久々にニューヨークについて書こう。といっても、アパレルのことではない。自治体のトップ、市長が変わることだ。
ニューヨーク市長選の民主党候補を決める予備選挙で、エリック・アダムスブルックリン区長が勝利した。市全体では民主党の党員や支持者が多数を占めるため、11月の本選挙でも当選は堅いと言われる。アダムス氏が就任すれば、黒人市長は1990年〜93年に務めたディビッド・ディンキンズ氏以来、二人目だが、肌の色は政策にあまり関係ないと思う。
むしろ、ニューヨーク市が抱える行政課題、特にコロナ禍終息後の舵取りをどうするかが重要だ。1期目の政策運営で手応えを得れば当然、長期的なグランドデザインに踏み込むこともできる。どんな街にしてくれるのかは、ニューヨーク好きにとって大いに気になるところ。では、過去の市長在任中にニューヨークがどう変わったのか。あまりに古くはわからないので、初めて訪れた1980年から振り返ってみたい。
ニューヨークの歴代市長
エド・コッチ(1978年〜89年/民主党)
デヴィット・ディンキンズ(1990年〜93年/民主党)
ルドルフ・ジュリアーニ(1994年〜2001年/共和党)
マイケル・ブルームバーグ(2002年〜2013年/共和党)
ビル・デブラシオ(2014年〜21年/民主党)
1980年代までのニューヨークは人種の坩堝と形容されながらも、治安が非常に悪く麻薬や殺人、ホームレスなど社会はかなり疲弊していた。一方で、世界中からビジネスや留学などで移住する人々も多く、様々な文化が刺激し合う中で新しいトレンドが発信されていったのも事実だ。日本でもそうした一面が報道されるようになり、筆者も興味を持つようになった。
観光キャンペーンで街の健全化を図る
ニューヨーク州政府はイメージアップを図るために1977年から「I LOVE NEW YORK」のスローガンのもと街に溢れるアート、ミュージカル、ジャズ、スポーツ、食、ファッションなどを梃子に観光キャンペーンを展開。地元出身のデザイナー、ミルトン・グレイザー氏によるハートをモチーフにしたロゴマークは、Tシャツやカップなどのお土産にプリントされキャンペーンを後押し。ニューヨークは経済、教育、文化と並んで観光の街に変貌していった。
キャンペーンを先導したのは、当時のヒュー・レオ・ケアリー州知事(本人直筆の訪問記念状をいただいた)だった。そんな最中の77年7月には大停電が発生し、略奪行為が多発し治安は再び悪化。景気も低迷して、人口が流出した。同年に就任したエド・コッチ市長は地道な財政再建を進め、それ以上の景気悪化をなんとか食い止めた。観光客が訪れるメーンはニューヨーク市で、キャンペーンがうまくシンクロし少しずつ税収も増えていった。
何せ「Sales Tax」(売上げ税/街角の売店やFFでは徴収されない)は、当時で8.25%と高額だったから、市民の方が税金がかからないニュージャージーに買い物に行っていたほど。観光客が使ってくれるカネがいかに莫大だったかがよくわかる。日本も観光立国を謳い始め、福岡では咋年4月から「宿泊税」(200円)を徴収するまでになっている。これらの施策ももとを辿れば、ニューヨークの観光キャンペーンがお手本だと思う。
コッチ市長2期目の80年代には、不動産価格が高騰するなど好景気となり、失業率も低下した。ただ、筆者が1980年と82年に現地を訪れて受けた印象は少し違う。5番街やグランドセントラル駅には「Bag Lady」と呼ばれる女性のホームレスが多数いた。また、グリニッジヴィレッジは安全でも、一区画東に入ったバワリーでは失業者がたむろする。ミッドマンハッタンでも、一世を風靡したCalvin Klein Jeansが99ドル程度でディスカウントストアのウインドウに並ぶ始末。富と貧の格差を象徴する街であったのも事実だ。
1990年、そのコッチ市長に代わって就任したのがデヴィッド・ディンキンズ氏。初の黒人市長で、89年に訪れた時には民主党の予備選勝利が確実視される中、タブロイド紙の「The Village Voice」が何とか醜聞を引き出そうと、意味深な見出しをつけていた。その後、米国全体の経済が落ち込んでいくと、市の失業率は一気に13%を超え、ディンキンズ市政にとって逆風となった。
貧富の差が解消されることもなく、人種間の摩擦はエスカレートした。1991年にはブルックリンで起きた「クラウンハイツの暴動」は、交通事故に遭った黒人の子の救急搬送が後回しにされ、死亡したことがきっかけだった。さらにニューヨークの経済を牛耳るユダヤ資本は、テロの標的にもなった。93年2月に発生した「World Trade Center Bldg」地下での「トラック爆発事件」。それは序章に過ぎなかった。
犯罪撲滅を徹底したジュリアーニ市長
1994年、中間選挙を控えたビル・クリントン大統領は犯罪防止法を成立させるなど、連邦政府として全米レベルで犯罪対策を講じた。この年、就任した共和党のルドルフ・ジュリアーニ市長は、「Zero Tolerance(非寛容)」 を基本方針に犯罪撲滅を推進した。ビルの窓が割れたままだと、他の窓も壊して良いという合図になるので放置させない。いわゆる「割れ窓理論」である。小さな犯罪の芽を摘むことで大犯罪を未然に防ぐ考え方で、微罪にも法律・罰則を厳格に適用するものだった。
例えば、地下鉄の無賃乗車やマリファナの所持者は現行犯逮捕、酒酔い運転で有罪になれば車を没収する等々。ニューヨークの感覚からすれば、この程度なら問題ないだろうというものでも容赦なく捕まり、徹底して罰せられた。結果的に1997年の犯罪発生率は人口10万人比で4862人。93年は同8171人だから3309人も減ったことになる。ちなみに90年は同1万人弱だから、ほぼ50%に減少した。(人口センサス局、Crime The USA調べ)
また、風俗店は学校や教会から150m以内は営業禁止、タイムズスクエアなどのポルノショップを一掃、屋台はマンハッタンの約140カ所から締め出すなど、街の健全化なくして活性化はないという姿勢を明確にした。その結果、 1997年の1年間に観光客が使ったカネは140億ドルにも迫り、そのうち7億ドル以上が市の税収となった。まさにジュリアーニ市政では犯罪撲滅と観光客誘致がタイヤの両輪であったことが窺える。
ちょうどこの頃、現地に住んでいたが、街の治安は肌感覚でも良くなった。それまで夜9時以降は女性が一人では出歩けなかったが、レストランで働く子がクイーンズまで地下鉄で帰っていると平気で語るほど。反面、観光客の増加でひったくりやすりなどは増えた。特に5番街では安物のワインを入れた袋を持って故意に観光客にぶつかって落とし、人だかりにかまけてオロオロする相手にカネを要求する「当たり屋」が横行した。
筆者も8番街の72丁目の地下鉄駅の手前で遭遇した。お昼過ぎで人通りも少なく、一言「Call Police!」と叫んでホームに駆け降り、難を逃れた。まさかアップタウンで遭うとは思わなかったが、日本大使館を通じてニューヨーク市から「落ち着いて、『警察を呼ぶ』と言えばいい」とのお達しを受けていたので、そのまま実践した。
テロの脅威には為す術がなかった
ところが、流石の防犯都市もテロの脅威には為す術はなかった。September 11 2001である。多くのビジネスマンらが出勤した直後のWorld Trade Center Bldgに2機のハイジャック機が激突。しかも、被害の模様は世界中にリアルタイムで中継された。映画の1シーンのような映像には実感が湧かなかったが、埃まみれで震え泣き叫ぶ女性を見ると全米最大の都市を襲った計り知れない恐怖が伝わってきた。
犠牲者はビジネスマンやビルの関係者、避難誘導の警察官、救助に当たった消防隊員。そして、現地駐在の日本人も含まれ、西日本銀行の行員も2名亡くなった。ジュリアーニ市長はジョージ・ブッシュ大統領とともにテロとの闘いを宣言。市の警戒レベルを最高に引き上げ、JFKなどが閉鎖され、ファッションウィークで現地を訪れていた友人も空港に足止めされた。
ジュリアーニ市長はテロ事件からの復興でも陣頭指揮を取り、それは翌年に就任したマイケル・ブルームバーグ市長に引き継がれた。ブルームバーグ市政でも犯罪撲滅は踏襲され、二期目の09年には殺人の件数が461件と前年から50件以上も減少。ニューヨーク市警が統計を取り始めた1963年以降で最低となった。犯罪対策はニューヨークでは奏功したということだ。
2014年にはビル・デブラシオ市長が就任。民主党候補の市長が24年ぶりだった。だが、17年に地元の実業家からのし上がった共和党のトランプ大統領が就任すると、市長として移民の制限や富裕層の減税、医療保険制度改革では対峙した。反トランプの政策は2020年の大統領選出馬が念頭にあったようが、各世論調査では支持率が1%に満たなかった。遊説に出かけて市政が疎かにしていると批判され、民主党の指名争いから撤退を余儀なくされた。
警察改革は市政安定の試金石?
2022年からはエリック・アダムス氏が新しい市長となる。同氏はブルックリン区長を務めただけに行政経験はある。問題はニューヨーク全体の市政運営と近未来の作図だろう。民主党の予備選挙では、黒人労働者が多いouter borough(マンハッタン以外の区の総称)やSoutheast Queensで、得票を増やしている。これが市政にどう影響するか。
リベラルらしく穏健派だから、ジュリアーニ市長のような強権的な政策を断行するとは思えない。ただ、出身が市警の警官だけに警察予算の削減を求める運動は非難する一方、市警改革を公約に掲げつつ市民の安全確保は維持していくというアダムスらしさを掲げる。「Black Lives Matter」については、「警察の虐待行為に反対するだけではだめ。我々のコミュニティを引き裂いている暴力に反対しなくてはならない」と、大局的視野に立つ。
警察予算は2019年度には10億ドル削減されたが、20年度には対前年比で2億ドルを増やす予算案が可決された。「犯罪の増加は全米で警察予算をカットしたからだ」との突き上げを恐れたからだ。ただ、市の税収を増やすには観光政策が柱の一つ。そのため、治安の悪化は避けなければならないが、予算の単なる増減ではなく、効率的な配分が重要であって、市警改革もそれに大きく左右されるかもしれない。
ニューヨークの社会構造は人種、景気、雇用、貧富といった様々な要素が絡む。アダムス氏は白人、黒人、ヒスパニック他、ホワイトカラー、労働者等々、街を支える人々それぞれの利害をうまく調整しながら、行政課題に取り組むことができるのか。民主党の大票田だからと、市長の椅子が安定するとは限らない。市民の大部分はまた犯罪が増えることには反対だし、ブルックリンが再開発で活性化し新たな観光スポットになったことは、アダムス氏が十分すぎるほど理解しているはず。
ニューヨークの近未来図をどう描くか。リベラルの中でも元警官らしい毅然とした市政運営に期待したい。
ニューヨーク市長選の民主党候補を決める予備選挙で、エリック・アダムスブルックリン区長が勝利した。市全体では民主党の党員や支持者が多数を占めるため、11月の本選挙でも当選は堅いと言われる。アダムス氏が就任すれば、黒人市長は1990年〜93年に務めたディビッド・ディンキンズ氏以来、二人目だが、肌の色は政策にあまり関係ないと思う。
むしろ、ニューヨーク市が抱える行政課題、特にコロナ禍終息後の舵取りをどうするかが重要だ。1期目の政策運営で手応えを得れば当然、長期的なグランドデザインに踏み込むこともできる。どんな街にしてくれるのかは、ニューヨーク好きにとって大いに気になるところ。では、過去の市長在任中にニューヨークがどう変わったのか。あまりに古くはわからないので、初めて訪れた1980年から振り返ってみたい。
ニューヨークの歴代市長
エド・コッチ(1978年〜89年/民主党)
デヴィット・ディンキンズ(1990年〜93年/民主党)
ルドルフ・ジュリアーニ(1994年〜2001年/共和党)
マイケル・ブルームバーグ(2002年〜2013年/共和党)
ビル・デブラシオ(2014年〜21年/民主党)
1980年代までのニューヨークは人種の坩堝と形容されながらも、治安が非常に悪く麻薬や殺人、ホームレスなど社会はかなり疲弊していた。一方で、世界中からビジネスや留学などで移住する人々も多く、様々な文化が刺激し合う中で新しいトレンドが発信されていったのも事実だ。日本でもそうした一面が報道されるようになり、筆者も興味を持つようになった。
観光キャンペーンで街の健全化を図る
ニューヨーク州政府はイメージアップを図るために1977年から「I LOVE NEW YORK」のスローガンのもと街に溢れるアート、ミュージカル、ジャズ、スポーツ、食、ファッションなどを梃子に観光キャンペーンを展開。地元出身のデザイナー、ミルトン・グレイザー氏によるハートをモチーフにしたロゴマークは、Tシャツやカップなどのお土産にプリントされキャンペーンを後押し。ニューヨークは経済、教育、文化と並んで観光の街に変貌していった。
キャンペーンを先導したのは、当時のヒュー・レオ・ケアリー州知事(本人直筆の訪問記念状をいただいた)だった。そんな最中の77年7月には大停電が発生し、略奪行為が多発し治安は再び悪化。景気も低迷して、人口が流出した。同年に就任したエド・コッチ市長は地道な財政再建を進め、それ以上の景気悪化をなんとか食い止めた。観光客が訪れるメーンはニューヨーク市で、キャンペーンがうまくシンクロし少しずつ税収も増えていった。
何せ「Sales Tax」(売上げ税/街角の売店やFFでは徴収されない)は、当時で8.25%と高額だったから、市民の方が税金がかからないニュージャージーに買い物に行っていたほど。観光客が使ってくれるカネがいかに莫大だったかがよくわかる。日本も観光立国を謳い始め、福岡では咋年4月から「宿泊税」(200円)を徴収するまでになっている。これらの施策ももとを辿れば、ニューヨークの観光キャンペーンがお手本だと思う。
コッチ市長2期目の80年代には、不動産価格が高騰するなど好景気となり、失業率も低下した。ただ、筆者が1980年と82年に現地を訪れて受けた印象は少し違う。5番街やグランドセントラル駅には「Bag Lady」と呼ばれる女性のホームレスが多数いた。また、グリニッジヴィレッジは安全でも、一区画東に入ったバワリーでは失業者がたむろする。ミッドマンハッタンでも、一世を風靡したCalvin Klein Jeansが99ドル程度でディスカウントストアのウインドウに並ぶ始末。富と貧の格差を象徴する街であったのも事実だ。
1990年、そのコッチ市長に代わって就任したのがデヴィッド・ディンキンズ氏。初の黒人市長で、89年に訪れた時には民主党の予備選勝利が確実視される中、タブロイド紙の「The Village Voice」が何とか醜聞を引き出そうと、意味深な見出しをつけていた。その後、米国全体の経済が落ち込んでいくと、市の失業率は一気に13%を超え、ディンキンズ市政にとって逆風となった。
貧富の差が解消されることもなく、人種間の摩擦はエスカレートした。1991年にはブルックリンで起きた「クラウンハイツの暴動」は、交通事故に遭った黒人の子の救急搬送が後回しにされ、死亡したことがきっかけだった。さらにニューヨークの経済を牛耳るユダヤ資本は、テロの標的にもなった。93年2月に発生した「World Trade Center Bldg」地下での「トラック爆発事件」。それは序章に過ぎなかった。
犯罪撲滅を徹底したジュリアーニ市長
1994年、中間選挙を控えたビル・クリントン大統領は犯罪防止法を成立させるなど、連邦政府として全米レベルで犯罪対策を講じた。この年、就任した共和党のルドルフ・ジュリアーニ市長は、「Zero Tolerance(非寛容)」 を基本方針に犯罪撲滅を推進した。ビルの窓が割れたままだと、他の窓も壊して良いという合図になるので放置させない。いわゆる「割れ窓理論」である。小さな犯罪の芽を摘むことで大犯罪を未然に防ぐ考え方で、微罪にも法律・罰則を厳格に適用するものだった。
例えば、地下鉄の無賃乗車やマリファナの所持者は現行犯逮捕、酒酔い運転で有罪になれば車を没収する等々。ニューヨークの感覚からすれば、この程度なら問題ないだろうというものでも容赦なく捕まり、徹底して罰せられた。結果的に1997年の犯罪発生率は人口10万人比で4862人。93年は同8171人だから3309人も減ったことになる。ちなみに90年は同1万人弱だから、ほぼ50%に減少した。(人口センサス局、Crime The USA調べ)
また、風俗店は学校や教会から150m以内は営業禁止、タイムズスクエアなどのポルノショップを一掃、屋台はマンハッタンの約140カ所から締め出すなど、街の健全化なくして活性化はないという姿勢を明確にした。その結果、 1997年の1年間に観光客が使ったカネは140億ドルにも迫り、そのうち7億ドル以上が市の税収となった。まさにジュリアーニ市政では犯罪撲滅と観光客誘致がタイヤの両輪であったことが窺える。
ちょうどこの頃、現地に住んでいたが、街の治安は肌感覚でも良くなった。それまで夜9時以降は女性が一人では出歩けなかったが、レストランで働く子がクイーンズまで地下鉄で帰っていると平気で語るほど。反面、観光客の増加でひったくりやすりなどは増えた。特に5番街では安物のワインを入れた袋を持って故意に観光客にぶつかって落とし、人だかりにかまけてオロオロする相手にカネを要求する「当たり屋」が横行した。
筆者も8番街の72丁目の地下鉄駅の手前で遭遇した。お昼過ぎで人通りも少なく、一言「Call Police!」と叫んでホームに駆け降り、難を逃れた。まさかアップタウンで遭うとは思わなかったが、日本大使館を通じてニューヨーク市から「落ち着いて、『警察を呼ぶ』と言えばいい」とのお達しを受けていたので、そのまま実践した。
テロの脅威には為す術がなかった
ところが、流石の防犯都市もテロの脅威には為す術はなかった。September 11 2001である。多くのビジネスマンらが出勤した直後のWorld Trade Center Bldgに2機のハイジャック機が激突。しかも、被害の模様は世界中にリアルタイムで中継された。映画の1シーンのような映像には実感が湧かなかったが、埃まみれで震え泣き叫ぶ女性を見ると全米最大の都市を襲った計り知れない恐怖が伝わってきた。
犠牲者はビジネスマンやビルの関係者、避難誘導の警察官、救助に当たった消防隊員。そして、現地駐在の日本人も含まれ、西日本銀行の行員も2名亡くなった。ジュリアーニ市長はジョージ・ブッシュ大統領とともにテロとの闘いを宣言。市の警戒レベルを最高に引き上げ、JFKなどが閉鎖され、ファッションウィークで現地を訪れていた友人も空港に足止めされた。
ジュリアーニ市長はテロ事件からの復興でも陣頭指揮を取り、それは翌年に就任したマイケル・ブルームバーグ市長に引き継がれた。ブルームバーグ市政でも犯罪撲滅は踏襲され、二期目の09年には殺人の件数が461件と前年から50件以上も減少。ニューヨーク市警が統計を取り始めた1963年以降で最低となった。犯罪対策はニューヨークでは奏功したということだ。
2014年にはビル・デブラシオ市長が就任。民主党候補の市長が24年ぶりだった。だが、17年に地元の実業家からのし上がった共和党のトランプ大統領が就任すると、市長として移民の制限や富裕層の減税、医療保険制度改革では対峙した。反トランプの政策は2020年の大統領選出馬が念頭にあったようが、各世論調査では支持率が1%に満たなかった。遊説に出かけて市政が疎かにしていると批判され、民主党の指名争いから撤退を余儀なくされた。
警察改革は市政安定の試金石?
2022年からはエリック・アダムス氏が新しい市長となる。同氏はブルックリン区長を務めただけに行政経験はある。問題はニューヨーク全体の市政運営と近未来の作図だろう。民主党の予備選挙では、黒人労働者が多いouter borough(マンハッタン以外の区の総称)やSoutheast Queensで、得票を増やしている。これが市政にどう影響するか。
リベラルらしく穏健派だから、ジュリアーニ市長のような強権的な政策を断行するとは思えない。ただ、出身が市警の警官だけに警察予算の削減を求める運動は非難する一方、市警改革を公約に掲げつつ市民の安全確保は維持していくというアダムスらしさを掲げる。「Black Lives Matter」については、「警察の虐待行為に反対するだけではだめ。我々のコミュニティを引き裂いている暴力に反対しなくてはならない」と、大局的視野に立つ。
警察予算は2019年度には10億ドル削減されたが、20年度には対前年比で2億ドルを増やす予算案が可決された。「犯罪の増加は全米で警察予算をカットしたからだ」との突き上げを恐れたからだ。ただ、市の税収を増やすには観光政策が柱の一つ。そのため、治安の悪化は避けなければならないが、予算の単なる増減ではなく、効率的な配分が重要であって、市警改革もそれに大きく左右されるかもしれない。
ニューヨークの社会構造は人種、景気、雇用、貧富といった様々な要素が絡む。アダムス氏は白人、黒人、ヒスパニック他、ホワイトカラー、労働者等々、街を支える人々それぞれの利害をうまく調整しながら、行政課題に取り組むことができるのか。民主党の大票田だからと、市長の椅子が安定するとは限らない。市民の大部分はまた犯罪が増えることには反対だし、ブルックリンが再開発で活性化し新たな観光スポットになったことは、アダムス氏が十分すぎるほど理解しているはず。
ニューヨークの近未来図をどう描くか。リベラルの中でも元警官らしい毅然とした市政運営に期待したい。