白雲去来

蜷川正大の日々是口実

機関誌のことなど。

2014-08-29 13:07:05 | インポート

八月二十八日(木)曇り。

今日も肌寒い朝だった。考えたなら八月も後三日で終わり。手紙の書き出しなどではなく、本格的に秋となる。先生の獄中句集『銀河蒼茫』には好きな句が多いが、秋の句では「まためぐる秋のさみしさ 天の濃さ」がいい。

十月になれば、群青忌。大がかりな集会は五年に一度で、二十一年目の今年は浄発願寺にて墓前祭を行い、終了後には中華街で直会(なおらい)を行う。来月の六日に準備委員会を開催する。決定しましたことは、ブログ等で告知いたします。

古い同志で名古屋在住の栗野成人氏が癌と闘っている。盟友の折本満氏もすい臓がんで、過日手術を行った。六十も半ばとなるとこういった病は避けられないのかもしれない。もちろん健康に越したことはないが、こればかりは、いかんともしがたい。

その栗野氏が発行しているのが「牛喘荘通信」という同人誌である。先日、私の所に届いたのが第百十七号。B五版四〇頁。すべて手作りの雑誌である。寄稿している方のほとんどを知っているが、栗野氏宛てに来た書簡や原稿、そして栗野氏の原稿も皆、そのままコピーして掲載している。これ以上の手作りはない。ずい分前のことだが私の機関誌もワープロで原稿を起こしてからコピー機で印刷していた。

当時のコピー機は両面コピーが難しく、片面をコピーした物を裏返して再びコピーすると不具合が生じて、度々紙詰まりを起こした。更に、コピー機がリースと言うこともあって、毎回千回以上もコピーするので経費も大変だった。「牛喘荘通信」の第一一六号にこうあった「六月二十一日(土)晴天。夏至。弊誌先号を執念で作り、発送及び手渡し分も配り終えた。これで心置きなく入院できるのだ。」(原文は旧仮名)。機関誌づくりの苦労を知っているだけに、ほろっとさせられた。

私の機関誌もそうだが、栗野氏も恐らくほとんど赤字であろう。出し続けるのは使命感と意地である。機関誌と言うものは出せば出すほど赤字がかさむ。郵送費だけでも毎月五万円以上。業者に出していたならばとてもやっていけない。しかし、誰に頼まれたわけでもなく、自分が好きでやっている以上、泣いてもいられない。

弊社が発行している野村先生の本を預かって頂いている倉庫代、機関誌の紙代、印刷機のインク代が溜まり、ヤバイと思うと、頭山満や野村先生の書を友人に頼んで買って貰い支払いに充てる、という生活がもう何年も続いている。

Photo_5 ※「牛喘通信」

正直言って、私の機関誌の購読料は高いと思っている。それを承知で購読して頂いている読者には本当に感謝をしている。いつかその人たちの恩に報いたいといつも思っている。右も左も、政治・思想運動に携わる者は「表現者」である。書くか、喋るか、行うか。すべては無理だとしても、その中の一つぐらいは真面目に取り組みたいと思っている。栗野成人氏のご快癒を願いつつ・・・。

朝から、様々な手紙を七通。これもある意味運動である。礼を尽くす。礼を失すれば私が笑われるのではなく、野村先生の門下生としての私が笑われる。ということを肝に銘じてお世話になった方には、感謝をこめて筆を執ることにしている。でも酔った時の醜態は多めに見て下さい。


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尊攘義軍十二烈士女・六十九年祭 記念冊子

2014-08-29 11:29:28 | インポート

八月二十七日(水)曇り。

朝、夏掛けのタオルケットだけでは寒いので 、慌てて毛布出して掛けた。一瞬、またクーラーをかけっぱなしで寝てしまったのかと錯覚をするほど寒い朝だった。物思いに耽る暇などもなく、いきなり秋が深まった。

そう言えば、李白の詩に「静夜思(せいやし)」というものがあって、「牀前月光を看る 疑うらくは是地上の霜かと」。訳は「寝台の前に月の明かりが白く差しこんでいるのを見て、地上に降った霜ではないかと見まごうほど」。大げさではなく、シーツの白が寒々しい朝だった。

午前中に用事があったのだが、体調が悪くキャンセルさせて頂いた。昼過ぎまでボーッとしていた。二十二日に行われた「尊攘義軍十二烈士女・六十九年祭」の記念冊子が送られてきた。発行は國の子評論の横山孝平氏である。

昭和二十年八月、降伏に反対し徹底抗戦を主張していた尊攘同志会は、八月十六、十七日に木戸邸を襲撃するが目的を果たせず愛宕山に篭城。特高が解散の説得を試みるも、篭城した尊攘同志会十名は、二十二日の午後六時に「天皇陛下万歳」を叫び手榴弾で自決したのである。そして、その五日後、尊攘同志会自決現場で夫人二名が夫のあとを追ひ拳銃自決。この十二名が尊攘義軍十二烈士女である。

その十二烈士女の慰霊祭が毎年、自決現場となった愛宕山にて行われている。代表は犬塚博英氏であり私も理事に名を連ねている。八月いっぱいは大事をとって炎天下での会合等は欠席させて頂いているので、横山氏が気を遣って慰霊祭で配布したパンフレットを送ってくれた。圧巻なのは、高見順が、尊攘義軍を題材にして書いた「十発の銃声」が掲載されていたことだ。事実と多少違う所はあるが、冊子の巻末で横山氏が解説をしている。

横山氏は、高見順の『敗戦日記』や中村武彦先生の『維新は幻か』、あるいは『大右翼史』の『警視庁史』、児玉誉士夫先生の『悪声・銃声・乱世』や『風雲』などの資料を良く読み解き、解説している。高見順の「小説」がなくても横山氏の解説だけで十分に尊攘義軍の精神が理解できる。一般配布がないのは残念なくらいである。

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夜は、寒いのでこの時期に鍋を囲んだ。珍しく二杯だけ飲んで止めにした。


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作田明賞のことなど。

2014-08-28 18:42:38 | インポート

八月二十六日(火)曇。

広島の土石流の被害が凄いことになっている。最初はこれほど多くの人が土石流に飲みこまれたとは考えず、救助の人もそれほど多くなかったが、日が経つにつれて大ごとになった。

野村先生のお墓のある伊勢原の浄発願寺も江戸時代に「山津波」で、お寺も含めて周辺に大きな被害が出たということをご住職から聞いた。山津波、今では言わなくなったが土石流のことである。使い古された言葉で恐縮だが大自然の驚異の前には、あらためて人間の力や存在何て小さな事であることを認識せざるを得ない。

報道によれば、こうした災害で家が全壊するなどしたら三百万円程度の見舞金が出るらしい。しかし三百万円程度では、家は建たない。また借家住まいの人でも、三百万円では、箸の一本から家財道具を揃えるのはギリギリだろう。そこで、災害の程度に合わせて有識者が1から5くらいまで判定する。東北大震災や今回の広島の土石流などは、規模の大小にかかわらず、レベル1とする。そう判定されたら、十八歳以上の国民が最低一口五百円を寄付する。もちろん生活保護を受けている人や、国の援助が必要な人は免除である。

最低五百円だから、出来る人は十口でも、百口でも良い。そうして集まったお金で、失われた家や家財道具を援助する。一家族に三千万円ぐらい出して上げれば何とかなるに違いあるまい。もちん受け取る方にも細かい規制は必要だろうが、多少は生きる希望が生まれてくるのではないか。余ったお金はいざと言う時の為にプールしておく。バカバカしいと笑われるかもしれないが、寄付したお金が目的のあることに使われるのだから、出す方も納得が行くのではないか。まあアホな頭で思いついたことですからお笑いください。

皆さんは、特定非営利活動法人・五仁會という組織をご存じだろうか。代表は竹垣悟氏と言って元任侠の方である。現在は一般人となって地域社会の為に貢献している。五仁會の目的とは、社会に有益な人材を育成する事業を行い、犯罪減少・地域社会の安全等による共益増進に寄与することを目的とする それに犯罪者の更生支援をするために、刑務施設などに面会に行き、ボランティア活動に邁進している。

その五仁會の日頃の功績が認められて、この度「作田明賞」を受賞したのだ。「作田明賞」を創設した作田 明氏(1950年6月29日 ~2011年6月1日)は、千葉県出身の、専門が犯罪心理学の精神科医、精神保健指定医、臨床心理士。博士(医学)。日本保健医療大学教授、聖学院大学客員教授を務め、テレビ、新聞等で犯罪に関するコメンテイターとして活躍した。 上智大学文学部心理学科、筑波大学医学専門学群などの非常勤講師も歴任。 2010年には、犯罪非行の防止と犯罪者・非行少年の更生・矯正に尽力している個人・団体について、その活動を称え表彰するために私財を投じて作田明記念財団を設立し、「作田明賞」を創設した。

犯罪・非行の防止と、犯罪者・非行少年の更生・矯正に著しい貢献をされた個人や団体の功績を讃えるために『作田明賞』を創設し、その第1回『作田明賞』授賞式が2010年9月20日(月)に行われました。当日は当財団理事長作田明の他、審査委員の江田五月参議院議員、高野隆弁護士、作家の吉永みち子さんなどがご出席され、『作田明賞』最優秀賞に山本譲司さん、優秀賞に社会福祉法人カリヨン子どもセンターが選ばれました。(ホーム頁より)

その第五回に、前述の五仁會と竹垣悟氏が受賞された。これは正に称賛されるべき出来事である。五仁會の活動と目的は、特定非営利活動法人・五仁會のホーム頁で見ることが出来ます。是非お願い致します。

夜は、後輩で横浜の吉野町で小料理「一銭」を経営している尼野保君の誕生会を兼ねて暑気払いを行った。親しい人たちばかり十人が出席。その後有志で狭斜の巷に流れる。

コメント (1)
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「映画秘宝」の別冊に野村先生の特集記事。

2014-08-27 17:49:50 | インポート

八月二十五日(月)曇り。

朝食は、マルシンのハンバーグに目玉焼き、そしてキャベツの千切り添え。トーフの味噌汁という私的には、とてもふふふなメニューである。

朝から真面目に仕事。「燃えよ祖国」のバックナンバーの整理である。これもさぼってしまうとかなり大変な作業となる。表紙の写真を取りこんでから、号別に内容を入力して行く。また各号ごとに残部がどのくらいあるかも入力。遅ればせながらコツコツとホーム頁を作っているので、完成したならば、機関誌のバックナンバーを閲覧できるようにしてみたい。

趣味の駅伝やマラソンもボチボチとDVDに録画している。陸連も過去のレースを販売してくれたならどれほど楽な事だろう。そういった売り上げも選手の育成資金に使えると思うのだが。

七月の初旬に、『映画秘宝』と言う雑誌から取材を受けた。ライターの高鳥都さんが以前にも、『映画秘宝』と言う雑誌の別冊で「映画と愛国」という特集を行った際に野村先生がプロデュースした「斬殺せよ」と「撃てばかげろう」のことを取り上げてくれた。今回は、その続編で、昨年行った野村先生の追悼二十年祭「群青忌」の際に上映した映画を中心に、私と根本順善監督の取材をもとに特集が組まれている。とても良い文章なので、是非ご一読下さい。また野村先生以外の特集「世界ギャングスタ映画読本」もとても興味深い。映画好きの人たちには、たまらない一冊であると思っている。

Photo ※「映画秘宝」別冊。

Photo_2 ※野村先生の特集記事。

夜は、町内の仲良しさんたちとラーメン屋の「つた屋」にて食事会。一時間ほどいて帰宅。


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処暑と元寇

2014-08-25 13:08:13 | インポート

八月二十四日(日)晴れ。

昨日、二十三日は「処暑」。中国の二十四季節の一つである。立秋より十六日目。処暑では、暑気がやむという意味で、このごろになるとさすがに熱さも峠を越すと言われているが、それでも連日三十度を超える暑さの日が続いている。そして処暑は二百十日・二百二十日とともに台風襲来の特異日とされている。ちなみに弘安四年の八月二十三日は、前夜から吹き荒れた「神風」によって、来襲した蒙古の軍船がことごとく海に沈んだ記念すべき日である。

元寇は、一八九二年(明治二十五年)に発表された軍歌。作詞・作曲共に永井建子(男性)。

一、(鎌倉男児)
四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る /十万余騎の敵 /国難ここに見る /弘安四年夏の頃 /なんぞ怖れんわれに /鎌倉男子あり /正義武断の名 /一喝して世に示す

二、(多々良浜)
多々良浜辺の戎夷(えみし) /そは何 蒙古勢 /傲慢無礼もの /倶(とも)に天を戴かず /いでや進みて忠義に /鍛えし我が腕(かいな) /ここぞ国のため /日本刀を試しみん

三、(筑紫の海)
こころ筑紫の海に /浪おしわけてゆく /ますら猛夫(たけお)の身 /仇(あだ)を討ち帰らずば /死して護国の鬼と /誓いし箱崎の /神ぞ知ろし召す /大和魂(やまとだま)いさぎよし

四、(玄海灘)
天は怒りて海は /逆巻く大浪に /国に仇をなす /十余万の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し

鎌倉期、蒙古(現モンゴル国)の 国王・「フビライ」は、大軍をもって日本に襲 来したが失敗した。翌年の建治元年(一二七五年)今度は、五人の国使を日本に送り 降伏を要求してきたが、しかし時の鎌倉幕府はこれを拒否 、国使 五人を九月七日、龍ノ口刑場で処刑し、死骸を江ノ電の「江ノ島駅」の裏にある常立寺に埋葬したという。ここに五基の五輪塔が建てられ「五人塚」、あるいは「元使塚」と呼ばれている。(以下は、どなたかの「常立寺」からのコピペです)
元使とは、元(現在のモンゴル)から派遣された特使のこと。歴史で有名な元寇(文永、弘安の役)の際に、元の皇帝からの国書(降伏勧告)を持って、日本に来ましたが、スパイ容疑をかけられて時の鎌倉幕府の執権北条時宗により、龍口刑場(現在の龍口寺のある場所)で処刑されました。
元使構成員は、杜世忠(モンゴル人)はじめ、イスラム、中国(2名)、通訳の高麗人の5名でした。正使:杜世忠(34歳・蒙古人) 副使:何文著(38歳・唐人) 計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人)  書状官:果(32歳・ウイグル人) 通訳:徐賛(32歳・高麗国人)皆、30代の若さです。
石碑には「杜世忠」の辞世の句『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 が刻まれています。

 門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
 我に問う、西行幾日にして帰ると
 来る時もし黄金の印を帯びたれば
 蘇奏を見て機を下らざるなかれと


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