深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

神の数式

2016-11-03 21:35:00 | 趣味人的レビュー

モーツァルトの楽譜にはほとんど書き直しの跡が見られない、というのは有名な話だ。ベートーベンなどは延々と自曲の推敲を繰り返したため、ついには楽譜に余白がなくなり、紙を継ぎ足してそこに書き直していたのだとか。モーツァルトの場合、作曲といっても実際は自分の頭の中に聞こえる曲をただ楽譜に写し取っていただけらしい。そういう意味で彼は「聞こえる」人だった。

ところで、あなたはラマヌジャンという数学者がいたことを知っているだろうか? 代数的整数論の分野で類まれな研究を行い、「インドのアインシュタイン」と呼ばれた数学者のことを。
そのラマヌジャンの生涯を描いた映画『奇蹟がくれた数式』を見てきた。



イギリスの植民地だったインドに生まれ、本を頼りに独力で数学の研究を続けていた彼は、港湾事務所の事務員をしながら自分の研究を世に出す機会を探していた時、その港湾事務所のイギリス人上司に勧められ、ケンブリッジ大学の数学教授2人に自分の研究成果を送った。その手紙は結局、2人からは黙殺されてしまうのだが、同じケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのG・H・ハーディの目に止まり、大学に招かれる。ラマヌジャンはその招きに応じ、母と若い妻をインドに残してハーディの待つケンブリッジへと旅立つのだが、待っていたのは残酷な現実だった。

ラマヌジャンにとって定理や公式とは試行錯誤して導くものではなく「祈りとともに神から与えられる真理」だった。発想の経緯を問われた彼は、「祈りを捧げると、神が舌の上に定理や公式を置いていくのだ」と述べている。そう、彼はそうした数学的な真理が「見える人」だった。
しかし「神から与えられた以上、それは真理であり、いかなる証明も不要」とするラマヌジャンの数学は、「いかなる数学説も、証明されない限り一片の価値もない」とする西洋的数学の前に全否定されてしまうのだ。


数学の本を開くと、バカみたいに当たり前のことを一生懸命に証明している箇所にしばしば出くわす。なぜ数学には証明が必須とされているのか? それは人間の直感が数学の論理的帰結の前に敗れ去ってしまうことが多々あるからだ。

例えば、以前ブログ記事としても書いたバナッハ-タルスキーの定理。この定理は「3次元の球体を有限個に分割し、それを一切形を変えずに組み替えると、任意の大きさの2つの3次元球体にできる」というもの。常識的には、そんなことはあり得ない。だが、この定理が正しいことが数学的に証明されている。また反対に「当然そうなるはず」と思われてきたことが数学的に反証されてしまうこともある。ゲーデルの不完全性定理などがそれだ。

こうした数学における直感と証明を巡るやり取りが登場人物たちの関係性と二重写しになって、この映画に深みと彩りを与えている。
それと同時に、ラマヌジャンの「真理であるものになぜ証明が必要なのか」という問いは、「数学にとって真理とは何か」という問題とともに、数学の根本を問うものとして今も残されたままだ(「証明されたものは真理だが、真理だからといって証明されるとは限らない」というのが、ゲーデルが不完全性定理の中で明らかにしたことである)。


そうした数学観をめぐる闘いに加え、菜食主義者であるためイギリスではまともな食事ができず、植民地から来たことで不当な差別を受けることになったラマヌジャンは、第1次世界大戦の混乱の中、次第に精神と肉体を病んでいく。そしてハーディと1年後のケンブリッジでの再会を約束してインドに帰国するが、約束は果たされることなく1年後、インドで病没する。32歳だった。
思えばモーツァルトもまた35歳の若さで死んでいる。「聞こえる人」や「見える人」は長く生きられない運命にあるのかもしれない。


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