伊藤忠商事が2009年に連結子会社化したジャヴァグループの株式を投資ファンドのエンデバー・ユナイテッドに売却した。この案件は3月末の正式発表、4月1日の新体制スタートだったようだが、業界ではすでに既成事実のように語られ、売却理由について様々な憶測が飛び交っている。
どちらにしても、一時代を築いたデザイナーズブランド系アパレルである。筆者が大学生だった80年頃、「ロートレ・アモン」「ビッキー」「ケティ」といったブランドが分社化され、ファッション雑誌にチラホラ露出していた。ちょうど大学を卒業し、業界に入った直後には、うちの会社でも「ジャヴァが神戸のポートアイランドに本社ビルが建てるらしいぞ。すげえなあ」と語られていた。それだけ勢いは凄まじかったのだ。
日本経済がバブル景気に突入し、DCブランドがピークに達した80年代半ば、たぶん市ヶ谷だったと思うがジャヴァの営業所が移転し、そこには雑誌タイアップやプレス用の商品を借りにスタイリストたちが日参しているとの話だった。今考えると、80年代後半がジャヴァの商品が一番輝いていた時期だったと思う。
知り合いも何人か働いていて、実際に商品を購入したことがある。だから、商品はよく知っているし、神戸らしい瀟酒な雰囲気のもの作りには惹かれる部分もあった。ただ、DCブーム終焉後には、ご多分に漏れずブランドバリュ、知名度とも下降線を辿っていた。
2003年2月期、ジャヴァグループは売上高が前年同期比5.1%減、利益が同8.8%減と減収減益だったが、それでも年商は750億円も稼いでいた。だから、日経新聞は同社の企業価値、ブランドバリュウを好意的に扱っていたし、投資案件としてお墨付きを与えるアナリストもいたと、記憶している。
そうしたことが影響したのかどうかはわからないが、伊藤忠は3年後の06年、「今が買い時」と思ったのか、ジャヴァグループの株式35%を取得。さらに09年には株式の過半数を得て、連結子会社にした。同グループには大津寄正登社長が派遣されて構造改革に着手。傘下のロートレ・アモン、ビッキー、ケティ、リップスターのレディスアパレル4社は統合された。
15年には伊藤忠で北米繊維部門長を務めた中西英雄氏が社長に就任し、神戸ファッションというローカル企業から全国ブランドへの成長加速を目指す一方、Eコマースや中国・アジア進出などの販売チャンネル拡大を打ち出した。今回の売却はそれらの戦略に一定の道筋が付いたことで、今度は「売り時」と見たのではないか。
中西社長は、引き続き同グループの社長に留まり、経営の舵取りを担うというから、投資ファンド側から不採算ブランドの休止、人員の削減、国内展開の見直し、海外戦略の強化など、いろんな命題が突きつけられていくはずだ。
業界では、中西社長は構造改革の一環として、50代以上の社員に対し早期退職を主導したと言われているが、50代の社員はまだまだ半数にも及ぶとの話もある。社員の年齢構成が高いことは、そのまま人件費率の高さにつながり、こうした高コスト構造を改めない限り、改革は道半ばということだろう。ことの経緯はざっとこんなところだ。
ここからはあくまで私見だが、ジャヴァグループが一般のアパレルに比べ、なぜ高齢社員の構成比が高いのか。それは創業者である故・細川数夫元会長が掲げた企業理念が影響してきたのではないかと思う。「愛」を基本に、人の心に寄り添い、人を幸せな気分で満たす服づくりを目指してきたことだ。
今考えると、何と歯の浮くような理想郷的考えだが、創業当時から成長期にはそれが真っ当に受け入れられていたのだから、何とも良き時代だったと思う。当然、愛の伝導は社員や売場のスタッフについても変わらず、それは業績が傾き始めた90年代にドラスティックな改革を行う上で、足かせになったのかもしれない。
アパレル業界の仕事をしていると、必ずと言っていい程、あちこちから経営者批判が聞こえて来る。営業にも企画にもMDにも携わってなくても、SNSを通じて堂々と批判する御仁もいるくらいだ。筆者もあまり人のことは言えないが。
それに対し、ジャヴァで働く知り合いからは、細川元会長の譏りや謗言など一つも聞いたことがない。ある体験談が今も記憶に残っている。アパレル時代の取引先でバイヤーを務めていた人が退職し、違う業界で独立するまでの準備期間にロートレ・アモンの店長を務めていた。
ちょうど88年だったと思う。雑誌アンアンにキャンペーンを兼ねたタイアップ企画が掲載され、その中で胸元にカットワークが施されたニットがひと目で気に入り、売場まで見に出かけた。商品は雑誌の発売直後に完売していたが、店長と話すうちに「仕事で世話になっているクライアントの女性に他社の商品だけど、ぜひプレゼントしたいから」という流れになり、取り寄せてもらうことにした。
店長は「他社の人がうちのブランドをどう評価するか。それも聞いてみたいわよね」と、快く受け付けてくれた。それに対し、「良い会社じゃないですか」と言うと、「(細川元会長は)腰の低い人だから、批評も前向きにとらえるし」「あなたみたいに仕事でいろんなブランドを見ている人に買ってもらえるのは、うちにとっても嬉しいし」といった感じの反応をしてくれた。
この店長は、この後にも「(細川元会長は)自らチャレンジを怠らない人。ビジネスについてはやると決めれば、後には絶対に引かないから、現場も決して手を抜けないのよ」と、語っていた。こうしたやり取りをした翌年だったか、ジャヴァグループは「愛・PAN APPARELISM」を発表し、人が幸せな気分になれる服の創造、その気分を増幅する時間とと空間の創造を企業テーマを打ち立てた。
それは2000年代に入っても継承されたと思うが、如何せんアパレルを取り巻く環境が大きく変わってしまった。長引く不況とデフレの影響、若者の価値観の変化で、商品単価が平均単価が2〜3万円もする同グループの服は、若い女性には売れづらくなっていった。一方で、80年後半から90年代前半に入社した社員は歳を重ね、40代、50代になっていったわけだ。
愛をテーマに、社内をガバナンスしてきた細川元会長が第一線を退いたとは言え、ドライな人員整理など大ナタを振ることに同意するはずがない。しかし、不幸にも細川元会長は2012年に死去された。これを境に後は資本の論理による新しい体制づくりが進んでいったのだ。伊藤忠が構造改革に一定の目処を付けたことで、あとは神戸ファッションから全国展開、Eコマースや中国・アジア進出を目論見、それを投資ファンドがどう継続させていくかである。
ただ、全盛期を知る人間からすれば、ジャヴァは神戸らしさを持っていたからこそ、DCブランドブームの最盛期に全国でも売れたのだと思う。昨今は売れ筋狙いでデザインが紋切り型になってきているし、ワールドの凋落など神戸ファッションそのものの存在価値が薄れている。
伊藤忠が打ち出し、投資ファンドの支援のもと継続される戦略は、他のブランドと大差ない。果たして、それでジャヴァが本当に勢いを取り戻せるのかと、一抹の不安もある。某プロフェッサーの口癖ではないが、「ファッションはローカルなもの」である。だからこそ、無理に全国マーケットにすり寄るのではなく、往年のジャヴァらしさのもとで新しい神戸テイストを確立させ、それでアジア戦略を進めてもいいのではないか。ジャヴァの特性や顧客、時流に適したジャヴァ流ビジネスモデルの再創造が不可欠なのだ。
エレガンスの匂いが残せるビッキーやケティはこれから成長が著しいアジアで、コンサバOLやマダム受けする可能性は大いにあると思う。アジア市場に浸透しているグルーバルSPAのカジュアル一辺倒では飽きがくるし、収入が上がってくれば人より一つ上の着こなし、より良質で胸が張れる服が求められるはずだ。
一方、キャリア寄りのロートレ・アモンは、2010〜11年に台湾で製品卸とライセンス供与の両面での展開をスタートさせている。当時、業界では中国戦略に目が向いていたが、同ブランドはコアなキャリアラインであり、特にジャケットスタイルは「中国市場での攻略はまだ早い」と、社内には慎重論があったと聞いている。
その時から7〜8年を経過した。今なら堂々と攻められるかもしれない。それには、もう一度往年のようなブランド価値を磨いていかなければならない。展望なきブランド買収などあり得ない。そのブランドに一角の価値を見出すから、投資マネーも動いていく。是非とも、これを機会に消費者にブランド価値が認められるもの作りを復活させてもらいたいものである。
どちらにしても、一時代を築いたデザイナーズブランド系アパレルである。筆者が大学生だった80年頃、「ロートレ・アモン」「ビッキー」「ケティ」といったブランドが分社化され、ファッション雑誌にチラホラ露出していた。ちょうど大学を卒業し、業界に入った直後には、うちの会社でも「ジャヴァが神戸のポートアイランドに本社ビルが建てるらしいぞ。すげえなあ」と語られていた。それだけ勢いは凄まじかったのだ。
日本経済がバブル景気に突入し、DCブランドがピークに達した80年代半ば、たぶん市ヶ谷だったと思うがジャヴァの営業所が移転し、そこには雑誌タイアップやプレス用の商品を借りにスタイリストたちが日参しているとの話だった。今考えると、80年代後半がジャヴァの商品が一番輝いていた時期だったと思う。
知り合いも何人か働いていて、実際に商品を購入したことがある。だから、商品はよく知っているし、神戸らしい瀟酒な雰囲気のもの作りには惹かれる部分もあった。ただ、DCブーム終焉後には、ご多分に漏れずブランドバリュ、知名度とも下降線を辿っていた。
2003年2月期、ジャヴァグループは売上高が前年同期比5.1%減、利益が同8.8%減と減収減益だったが、それでも年商は750億円も稼いでいた。だから、日経新聞は同社の企業価値、ブランドバリュウを好意的に扱っていたし、投資案件としてお墨付きを与えるアナリストもいたと、記憶している。
そうしたことが影響したのかどうかはわからないが、伊藤忠は3年後の06年、「今が買い時」と思ったのか、ジャヴァグループの株式35%を取得。さらに09年には株式の過半数を得て、連結子会社にした。同グループには大津寄正登社長が派遣されて構造改革に着手。傘下のロートレ・アモン、ビッキー、ケティ、リップスターのレディスアパレル4社は統合された。
15年には伊藤忠で北米繊維部門長を務めた中西英雄氏が社長に就任し、神戸ファッションというローカル企業から全国ブランドへの成長加速を目指す一方、Eコマースや中国・アジア進出などの販売チャンネル拡大を打ち出した。今回の売却はそれらの戦略に一定の道筋が付いたことで、今度は「売り時」と見たのではないか。
中西社長は、引き続き同グループの社長に留まり、経営の舵取りを担うというから、投資ファンド側から不採算ブランドの休止、人員の削減、国内展開の見直し、海外戦略の強化など、いろんな命題が突きつけられていくはずだ。
業界では、中西社長は構造改革の一環として、50代以上の社員に対し早期退職を主導したと言われているが、50代の社員はまだまだ半数にも及ぶとの話もある。社員の年齢構成が高いことは、そのまま人件費率の高さにつながり、こうした高コスト構造を改めない限り、改革は道半ばということだろう。ことの経緯はざっとこんなところだ。
ここからはあくまで私見だが、ジャヴァグループが一般のアパレルに比べ、なぜ高齢社員の構成比が高いのか。それは創業者である故・細川数夫元会長が掲げた企業理念が影響してきたのではないかと思う。「愛」を基本に、人の心に寄り添い、人を幸せな気分で満たす服づくりを目指してきたことだ。
今考えると、何と歯の浮くような理想郷的考えだが、創業当時から成長期にはそれが真っ当に受け入れられていたのだから、何とも良き時代だったと思う。当然、愛の伝導は社員や売場のスタッフについても変わらず、それは業績が傾き始めた90年代にドラスティックな改革を行う上で、足かせになったのかもしれない。
アパレル業界の仕事をしていると、必ずと言っていい程、あちこちから経営者批判が聞こえて来る。営業にも企画にもMDにも携わってなくても、SNSを通じて堂々と批判する御仁もいるくらいだ。筆者もあまり人のことは言えないが。
それに対し、ジャヴァで働く知り合いからは、細川元会長の譏りや謗言など一つも聞いたことがない。ある体験談が今も記憶に残っている。アパレル時代の取引先でバイヤーを務めていた人が退職し、違う業界で独立するまでの準備期間にロートレ・アモンの店長を務めていた。
ちょうど88年だったと思う。雑誌アンアンにキャンペーンを兼ねたタイアップ企画が掲載され、その中で胸元にカットワークが施されたニットがひと目で気に入り、売場まで見に出かけた。商品は雑誌の発売直後に完売していたが、店長と話すうちに「仕事で世話になっているクライアントの女性に他社の商品だけど、ぜひプレゼントしたいから」という流れになり、取り寄せてもらうことにした。
店長は「他社の人がうちのブランドをどう評価するか。それも聞いてみたいわよね」と、快く受け付けてくれた。それに対し、「良い会社じゃないですか」と言うと、「(細川元会長は)腰の低い人だから、批評も前向きにとらえるし」「あなたみたいに仕事でいろんなブランドを見ている人に買ってもらえるのは、うちにとっても嬉しいし」といった感じの反応をしてくれた。
この店長は、この後にも「(細川元会長は)自らチャレンジを怠らない人。ビジネスについてはやると決めれば、後には絶対に引かないから、現場も決して手を抜けないのよ」と、語っていた。こうしたやり取りをした翌年だったか、ジャヴァグループは「愛・PAN APPARELISM」を発表し、人が幸せな気分になれる服の創造、その気分を増幅する時間とと空間の創造を企業テーマを打ち立てた。
それは2000年代に入っても継承されたと思うが、如何せんアパレルを取り巻く環境が大きく変わってしまった。長引く不況とデフレの影響、若者の価値観の変化で、商品単価が平均単価が2〜3万円もする同グループの服は、若い女性には売れづらくなっていった。一方で、80年後半から90年代前半に入社した社員は歳を重ね、40代、50代になっていったわけだ。
愛をテーマに、社内をガバナンスしてきた細川元会長が第一線を退いたとは言え、ドライな人員整理など大ナタを振ることに同意するはずがない。しかし、不幸にも細川元会長は2012年に死去された。これを境に後は資本の論理による新しい体制づくりが進んでいったのだ。伊藤忠が構造改革に一定の目処を付けたことで、あとは神戸ファッションから全国展開、Eコマースや中国・アジア進出を目論見、それを投資ファンドがどう継続させていくかである。
ただ、全盛期を知る人間からすれば、ジャヴァは神戸らしさを持っていたからこそ、DCブランドブームの最盛期に全国でも売れたのだと思う。昨今は売れ筋狙いでデザインが紋切り型になってきているし、ワールドの凋落など神戸ファッションそのものの存在価値が薄れている。
伊藤忠が打ち出し、投資ファンドの支援のもと継続される戦略は、他のブランドと大差ない。果たして、それでジャヴァが本当に勢いを取り戻せるのかと、一抹の不安もある。某プロフェッサーの口癖ではないが、「ファッションはローカルなもの」である。だからこそ、無理に全国マーケットにすり寄るのではなく、往年のジャヴァらしさのもとで新しい神戸テイストを確立させ、それでアジア戦略を進めてもいいのではないか。ジャヴァの特性や顧客、時流に適したジャヴァ流ビジネスモデルの再創造が不可欠なのだ。
エレガンスの匂いが残せるビッキーやケティはこれから成長が著しいアジアで、コンサバOLやマダム受けする可能性は大いにあると思う。アジア市場に浸透しているグルーバルSPAのカジュアル一辺倒では飽きがくるし、収入が上がってくれば人より一つ上の着こなし、より良質で胸が張れる服が求められるはずだ。
一方、キャリア寄りのロートレ・アモンは、2010〜11年に台湾で製品卸とライセンス供与の両面での展開をスタートさせている。当時、業界では中国戦略に目が向いていたが、同ブランドはコアなキャリアラインであり、特にジャケットスタイルは「中国市場での攻略はまだ早い」と、社内には慎重論があったと聞いている。
その時から7〜8年を経過した。今なら堂々と攻められるかもしれない。それには、もう一度往年のようなブランド価値を磨いていかなければならない。展望なきブランド買収などあり得ない。そのブランドに一角の価値を見出すから、投資マネーも動いていく。是非とも、これを機会に消費者にブランド価値が認められるもの作りを復活させてもらいたいものである。