白雲去来

蜷川正大の日々是口実

鎌倉を生きて出でけん初鰹

2015-04-30 17:43:36 | 日記
四月二十四日(金)晴れ。

いやはや、ぼやーっとしていると、あっという間に季節に先を越されてしまう。久しぶりに車を使わずに事務所まで歩いて見たら、先月の今頃は桜に胸ときめかせていたのに、道端にはツツジやハナミズキ、小手毬が町を彩っている。いつも思うが金が無くとも、天気が良くて花がきれいで、とりあえず、そこそこ健康であれば、それだけで幸せな気持ちになる。しかし、そう思っていても、いざ金に詰まると花をめでる余裕がなくなるのだから、人間が小さいとしょんぼりするときがある。窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ。の荘子の心境には程遠い私であります。

ああ貧乏してもカツオが食べたい。鰹節の「柳屋」というお店の案内には「カツオと鰹節」の話が沢山掲載されていて楽しい。有名な、「『目には青葉山ほととぎす初鰹』の一句は毎年の様に晩春、初夏の話題になります。この句は、江戸時代の大坂の俳人山口素堂の作で、その季節のさわやかな『目には青葉』の新緑、『耳にはほととぎす』の音色、『口には初鰹』の美味という三輻対の喜びをたたえたもの。よく『目に青葉』と『は』の字を落とした例があるのは気になります。四月頃いちばん早くとれる走りの鰹。中でも鎌倉や小田原の辺りから馬や船で江戸へ送られて来る物が最も早く、また高価で、天明頃、日本橋石町の富豪が一尾二両三分の初鰹を馳走したと伝えられる」とある。「まな板に小判一枚初がつお」の句があるくらいだ。そして、「鎌倉を生きて出でけん初鰹」の芭蕉の句は有名である。

夕方、居ても立っても居られず「そごう」へ車を飛ばして鮮魚売り場へ。あったぞ、あった。一さく千円。ふふふ、なめてんじゃん。まっいいかと買った。家族には、エビチリとフリッターを作ってやろうとむき海老を購入。録画しておいた映画を見ながら、酔狂亭で独酌。
 
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日本人の「反省」と「謝罪」とは。

2015-04-30 09:55:31 | 日記
strong>四月二十三日(木)曇り。

夏に出す予定の安倍総理の談話やアメリカ議会で演説する内容の中に、いわゆる先の大戦の「反省」と「謝罪」の文言が入っているか、いないかで、またお隣さんたちが騒いでいる。反日の新聞「ワシントンポスト」もお隣さんたちに同調するかのような記事を先日掲載した。

若い人たちの品のない言葉を借りれば、全く「ウゼエよ」。いつまでそんなことに拘っていなければならないのか。もう七十年も前のことを・・・。先の大戦での「反省」と「謝罪」は当然しなければならない。しかし日本人が行うべき「反省」とは、欧米社会の植民地支配の撤廃と大東亜の共栄の大理想の下に戦ったが、事志とは違い敗戦の憂き目にあってしまったこと。さらに「後に続くを信じる」と笑って散った特攻隊の英霊の純忠なる精神を、戦後の日本と日本人が評価していないことへの「反省」。更に日本を信じて共に戦ってくれたアジアの諸国民に、その大理想を現実のものとすることが出来なかったことの「謝罪」。これ以外にはない。


曽野綾子さんが、産経新聞のコラムでこういうことを書いている。「中国や韓国は、先の戦争のことを謝り続けろ、と言うらしい。日本人は謝ると言うと、言葉で表現し、頭を下げたり土下座したりして、相手に優越感を味わって貰えば済むことのように思っている面があるが、通常、謝罪するということは深い罪の自覚とともにお金か領土で弁償することだから、簡単に謝っておいて済むことではない。謝罪と言うのは、直接の被害を受けた人と、与えた人とが、現在そこに当事者としている場合にしか、なし得ないことではないだろうか。仮に私個人に、七十年も前に起きたことを今でも言い立てる人がいたら、そう言う性格の人とは付き合いたくないと思うに違いない。七十年前、顔見たことのない私の曾祖父が犯した悪事を、今普通の市民として生きている私に責められても、私としては謝りようがない」。

さらに、「そもそも過去の認識と言う行為は、素晴らしいように見えるが、あくまで後ろ向きの姿勢なのだ。それより現在現実にその人が、どれだけ誠実な市民として暮らし周囲の人にも貢献しているかが問題であろうし、過去の認識へのそれが答えなのだ」。

我が国が戦後七十年もの間、一度も戦争行為を行わず、アジアはもとより世界に平和的な貢献をしてきた。これこそが先の大戦の「償い」の結果であると私は思う。特に、戦後、中国や韓国に対する無償、有償の経済援助は、どう贔屓目に見ても度が過ぎている。良識ある世界の人たちから見れば、中国と韓国が我が国に要求している七十年も前の戦争の「反省」と「謝罪」とは、単に「外交カード」であり、その実「たかり」行為と同義語としか思えないのではないだろうか。

安倍総理。どこかでばったり「お隣さん」たちと会ったなら、一言「日本と日本人と仲良くしたくないのですか」と聞いてあげればよい。まあ、日本には昔から「嫌よ、嫌よも好きのうち」と言う言葉があるから、大人の対処をしましょうか。

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昭和の記憶が遠のいて行く。

2015-04-29 11:26:13 | 日記
四月二十二日(水)晴れ。

台湾から帰って来てから、やはり体重が気になる。愚妻などは、続けていたダイエットがあっと言う間に水泡に帰した。笑ってはいられない。今までは「花粉」のせいにしてさぼっていたが、そろそろウォーキングを始動しなければ。油断するとすぐ太り、すべての数値が、がぁーっと上昇してしまう。今年の目標は高岡寿成(カネボウ)の二時間六分一六秒の日本記録に挑戦することだ。いや走るのではなく、その記録の時間だけ歩くことが目標である。次は世界記録。あっこれだとだんだん歩く距離が短くなるのか。まっいいか。

作家の船戸与一氏がなくなったとニュースで知った。といっても恥ずかしながら、この方の本を一冊も読んでいないのだ。『週刊新潮』の書評欄に船戸氏の『満州国演義』(全九巻)が完結されたと、紹介記事があったので戦前の「満州」「上海」物に興味のある私としては是非とも読んでみたいと思っていた矢先だった。最近は読書の量が減っているので、真面目に読もうと思っています。

そう言えば、ワイルドワンズの加瀬邦彦さんもなくなられた。私が、初めて加瀬さんの演奏を聞いたのは、高校の一年生の時だった。まだワイルドワンズが結成される前で、「寺内タケシとブルージンズ」でギターを弾いていた。寺内タケシさんの会社が横浜の関内にあったこともあって、地元意識から良く聞きに行った。ドラムの小野さんと言う方が高校の先輩であったことも影響していたのかもしれない。横浜の馬車道にあった「横宝」でライヴ(昔はこんな言葉はなかったが)を見た時に、前座だったのが「じゅんとネネ」で、当時は「クッキーズ」という名前で歌っていた。

いつの頃からスクラップを始めた著名人の死亡記事、「墓碑銘」と題したスクラップノートももう二冊にもなった。少しずつ昭和の記憶が遠のいて行く。

日本料理には「はしり」と「旬」と「名残り」がある。この時期のカツオはまだ「はしり」か。それでも見た目の良い物があったので、早速買って、酔狂亭で月下独酌。カツオですか、やはり、よつや、ごけ、止まりでした。

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少年老い易く、いやもう老いてます。

2015-04-27 09:52:41 | 日記
四月二十一日(火)曇り。

昨日、事務所の書棚を整理していたら二・二六事件関係の本が随分とあり、懐かしくてそれらの本を読んだ時のことを思い出していた。昭和維新運動関連の本を集中的に読んでいたのは、三島・森田義挙事件以後のことだ。その義挙に影響されて、国家や政治、皇室のことなどを真面目に勉強するようになった。しかしながら何をどう勉強して良いかの知識もない私は十九歳だった。

とりあえず、五・一五事件、二・二六事件関連の本を読もうと思って買いあさった。しかし五・一五事件関連の本はあまりなく、圧倒的に二・二六事件関連の物が多い。入門書としては立野信之の「叛乱」、当事者のものとしては末松太平の「私の昭和史」、大蔵栄一の「二二六事件への挽歌」などが白眉であろうか。その他、犠牲になった警察官の方のことを書いた物や、ご遺族がまとめた物、遺墨を集めたものなど、二二六事件関連の物には良い物が多い。昔は、目についた物はすべて買っていたが、最近は、根気がなくなって本を見つけても横目で見るだけになった。

いつも思い入れだけで終わってしまうのだが、歴史的事件や維新運動の先輩たちの書籍をデーター化し、まとめてみたいとは思っているのだが。そうすれば、民族派運動に興味のある人たちが、五・一五事件や血盟団事件、二・二六事件に関してどういった本がどこの出版社から出ているかなどが一目で分かり、研究の幅が広がると思うのだが。夢は、民族派の「大宅文庫」みたいなものを作ること・・・。まあ無理ですが。

大下英治氏の「憂国事件の男たち」が好調なようだ。私も三〇冊ほど引き受けて、お世話になっている方々にお送りした。その本に入れる手紙を書いたり、原稿を書いたりと、あっという間に一日が終わる。と言っても六時ですが。暗くなるのを待ってから酔狂亭で月下独酌。

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月は杏花に落ちても雨未だ降りやまず。

2015-04-27 09:20:13 | 日記
四月二十日(月)曇りのち雨。

珍しく事務所に朝から五時過ぎまでカンズメとなった。ノンフィクションライターの山平重樹さんが、新たに野村先生のことを題材にした本を準備中とのことで、大悲会の志村馨君にインタビューをすることになった。待ち合わせは四時過ぎであるが、幸いに用事もないので、朝食後に事務所に行き、本の整理をしたり手紙の整理を行った。

昨年、事務所の書棚の本の入れ替えを行った。そされまで書棚にあった中国史関係の本や、個人的に好きな作家の全集、更には横浜にゆかりのある作家の本と言ったほとんど「趣味」の本を段ボールに仕舞い、代わりに戦前戦後の維新運動関係の本に入れ替えた。しかし、入れ替えたと言ってもジャンル別に整理した訳ではなく、とりあえず書棚に入れただけと言う雑然とした状態だったので、あっちの本をこっちへ、こっちの本をあっちへと、書棚を往復した。それでもまだ整理がつかず次回に持ち越し。

四時過ぎに、山平、志村の両氏が到着。インタビューが始まる。私は静かに机で手紙の整理。物を捨てられない性格なので、頂いた手紙のほとんどを取ってある。社友の皆さんの物は特に捨てられない。音信不通や疎遠となってしまった人もいるが、手紙はその人たちが生きていた証である。特に、獄中の同志から頂いた手紙は大切にしている。

インタビューが終了した後は、藤棚の「愛福楼」にて打ち上げ。ここのお店の料理は中華街のお店と遜色がない。オーナーが中華街の出身だから当然かもしれないが、安くて美味しい。たらふく飲んでからも別れ難く「加一」へ転戦。一時間ほどで解散。「加一」は西横浜と言う駅から一分ほどの所にあるので東京からの客と飲むのには適している。月は杏花に落ちても、雨未だ降りやまず、か。中破・良飲で帰宅。

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