十一月二十八日(木)曇り。
二十六日のブログは、かつて弊社の編集長だった辻想一さんの訃報についてふれたが、実は、それを書いたのは二十八日のことだった。その日の午後、何と辻さんが働いていた会社の社長から、辻さんが今月の十八日に亡くなられたことの知らせと、訃報が掲載された新聞が送られてきた。偶然とはいえ「虫の知らせ」というものが本当にあるものだと少し驚いた。
辻さんのことで思い出すのは、野村先生の遺著となった「さらば群青」の「帯」に書かれた文章のことである。余談ではあるが「さらば群青」は、先生が自決なされた日、すなわち平成五年の十月二十日が発行日となっている。これは多分、三島由紀夫が、「豊穣の海」四部作の最後となった「天人五衰」の発行日を、市ケ谷台での決起、自決の日としたことを意識したものではないかと思っている。
発行日は十月二十日となっているが、実は、半月ほど前に出来上がっている。そうでなければ発行日とされている日に書店には出回らない。完成する前の校正で、本の帯に書かれた文章を見て、先生は、「これじゃあ辻ちゃんに殺されちゃうなぁー」と呵々大笑した。そこには「戦闘的ナショナリストの遺書」とあったからだ。
辻さんが、先生の決意を知っていたかどうかは分からない。恐らく知らなかったのではないか。奥さんはもちろん、私を含めて事務所の者は誰一人として、気が付いた者はいなかった。直前になって秘書の古澤俊一が察しただけであった。私は、辻さんの最初の仕事である先生の単行本にインパクトを与えようとして、そういったコピーを用いたのではないかと思っている。普段から先生は、私たちに「俺はお前たちに、民族派としての生きざまを見せてきた。最後に見せられるのは死にざまだけだ」ということを言っていた。きっと辻さんも聞いたことがあったと思う。そういった先生の日々の言動から「戦闘的ナショナリストの遺書」という言葉を使用したのだと思う。
辻さんは、先生に関する取材の依頼があっても一切応じなかった。先生の本の帯に「遺書」と書いたことによる辻さんの自責の念が、亡くなられるまで先生のことを語らずにいたのではないだろうか。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
※送って頂いた辻さんの訃報記事。「元株式会社二十一世紀書院編集長」とある。
夜は、奥方が仕事で地方に行って一人留守番をしているカメちゃんを誘って「颯」へ。その後「やまと」に転戦してから帰宅。