ここのところ「わかる」ということについて考えている。
インターネットによって調べ物は格段に楽になった。例えば忘れてしまった漢字や英語の綴りなどは端末さえあればすぐに見つけられるし、一面識もない人間のプロフィールなども、さまざまな情報を辿って付き合わせれば、かなり詳しく知ることができる。そういう意味では、いろいろなことがたやすく「わかる」ようになった。けれどもそれは、せいぜい「知らなかったこと知る、忘れてしまったことを知り直す」というレベルまでのことで、それを「理解する」ことや「腑に落ちて使いこなす」ことは以前と全く変わらない。いや、むしろただ「知った」だけのことを、もっと深い意味の「わかった」と混同しやすくなったことで、より難しくなっているのかもしれない。
では、ただ「知る」ことと深い意味の「わかる」とは何が違うのか? 『数学セミナー』2019年4月号の特集「現代数学の難しさについて」の中に、こんな記事がある。
まず1つは、本橋洋一さんという人の「『分かる』とは」から。
「分かってはいない」ということを感得しない学生を導くにはいかにすべきか、私の乏しい経験ではあるが、教師としての良き思い出もある。礎である上極限、下極限、収束性の論理を理解せぬままの学生が卒業演習にやって来た。まさに来てしまった以上、何とかせねばならない。そこで、助言を僅かずつ与えながら、同じ説明発表を繰り返し求めた。これは両者にとり先の見えぬ勤行。そして何週間かすぎ、あるときその学生の声が急に大きくなった。未整理ながら、彼の論旨はほぼ完全。もちろん大いに褒める。すると、彼は爽やかな笑顔となった。「爽快でしょう」と問うと、「そのとおりっす」と応えてくれた次第。彼は極限の理解に関する限り、世の人一般とはまったく異なる境地に至った。向こう岸に立ったのである。
ちなみに、上の記事にある「上極限、下極限、収束性の論理」などは大学の数学科であれば1年生の最初の頃に習うもので、それらの理解なしにはそれ以降の数学を積み上げていくことはできない基礎の基礎だ(もちろん卒業演習でやるような事柄ではない)。つまり、その学生はそれなしに4年間(あるいはそれ以上)を数学科で過ごし、卒業の前段階まで来てしまったわけで、だからこそ「爽快でしょう」、「そのとおりっす」というやり取りができるようになったことが感慨深いのだが、重要なのは
上極限、下極限、収束性の論理などは、どの「基礎解析学」、「微分積分学」の教科書にも書いてある事柄だし、そんな本を持っていなくても今ならネットでも簡単に調べられる。また、そこに書かれていることを暗記し、暗唱することも容易にできるが、それでは「わかった」ことにはならない
という点にある。
もう1つ、上と同じ『数セミ』の特集の中に、阿原一志という人の書いた「わかる力」という記事がある。数学の概念の中に基本群というものがあるのだが、阿原さんは学部生の間ずっとその基本群が理解できず、その状態が博士課程の途中まで続いたのが、博士課程の2年くらいで、代数曲線の位相形をコンピュータで解析するためにソフトを組み始めたら、急に論文が書けるくらいまでわかるようになったという。ところが…
のちに、明治大学で教鞭をとるようになって、矢野先生の演習での(基本群の)講義と同じ内容を大学院生向けに講義することになった。しかしそのときにとても困ってしまった。自分が説明する段になって講義ノートを作ってみると、「自分がかつてまったくわからなかった説明と同じ言葉を繰り返す」以外に説明の方法がない、と気づいたからである。(中略)これは「実例を念入りに説明すればわかりやすくなる」とか「情報をきちんと整理すればわかってもらえる」というようなレベルの話ではなく、養老孟司先生のおっしゃる『バカの壁』に近い感覚ではないかと思われた。同じ言葉をもってしても「わかっている人は圧倒的にわかっている」一方で「わからない人はわかる方法が一切ない」のである。
「わかる」とは、それがわからない人とは「違う境地に至る」、「向こう岸に立つ」ということであり、一度「わかる」と、わからなかった時の状態には戻ることができない、不可逆的な変化でもある。そして、「それ」がわかった人/わかっている人とわからない人/わかっていない人の間には「それ」を語るための共通言語は存在しない。「わかる」とは、そういう残酷なことなのだ。
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