思っての行動だろう。その後、たけし氏は小西良幸氏(後のドン小西氏)がデザインする「フィッチ」を着るいたって大人の対応を見せ、逆に同ブランドのプレスプロモーションに多大な貢献をした。

 今振り返っても、1980年代はデザイナーズアパレルがいろんな面で注目を集めるという良い時代だった。三宅氏は晩年、日経流通新聞(現在の日経MJ)のインタビューで、「同窓会が嫌い」と語っていた。デザイナーとしての生き様から、周りが変化していく現実を受け入れづらかったのだと思う。何となくわかるような気もする。


才能を生かし、ビジネスを制御できるか



 8月11日には森英恵氏が亡くなった。筆者は洋裁師である母親から森氏の話をよく聞かされた。島根の裕福な医者のお嬢さんだったこと。親父さんが東京の百貨店から取り寄せた最先端の服を着て育ったこと。東京女子大学を卒業後、ドレスメーカー学院に通って洋裁を学び、新宿に洋装店「ひよしや」を開いたこと等などだ。

 筆者の同級生にも親がブティックを経営する友人が何人かいた。お金持ちの中高年女性を対象にした高級専門店が全盛だった1960年代当時、銀座にあった「HANAE MORI」は、地方の専門店経営者にとって憧れであり、目標だったようだ。他にも森氏は映画の衣装を手掛けたり、蝶をモチーフにしたドレスで人気を集め、ニューヨーク、そしてパリとコレクションに参加した。



 西武百貨店の広告制作に携わったグラフィックデザイナーの田中一光氏が森氏の蝶のマークをデザイン化すると、ハンカチからスリッパまであらゆる雑貨に採用され、HANAE MORIブランドは庶民の生活にも広く浸透した。筆者宅にもお中元やお歳暮、ボーリング大会などでもらった蝶のマークがついたHANAE MORIの雑貨が並んでいた。HANAE MORIは日本におけるライセンスビジネスを先駆けを作ったということだ。

 業界に入ってからは、取引先にミセスのコンサバショップを展開するところがあり、当社が企画するキャリアゾーンとは違う商品も勉強する意味で、何度かひよしやに足を運んだ。そんなハナエモリ社は1996年、森氏の夫で経営者だった賢氏の死去により、経営が一気に傾いていく。1980年代後半、世界で400億円以上を稼いでいた企業でも、マネジメントする人間を失えば、凋落はあっと言う間ということを思い知らされた。

 2002年、HANAE MORI社は負債総額101億円で倒産。事前に民事再生法を申請し、受理されていたので、プレタポルテ部門とライセンス事業は三井物産が引き受け、HANAE MORIの既製服は中堅アパレルの「オールスタイル」がを生産することになった。現在も同社が製造・販売を続けている。森氏はデザイナーとしてオートクチュール事業を継続した。

 倒産当時、ある雑誌の編集長が後記で以下のように書いていた。「毎シーズン、数億円をかけてパリでコレクションを開いても、売れるのは3枚1000円のハンカチだけ」。バブル景気が弾け高級婦人服が売れなくなる中、ブランドアパレルの舵取りをうまくできなかった経営陣を皮肉ったものだ。しかし、森氏自身は周囲の雑音に惑わされることなく、注文服のデザイン、縫製に邁進。事業会社は倒産しても、持てる技術は無くならないことを証明した。



 奇しくも倒産の1年前、小泉純一郎内閣の誕生で、田中真紀子議員が外務大臣に就任した。宮中における認証官任命式、その後の記念撮影で着る衣装について、外務大臣任命の話が持ち上がった直後に田中氏は森氏に相談し、「私が作ってあげるから、任せときなさい」と言われたと、就任後のインタビューで語っていたのを記憶する。

 これまで多くの女性閣僚がフリルや刺繍レースを施した華やかなドレスを着て任命式、記念撮影に臨んでいるが、田中外務大臣が着たワンピースは襟元に装飾が施されただけのシンプルなもののだった。シルエットはストレートに近いが、身体のラインをきれいに見せるテクニックは秀逸。色はミッドナイトブルーで、いかにも上質なオートクチュールの生地を使った物だと、一目でわかった。

 組閣は時間との勝負だ。組閣本部による人事選考から官房長官による就任予定閣僚の発表、任命式、記念撮影まで。限られた時間の中で、採寸から裁断、縫製、装飾加工までやってのけられるのは、卓越した技術を持つ洋裁師と取り巻きの縫い子さんがいればこそ。流石である。

 オートクチュールというと、パリの社交界で身にまとう衣装。まさに階級主義的な産物で、庶民には手の届かないようなイメージがある。しかし、これを注文服、オーダーメイドと解釈すれば、ハードルはガクンと下がる。

 昨今、市場には安価な商品が大量に出回り、アパレル全体の供給量が莫大に増加。滞留在庫は増加の一途をたどり大量廃棄が問題視されている。ならば、1960年代のように再び注文服に回帰するのも一つの手ではないか。上質の生地を使い、高い縫製技術のもとで欲しい1着を作れば、トレンド変化があっても、縫い直しやサイズ対応にも柔軟に対処できる。それだけ1着の服を長く着れるのだ。

 課題はそうした注文服に携われる技術者の育成だろう。森氏のように子供の頃から上質の服に触れてこれたのは誰もが経験できることではないが、それでもドレスメーカー学院で洋裁の基礎から徹底して学んだからこそ、オートクチュールの世界で活躍でき、どんな体型の人間でもたちまち似合う服を仕立てることができたのだ。

 そうした人材を育成し輩出していくことも、アパレル業界がSDGsに取り組む上でのカギになるのではないか。きっと、森氏もそう願っていると思う。三宅氏、森氏には心からお悔やみ申し上げたい。合掌

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