白雲去来

蜷川正大の日々是口実

雨を見たかい。

2023-07-31 18:38:20 | 日記

7月27日(木)晴れ。

朝食は、ひきわり納豆、焼きのり、極辛という鮭、わかめの味噌汁。昼は、ナンドック。夜は、松原商店街は魚幸のマグロ、ワカメときゅうりの酢の物、素麺チャンプルー、ナスの浅漬け。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

7月に入ってからほとんど雨が降らない。私が子供の頃は、確かに夏は暑かったが、時折、夕立があって、止むと近所の人たちは「いいおしめりでした」などと挨拶を交わしていた。雨が続くと嫌だが、こう晴れの日が続くと、農業などに携わっている人たちは、大変だろうなぁ―、と思ってしまう。CCRの「雨を見たかい」でも聴いてみるか。どうも貧乏性なのか、クーラーを使うのをためらってしまう。それを家族に言ったら「熱中症で入院することを考えたら、電気代の方が安いから、遠慮なく使ってね」。そっちかい。

ディアゴスティーニから毎月送られてくる「ブルーノート・ベスト・ジャズコレクション」も今月で第14集と15集となった。これまで一枚もハズレがない。選りすぐりのプレイヤーの選りすぐりの曲を収録しているのだから、ハズレがないのは当たり前かもしれない。CDと一緒についてくるのが解説書。ジャズが好きと言っても、単に好きなだけで、詳しい知識などない。よって解説書がとても参考になる。今月の第14集は、ルー・ドナルトン、15集はデクスター・ゴードン。プレイヤーの名前を知らなくても、聞いたことのある曲が多く、「ああこんな題名だったのか」と知り、余計に愛着がわく。盟友から、プレゼントされた25枚入るCDチェンジャーのおかげで連続して聴けるし、ゴキゲンである。

 


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岡倉天心の洒落。

2023-07-27 11:40:47 | 日記

7月26日(水)晴れ。

毎日暑いなぁー。何でも「命にかかわる危険な暑さ」らしい。愚痴っても涼しくなる訳ではないけれど、つい言ってしまう。最近、「水ナス」がスーパーなどにあると必ず買うようにしている。関内の「伊勢」という料理屋で、水ナスを生で食べて、その美味しさに驚いてから、癖になった。最も、料理屋で出すくらいの物だから、スーパーの物とは比較にならない。スーパーの物はとても切っただけでは食べられないので、白出汁を使って「浅漬け」にするか、薄塩水にさらしてから、塩でもみ、ごま油と醤油、そしてかつお節をかけて食べている。糠漬けもやってみたいが、思案中である。

朝食は、素麺、小さいおにぎり。昼は抜いた。夜は、メンチカツとキャベツの千切り添え、タコとネギをごま油で和えた「タコネギ」、タコとキムチと和えた「タコキムチ」、ワカメときゅうりの酢の物。お供は、「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

明治期の美術指導者岡倉天心は1863年、現在は横浜市開港記念会館(同市中区)がある場所で生まれた。ここで父が商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めていたためだ。その建物の壁にあるのが「岡倉天心誕生の地」というレリーフ。岡倉天心は日露戦争の最中に、アメリカに滞在していた。羽織はかま姿で、街を歩いていると、現地の若者が無遠慮に話しかけてきた。「君たちは、何ニーズか?ジャパニーズか、それともチャイニーズか?」。天心はすかさず、切り返した。「あんたこそ、何キーだ?ヤンキーか、モンキーか、それともドンキー(ロバ)か?」。「産経抄・2020・2・6」より。

中華街に近い、開港記念館の傍を通ると、そのエピソードが浮かび、笑ってしまう。こういう話が好きだ。

 


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三島由紀夫と「マドレーヌ」。

2023-07-26 14:49:56 | 日記

7月25日(火)晴れ。

朝食は抜いた。昼食は、在宅で家に居る子供のリクエストでエビフライ、キャベツの千切り添え、シジミの味噌汁。夜は、ハンバーグ、フライドポテト添え、麻婆ナス。お供は、「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

伊豆の下田に、三島由紀夫が愛した洋菓子「マドレーヌ」があるそうだ。下田の洋菓子の老舗の日新堂菓子店で売られているもので、お店のとても可愛いイラストが描かれたパンフレットには、こうある。

 「三島由紀夫氏とマドレーヌ この度は、お買い上げいただきまして誠に有難うございます。故三島由紀夫氏は昭和三十九年から例年、下田湾の青い海が広がる下田(東急ホテル)で夏のバカンスを家族とともに過ごしました。親子水入らずの海水浴や友人との語らい、そして入り江の散策を楽しみながら執筆活動に勤しみ、下田を題材にした短編「月澹荘綺譚」や、遺作となった「豊饒の海」の最終巻「天人五衰」などの名作を完成させています。三島氏は、下田の港町の風情と下田太鼓祭りの笛の音に深い愛着をもち、町を歩き、商店街の人々とも気さくに交流する心優しい人柄でした。日新堂菓子店は三島氏の御聶厦の店であり、昭和四十五年の最後の夏までご愛用いただきました。特に、「日本一のマドレーヌですよ」と絶賛されたマドレーヌとレモンケーキがお気に入りでした。見知らぬお客様にも声をかけて勧めてくださる庶民的で晴れやかな笑顔の三島氏の姿は、私どもの心に永遠に残っております。日新堂のマドレーヌは、下田の海と情緒、気取らない街角を心から愛した三島由紀夫氏の思い出がこもったお菓子です。株式会社日新堂本店」。※415-0023静岡県下田市三丁目三番七号

このマドレーヌを野村先生のご縁のある方からご恵送頂いた。そのお菓子と一緒に、日新堂の娘さんの書かれた『三島由紀夫の来た夏』(横山郁代著・扶桑社刊)が、著者の手紙を添えて同封されていた。過日、読了した元楯の会の本多清氏が上梓した『三島由紀夫「最後の1400日」』の中にも「先生と蟹」という章の中に、東急ホテルでの出来事が描かれている。下田には随分と行っていてない。店の入り口に山頭火の句碑のある料理屋「伊豆松陰」へ久しぶりに行ってみたい。


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「君に泉水博の慟哭は聞こえるか」。

2023-07-24 13:55:50 | 日記

7月23日(日)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、桃屋のザーサイを刻んで卵とハムを炒めたチャーハン。インスタントのワンタンスープ。夜は、ポークソテー、鶏肉と大根の無煮物、カツオのたたき、水ナスの浅漬け。お供は、「黒霧島」。

今年の秋は、野村先生の没後30年。5年ぶりに会場を借りて追悼祭・群青忌を開催する。現在、野村先生が過去に書いたものや、あまり知られていない対談などをまとめており、校正が出来た物から私の機関誌『燃えよ祖国』に掲載している。今回、(第285号)反響があったのは、月刊『宝石』の昭和52年2月号に掲載された、猪野健治先生が司会、構成をした、丸山照雄・須藤久・犬塚博英・野村秋介各氏の「斬奸の思想を語る」という鼎談。46年も前のものだが、昨今の安倍元首相の銃撃や岸田総理を狙った事件などの「直接行動」の意味と意義を思想的な立場の異なる方たちと論評している。

その『月刊・宝石が』発売された年の3月に野村先生は同志らと共に、財界の営利至上主義を撃つ、として「経団連事件」に決起し、再び囹圄の身となる。余談ではあるが、対談した映画監督の須藤久氏とは、その後(1990)、野村先生が総合プロデュースをし、東映系から二・二六事件を題材にした映画『斬殺せよ・切なきもの、それは愛』を発表する。

また、1977年9月28日に起きたダッカ事件にて、「超法規的措置」により釈放され、日本赤軍と合流し、その後フイリピンにて逮捕された泉水博氏。氏は、3年前の3月に、収監中の岐阜刑務所で亡くなられたが、かつて千葉刑務所で一緒だった野村先生が泉水博のことを書いた「君に泉水博の慟哭は聞こえるか=かけらほども左翼的でない彼がなぜ日本赤軍へ」は、何よりも泉水氏の人柄や、千葉刑務所での事件の様子が良く描かれており、手前味噌で恐縮だが、読者から「とても良かった」などのメールや手紙を多く頂いた。

30年祭に向けて、先日の松崎明氏とのことや、あまり知られていない先生の交友、原稿などを整理し、掲載して行きたいと思っている。ご指導とご鞭撻のほどをお願いする次第です。


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偉いやっちゃ。

2023-07-23 15:48:47 | 日記

7月22日(土)晴れ。

関東地方に梅雨明け宣言が出た。といっても浪人暮らしの身としては、生活に何の関係もなく、連日30度を超える暑さに正に、サンリオの「ぐでたま」状態である。最近は、余り食欲がなく、朝食を抜いている。昼食は、お中元で頂いたうどん。家族は、暖かい汁で食べる「かけ」が好きだが、私は、いつも「冷やし」で食べる。ミョウガとネギをたっぷり刻んで、たまには、人参とナスの天ぷらを添える。もう一品は、大好きな錦糸町は「223」というお店から頂くキムチ。これだけで夏バテが吹き飛びそうだ。夜は、豚肉の生姜焼き、スライスマッシュルーム添え、キャベツとカニカマのマヨネーズ和え、そしてキムチ。お供は、「三岳」と最後に、「山崎」のソーダー割を2杯。

私の好きな作家で、ヨコハマと縁のある作家に山本周五郎がいる。彼は、戦後、本牧は間門と言う所にあった旅館、間門園を仕事場とした。25年くらい前までは、営業はしていなかったが、崖の上にあった建物は残っていたように記憶している。その山本周五郎は若き日に「帝国興信所」に就職し、その後、社長の後藤武夫が創刊した「日本魂(にほんこん)」へ移籍する。その記者時代に、右翼の大物である頭山満へ談話を取りに行った。「西郷は」・・・。仙人のような山羊髭の頭山はそう言いかけ、間があいた。30分も経ったので、具合でも悪くなったのかな、と思ったら、やおら語をついで、「偉いやっちゃ」。「帝国データバンク」の『百年史』の中にあるエピソードである。猪瀬直樹氏がかつて『週刊文春』に連載していた「ニュースの考古学」(2007・4・5)に書いていた。

 


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