白雲去来

蜷川正大の日々是口実

野村秋介作・青年賛歌。

2016-02-27 16:52:03 | 日記
二月十八日(木)曇り。

久しぶりに一時間ほど歩いた。そろそろ花粉の季節なので憂鬱でもある。それでも歩いていると、見慣れた町の道でも様々な発見があるので楽しい。商店街や市場が好きなので、なるべく商店街の中を通るようにしている。といっても、ほとんどの商店街は「シャッター通り」になってしまい、昔日の面影が無い。私の住む町にも何軒かあったおもちゃ屋などは全く見かけなくなった。今やトイザラスの一人勝ちと言っても過言ではない。大型店はそれなりに便利だが、町の風景が変わって行くのはさみしいことだ。

先生のポスターを整理していたら、「経団連事件」にて戦線復帰した直後に、各地で講演会をした時の物が出てきた。もちろんスクラップブックに仕舞ってあるのだが、荷物が多すぎて、肝心の物がどこにあるのか分からない状態なのだ。また野村先生が、千葉にいる時に作ったのが「青年賛歌」という歌。後年、花房東洋先輩が、「神州男児熱血歌唱祭」を催した時に、作曲家の平山忠純先生が曲をつけてくれた。平山先生のピアノで独唱している音源がある。もちろん、「神州男児熱血歌唱祭」の折のものだ。これをきちんとオーケストラの演奏で歌手に歌って貰ったものをCDにしてみたいと思っている。

青年讃歌     

野村秋介・作詞 平山忠純・作曲
    
一、ああ日本の青山河 起てば声なき白雲の 彼方に散りし人ありき 友よ大悲を知り給え
二、昭和維新のことならず 空しく消えた雄叫びが 渦巻く如し天の川 友よ哀歌を吟ずべし
三、短かき命逍遥と 行けば維新か牢獄か 銀河が蒼く澄む夜に 友よ涙をするなかれ
四、国のためには剣あり 友のためには涙あり 見よ雄渾の夏雲を 友よ悲憤を秘むるべし
五、思えば恋も酒もあり 思えば月も花もあり ああ混濁の世を生きて 友よ未完の詩を愛せ
六、高楼天に傾けて 呑む盃に日の本の 銀の涙をなみなみと 友よ炎の如く呑め

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久しぶりに中華街の菜香へ。

2016-02-27 11:26:06 | 日記
二月十七日(水)晴れ。

私の事務所には、先生が自決なされた時に報道された新聞、週刊誌、月刊誌、民族派の機関誌等がほとんど揃っている。その中から、随時、『燃えよ祖国』に再録するつもりでいる。例えば、自決なされた年、すなわち平成五年十二月七日の毎日新聞の「秀歌賛歌」というコーナーに歌人の佐伯裕子氏が、先生の辞世となった「惜別の銅鑼は濃霧の奥で鳴る」を取り上げて、こう批評している。

「十月二十日、朝日新聞社で抗議のピストル自決をした野村秋介は、新右翼のシンボル的活動家であり、句集『銀河蒼茫』をもつ俳人であった。〈さだめなき世なりと知るも草莽の一筋の道かはることなし〉という辞世の歌を遺したが、在野の志士を強調した歌よりも、ここは俳句の方が凄味がある。経団連襲撃事件など直接行動には賛成できなかったけれど、この一句を読んで思わず心を動かされた。命を賭けて物を言う声の響きは、やはりおろそかにできないものがある。〈惜別の銅鑼〉というありふれた言葉に、〈濃霧の奥で鳴る〉と付けて納得した時、この一句が自裁へと彼の背中を押したのだ。そんな気がしてならない。」

この佐伯裕子氏とは一面識もないが、毎日新聞の「秀歌賛歌」というコーナーで取り上げて頂いたことに対して、遅ればせながら門下生を代表して御礼を申し上げる次第です。その他、「化合繊維新聞」の「毀誉褒貶」の欄では「戦闘的ナショナリストの遺書・魂なき繁栄への警告と闘争譜」と題したコラムや「文化通信」の十二月六日号の山口比呂志の文章、「図書新聞」の栗本慎一郎氏の文章など、一般の人ではあまり目にすることのない新聞に掲載された野村先生へのレクイエム・・・。いずれ皆、まとめてみたいと思っている。

今日は午後から大行社の幹部会議があったが、お世話になった方の送別会と重なり欠席。関内駅にて友人らと待ち合わせて、久しぶりに中華街の「菜香」へ。美味しい料理と共に紹興酒を飲む。途中から愚妻も合流。送別会なのに、送る人にご馳走になってしまい、申し訳なし。その後サリーズバーに転戦して帰宅。

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甘利大臣の欲と、中江兆民のやせ我慢。

2016-02-26 18:14:28 | 日記
二月十六日(火)晴れ。

過日、甘利大臣が会見を開き、『週刊文春』が報じた二度の五十万円の授受について認め(政治資金規正法に基づき適切に処理したと説明)たほか、事務所秘書が5五百万円の謝礼のうち三百万円を私的に費消していたことや接待を受けていたことが判明したとし、秘書の辞表を受理したとした。一方、S社社長からA秘書が電話で口裏合わせを持ちかけられていたことなども明らかにし、甘利大臣は閣僚を辞任した。

私が連載している「憂国奇人・快人伝」に、東洋のルソーと言われた中江兆民のことを書いていたら、甘利大臣やその秘書たちに是非とも読ませたいエピソードがあった。

東洋のルソーといわれ、明治を代表する思想家の中江兆民は、五十五歳の時に喉頭癌になり、医者から余命を一年半から二年と宣告された。
癌の進行は早く、呼吸もできないくらいの苦痛に苛まれたが、その病魔と闘いながら兆民は、著書『一年有半』を著した。極貧ゆえにすでに書物は売り払われ、一冊の本も手元にないまま、記憶だけで兆民は、『一年有半』を書き上げたのである。本のタイトルとなった「一年有半」が、医者から受けた余命宣告であるのは言うまでもない。 

その兆民だが、貧乏をしていても男としての節は決して曲げなかった。ある時、兆民の窮状を見かねた岩崎家から大金が届けられた。兆民の親戚筋のものが岩崎家に勤めており、その男から岩崎弥太郎の弟久弥に兆民の窮状が伝わったのである。しかし、兆民は、そのお金を辞退した。その理由を手紙に託してこう書いた。

「小生の目は自身のことに関しては、涙なき性分ですが、岩崎家の用意周到なる親切とその心つくした勧説(注・ある行為をすることを説くこと)に対しては、不覚にも涙がこぼれました。ただ一面識もなき、路上の行人同様の人より贈与を受けては、君子の道において穏当ならざるところあり、よだれを流しつつ、残念やせ我慢をはって御辞退申し上げる。ただ貧乏書生の頑固を笑うべし」と。

たかが五十万円の金で(お前にあるかと言われると、面目もないが)大臣の椅子どころか政治家生命も棒に振るようなことになっては、泣いても諦めがつかないだろう。甘利大臣も、よだれを流しつつ、残念やせ我慢をはって御辞退申し上げたら、こんなことにはならなかっただろうに。自民党の若手の議員や秘書たちに、先人の志操の固さを学ばせたらどうか。

夜は、お世話になっている友人らに招待され、最近野毛に出来た「炭火焼き鳥・榊」というお店に行った。野毛には珍しく、接待で使えそうな焼き鳥屋で、激戦区の野毛に出店するのだからよほど自信があるに違いない。話が弾んで、ゆっくり料理を堪能するという訳にはいかなかったが、また行ってみたい店だ。

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二・二六の今年は獄のほそ霙

2016-02-25 12:25:53 | 日記
二月十五日(月)曇り。

午後五時から川崎のレンタルスペースにて「群青の会」(代表・大熊雄次)主催の野村先生の生誕祭があり出席。確か昨年は、夕方から雪になって、スタッドレスを履いている松本佳展君の車で送って貰ったが、自宅のすぐ近くに来て坂が上れず、そこから歩いて帰ったのを覚えている。今日も一瞬だが雪が舞った。野村先生には雪が良く似合う。

 残刑は十年もある「明日も雪か」。この句は野村先生以外には詠むことができないだろう。いや野村先生だからこその句である。その昔、この句について先生から聞いたことがある。

「千葉に降りた時、刑務所の面接があって俺を含めて三人が面接を同時に受けた。その際に面接官が書類を見ながら『一人短いのがいるな』と呟いた。誰かと思ったら、『野村お前だよ』。後の二人は、無期の人だった。ここが長期刑務所であると言うことを思い知った最初の出来事だった。そんな中で無我夢中で二年が過ぎた。やっと二年が過ぎたかぁー。と思った瞬間、これから先、まだ十年も務めなければならないのかと思った時、ゾッとして、体が震えたことがあった。雪の日だった」。

 この雪の打擲 耐へて耐へてゆく この句もその頃の作である。若き日の先生の苦悩が伝わってくる。

先生の生誕祭は、当初は先生の句碑のある群馬の雷電神社にて斎行されていた。その後、大宮、川崎へと場所を移して行われている。その理由は、生誕祭を司る神職の勤務先の都合によるもの。

五時半より、厳かに生誕祭が行われた。(祝詞や誓詞は私の機関誌『燃えよ祖国』の第二百号に掲載します)来賓の犬塚博英民族革新会議議長が、「死者は歳を取らないのだろうか。野村さんは五十八歳で亡くなられたが、私は、野村さんの晩年の歳をすでに超え、老人となったが、野村さんは、五十八歳のまま、私の記憶の中にある」。奥様は、「歳を取った私が、向こうに行った時、私のことを分かるでしょうか」。これにはホロリとさせられた。

三島・森田両烈士のご命日は「憂国忌」として一部のカレンダーに掲載されている。野村先生の「群青忌」も、いつの日か歳時記に定着させ、その日が国家や政治を考える日になるように、微力ながら努力するつもりである。野村先生が、河野邸の焼き討ち事件にて十二年の刑を終えて、戦線に復帰する際に詠んだのが、

先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く。

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中華街の老舗へ。

2016-02-24 13:45:19 | 日記
二月十四日(日)小雨の日。

今日は野村先生のお誕生日。お元気だったら八十一歳となる。亡くなられたのは平成五年で五十八歳。当たり前のことだが八十一歳となった先生が想像つかない。伊勢原の浄発願寺に思いを馳せる。

午後一番で中華街行き。中華街の老舗である華勝樓にてカメ&アコちゃんのお二人に招待されての食事会。中華街にはもう一軒華正樓というお店があって良く間違えられるが、どちらも老舗で名店である。私の上の世代では、中華街は、上記の二店に加えて、同發、聘珍樓、萬珍楼、均元楼といった店のどれかを贔屓にしている人が多い。ちなみに中華街で一番古い店は、聘珍樓で、創業した明治一七年(一八八四)年から現在まで、屋号も変わることなく大通りに面する現在の敷地で営業を続けている。

私は、上記のお店に皆行ったことがあるが、どのお店も素晴らしく、甲乙がつけがたい。カメちゃんが事前にチョイスしたメニューを紹興酒で堪能した。二時間余りお店にいて外に出たが、当然ながらまだ外は明るい。ではもう一軒と言うことになったが、こんな時間に開いている店を知らない。野毛方面に行こうと言うことになり、結局、桜木町の駅前にある磯丸水産に落ち着いた。日曜日とはいえ、驚いたことに、まだ明るいのにお店はかなり混んでいた。お腹が一杯なので軽い肴を頼んだが、このお店の残念なのは、ボトルキープが出来ないことだ。従って呑兵衛が大勢で行くと、思いがけずに大金を支払うことになってしまう。

その後、藤棚の一休寿司へ。ガリをつまみに軽く飲んでから帰宅。楽しい一日だった。

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