白雲去来

蜷川正大の日々是口実

咳をしても一人・・・。か。

2024-02-29 16:06:53 | 日記

2月26日(月)晴れ。2・26事件の日。

野村先生の句集『銀河蒼茫』に、「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。今日の横浜は、晴天なり。随分と、二・二六事件関係の本を読んだが、『私の昭和史』末松太平、『叛乱』立野信之、『二・二六事件への挽歌』大蔵栄一、の三冊が私は好きだ。その昔、東映で作った『脱出』という映画をもう一度見てみたい。当時の岡田首相が襲撃された官邸から「脱出」する映画だ。DVDになっているか探してみるつもり。

朝食は、昨日の夕食の残りの天ぷらを、煮て卵でとじた「煮天丼」。これが好きだ。汁物は、「ヒガシマル」のうどんスープ。昼は、散歩途中で、「モス」の「エビカツバーガー」。夜は、エビマヨ、ブリの刺身、マカサラ。うーんいつもながら料理に脈略がない。お供は「黒霧島」の特別版の「MERT」。

天気が良いので、午後から愚妻を伴って一時間ほどのウォーキング。当然ながら、大岡川の桜並木は、まだ寒々しいものばかり。弘明寺商店街ですれ違う人にマスクをしている人が少なくなった。以前は、人込みでマスクをしていないと、奇異な目で見られたものだが、現在では、していない人の方が圧倒的だ。この時期、花粉症の私は、時折くしゃみが連続して出る時がある。よってマスクは欠かせない。二年ほど前だったならば、人前で、咳やくしゃみをしようものならば、露骨に嫌な顔をされた。その心配がなくなっただけで安心する。

ふと尾崎放哉の有名な「咳をしても一人」という句を思い出した。この句の解説によれば、「わずか九音の短律の中に、言いようのない孤独感が込められています。この句は放哉の晩年、小豆島に小さな庵を構えていた頃のものです。小さな庵の中で、咳をするも、その音が響くだけ。咳き込む放哉に声を掛けてくれる人は誰もいない。死を前にした放哉の孤独がありありと感じ取れます」。

そういえば、吉村昭が放哉を描いた『海も暮れきる』という本を随分の前に読んだことがある。もう一度読んでみるか。


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マエストロと満州。

2024-02-27 11:57:55 | 日記

2月24日(土)晴れ。

午前中に、掛かりつけの病院へ。常備薬を貰い、採血をして貰い様々な検査。結果は後日。朝食を取らなかったので、帰宅途中に「ほっともっと」にて、「洋風バラエティー弁当」を二個。1200円なり。夜は、家族で、暮れに頂いた、牛肉で「すきやき」と山芋のから揚げ。半うどん。お供は「黒霧島」。

昼食後に、本当に久しぶりに元町のチャーミングセールへ出かけた。凄い人である。愚妻が傘が欲しいというので、家族分の傘を4本と、折り畳みの傘を2つ。全部で3600円。元町に古くからあるお店、フクゾウなどに寄って、何か買おうかと思ったが、人が多く断念。夕食の買い物をしてから帰宅。

世界的な、指揮者の小澤征爾さんが先日亡くなられた。といってもクラッシックなどを聴く高尚な趣味もない私にとっては、小澤さんを実際に見たことも、彼の指揮するコンサートにも行ったことがない。ただ偉大な日本人が亡くなってしまったという、歳なりの寂寥感と、哀悼の意を表した。小澤さんと言えば、その名前の「征爾」は、満州事変を立案した板垣征四郎と石原莞爾の名前からそれぞれ一字を取って命名されたのは有名な話。ご尊父の開作氏は、かつて満州で満州青年連盟や満州協和会などで板垣や石原などと共に、民衆の教化のために運動をしていた。

昭和6(1931)年に、奉天の柳条湖にて、何者かによって満州鉄道の線路が爆破された。関東軍はこれを機会に在留邦人保護を名目に、満州各地に兵を送った。奉天はもとより北は長春まで瞬く間に関東軍は占領した。満州事変と呼ばれるこの関東軍の動きは、我が国では現地の名前を取って柳条湖事件と呼ばれるが、中国では事件の起きた日にちをとって九・一八事変と呼ばれ、現場には「九・一八事変歴史博物館」が建てられ、現代の中国では、この日を「無亡国辱の日」(国の恥を忘れることなかれ)と制定し教育している。当時の政治家は、以後関東軍の独断専行を抑えることが出来ず、日本は結果的に敗戦という悲劇に向かってひた走る。


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下級武士の食日記。

2024-02-20 15:00:01 | 日記

2月16日(金)晴れ。

夕方に、下の子供がみなとみらいの歯医者に来るというので待ち合わせた。桜木町の駅前で、どこかの高校生の女の子6,7人が能登の震災の義援金の募金活動をしていた。五時近く、海が近いので風が冷たい。そんな中で、コートも着ないで声を挙げて震災の義援金のお願いをする姿を見て、頭が下がった。少ないけれど、お金を入れて激励させて頂いた。子供と合流した後でも、まだその子たちは頑張っていた。日本人も捨てたものではない。

子供と二人で、久しぶりに「たん右衛門」へ。子供は、初デビュー。お店のオヤジもスタッフも皆、30年以上いる人たちばかりで顔なじみ。馬刺し、さがり、牛タン、テールスープで〆、というのが私のフルコースだが、最近は、それほど食べられなくなった。食後に、サリーズバーから「ラッキー」の店に転戦して帰宅。

今読んでいるのが『幕末単身赴任ー下級武士の食日記』(青木直己著・筑摩書房)というもの。井伊大老の暗殺事件の三か月後に、紀州和歌山藩の下級武士が江戸藩邸勤務を命ぜられ、故郷に家族を残して単身赴任で江戸に来る。名前は酒井伴四郎。この人がいわゆる「筆まめ」で、一日の食事はもとより、何処へ誰と行ったかを克明に記録している。彼の日常から幕末の江戸の風俗や日常が分かり、面白い。江戸時代は、「四つ足」の物は食べないと聞いていたが、彼の日記には、豚鍋や牛鍋を食したとあり、そういった肉を売る専門店もあったと書かれている。

面白いのは、今日ポピュラーな食べ物である「鶏」は、当時は、全く人気がなく「鳥」を扱う店では最下位にランクされていた。引用をしてみる。日本で最初に印刷された料理書『料理物語』(一六四三年刊)では、十八種の鳥の名をあげており、それは鶴、白鳥、雁、鴨、雉子(きじ)、山鳥、鸞(ばん)、けり、鷺(さぎ)、五位、鶉(うずら)、雲雀(ひばり)、鳩、鴫、水鶏(くいな)、桃花鳥(つぐみ)、雀、鶏の順番でした。現在、もっとも一般的な鳥料理の素材である鶏が最下位の十八番目です。日本では古くから鶏を食用とする習慣があまりなかったのですが、徐々に広まって江戸時代の料理書にも登場するようになりました。それでも鶏の肉が嫌いな人も多かったとあります。

雀より人気がなかったとは意外でした。面白かったので『江戸おかずー12カ月のレシピ』(車 浮代著・講談社)と、産経新聞の書評にあった『死刑囚になったヒットマン』(小日向将人著・文藝春秋)を取り寄せた。

 


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「餃子の満州」へは行ったことがあるが・・・。

2024-02-19 15:31:23 | 日記

2月15日(木)晴れ。春一番。

朝食は抜いた。昼は、最近買い置きしている冷食のロースカツ、キャベツの千切り添え、五島うどん。夜は、新ワカメとレタスのしゃぶしゃぶ、つけタレは「金のゴマダレ」、ちくわの磯辺揚げ、目刺し。お供は「黒霧島」。

スーパーなどで「新ワカメ」があるとつい買ってしまう。しゃぶしゃぶが一番なのだが、向田邦子さんの本で知った、「ワカメの炒め物」もいい。醤油と少しの砂糖で炒めるだけなのだが、油がハネるので初心者や料理が苦手な人はやめておいた方が良い。もう一品は、ウェイパーを使ってわかめスープ。

産経新聞でたまに連載されている「満州」もの。その記事で知ったのが船尾修さんという方の写真集『満州国の近代建築遺産』という本。かつて百数十万人に上る日本人が居たとされる満洲国(1932─45)。 新京/長春,大連,旅順,奉天/瀋陽,ハルビン/哈爾濱などに、主として日本人が設計や施工に関わった建築物約400カ所を尋ねる。 建築物を通して浮かび上がる満洲国の実像。(解説より)を読みたいと思って調べたら、1万3千円もする。中身を確認しないで1万3千円はきついなぁー、と思って京急の弘明寺という駅の横にある図書館に行った。備え付けのパソコンで探したら「在庫なし」。がっかりしたが、もう一冊、やはり在庫はないのだが『日本人が夢見た満州という幻影』(新日本出版社)という本があることを知って、帰ってからアマゾンで注文した。こちらは3千80円。

戦後75年をすぎてもいたる所に残された威圧感のある美しい建築物。日本の面積の約3倍の面積を持つ「満洲国」のほぼ全域に足を延ばし、380ヶ所ほどの残存建築物を調査・撮影。1932年の「建国」から90年、読者によりリアルに「満洲国」という国家が生まれた背景と日本とのかかわりなどを中心に伝えるフォト紀行。「餃子の満州」へは行ったことがあるが、本物の満州へは行ったことがない。行って見たいなぁー。


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エディ蕃、ミッキー吉野のライブへ。

2024-02-15 15:15:29 | 日記

2月12日(月)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、ナスと豚肉のオイスターソース炒め、新玉ねぎの味噌汁。夜は、馬車道の某居酒屋で愚妻と遅い夕食を兼ねて一杯やったが、全くダメな店で、何品か取ったが全滅だった。入った私が悪いのです。

午前中に印刷所から機関誌『燃えよ祖国』の第290号が届く。改めて誤字、脱字がないかを確認し、事務所にて発送作業。今月からクロネコの「メール便」が大幅に値上げになった。日本郵政の赤字を宅配業者に泣きついたのか、メール便の配達を止め「集荷」のみとなった。そして配達するのは郵便局というのだから、何が何やら分からない。「集荷」するだけでも以前よりも約、倍近い値上げ。それなら少しでも安い郵便局で出した方が良い。昨今の何でも値上げは、ボディブローのようにじわじわと家計を圧迫しつつある。

夜は、サリー姐さんのお世話で、馬車道の関内ホールにて開催されたエディ蕃、ミッキー吉野、ザ・ゴールデン・カップスのライブに愚妻と出掛けた。6時に開場、6時半開演だったが、前の会の落語の会が押して、表で一時間も待たされた。考えられない。並んでいるのは、私の同世代の人たちばかり、今日は暖かかったから良かったものの、雨でも降っていたらどうなっていたのだろう。私たちの前に並んでいた、ご夫妻は、具合が悪くなったのか帰ってしまった。

ライブは、私とほぼ同世代を生きてきた、エディ蕃さんとミッキー吉野さんの演奏は、中々良かったが、若い人には「時代感覚」がないので無理かもしれない。カップスもほとんどのメンバーが亡くなり、在りし日の映像がスクリーンに映る。「長い髪の少女」などが流行ったのは、もう50年以上前の事。それでも、その歌が流行った頃に、あんな奴とあんなことをしていたことを思い出し、感傷的になった。レゲエ調?の「銀色のグラス」が良かった。終了後に、顔見知りの人たちに挨拶をして、とりあえず開いている居酒屋に入ったが、大失敗。まあこんな夜もあるさ。


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