白雲去来

蜷川正大の日々是口実

昭和56年の「愛国戦線」に野村先生の原稿があった。

2009-04-13 09:28:43 | インポート

四月十二日(日)晴れ。
  今日の夕方から一週間ほど検査入院の予定なので、朝食後はその準備。準備と言っても着替えなどの荷づくりはすでに済んでいるので、もっぱら仕事の準備である。
自宅のパソコンから、モバイルにデーターを移したり、機関誌用の原稿をスキャニングしたりと、午後一時過ぎまでかかってしまった。
  「関内桜祭り」の手伝いをしているサリーファミリーのところまで家族を送り、三時過ぎに電車に乗って某所へ。ここの所、声がかすれて仕方がない。平成三年に、喉の手術をしているので、また再発すると嫌なので、岐阜の細川先生に電話で問診。もう少し続くようだったら、本格的に検査してもらうことにした。
 

  先日、民族革新会議の山口申先生から、昭和五十七年発行の「愛国戦線」と、大日本生産党の機関誌「民族公論」を十冊ほどご恵送頂いた。
その当時は、それらの機関誌に加えて「青年群像」や「興論」「新勢力」といった刺激的かつレベルの高い機関誌が月刊で発行されていた。
現在、私は、「大吼」の編集を任されているが、その編集の根底にあるものは、前述の機関誌である。かつての「改正商法」の結果、それらの機関誌のほとんどが廃刊に追い込まれていった。最近、「民族公論」のみが再刊された。
  山口先生から頂いた「愛国戦線」の昭和五十六年の九月号(一四八号)に、野村先生の「新右翼の擡頭を熱望す!」という文章があった。昭和五十六年と言えば、野村先生が、その四年前の三月三日に同志らと、財界の経済至上主義を撃つ、として経団連会館を襲撃占拠した、いわゆる「経団連事件」を惹起し、府中刑務所に下獄中であった。ご夫人経由で編集部に届いたことが末尾に記されていた。弊社の機関誌で是非紹介してみたい。

  また、昭和五十七年のは十月号には、山平重樹氏の原稿「昭和維新運動の原点―猶存社」が掲載されていた。今から二十七年も前のものである。昨日、山平氏にお会いした際に、転載をご了承いただいた。一週間、酒を抜いて治療に専念するか。

コメント (1)
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