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白雲去来

蜷川正大の日々是口実

桜応援団の新緑の集い。

2025-06-09 15:28:19 | 日記

6月8日(日)曇りのち晴れ。

朝食は、かき揚げうどんに「中華ちまき」。昼から、保土谷から横須賀線で東京、中央線に乗り換えて四谷へ。上智大学のすぐ近く、聖イグネチオ教会前の土手で行われた、桜応援団の主催する「新緑の集い」に参加。天候不良で、これまで何度か延期になっていたが、ようやく開催された。拉致被害者の奪還を目指して、街頭活動を行っている桜応援団の皆さん。私もBBQが好きで、たまに行うが、何と言っても準備と後片付けが大変である。それを近藤誠さんと伊原久美子さんのお二人が、ご厚意で開催して頂いている。犬塚博英先輩と奥さんが先着していた。何でもご結婚40年を経てもラブラブとか。見習わなければ。顔見知りの皆さんと、美味しい手料理とお酒を頂きつつ談笑。三時過ぎにお暇する。

五時過ぎに、保土谷駅着。もう少し飲みたいという家人のリクエストで、駅前の「大衆焼肉」へ初めて入った。何とオーナーは私と同じ歳の人。もう14年もやっているとの事だが、入るのは初めてである。軽く食べて、もう一軒ショットバーで飲んでから帰宅。九時頃に寝てしまった。

令和の米騒動。我が家は、上の子供が朝食とお弁当を持って行くので、まあ食べ盛りの男の子の居る家程ではないが、それでも食べる方かもしれない。それにしても災害や戦争でもないのに、こんな時期に米不足とは・・・。今回のことで、日本人が主食であるコメ農業と農政について考える良いチャンスとしなければ。明日は、冷ご飯が残っているので、「焼きおにぎり」にでもするか。


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嬉しい手紙。

2025-06-07 11:59:04 | 日記

6月6日’(金)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、湘南餃子、キンキの粕漬、磯のりの味噌汁。夜は、すき焼き用の肉をホットプレートで焼いて「焼肉」、ピーマンと砂川農場の新玉ねぎと豚肉のオイスターソース炒め、ミニアスパラのナムル、山芋の磯辺揚げ。お供は、「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

先月に所用で地方へ行った際に、ある方に一方ならぬお世話をして頂いた。お礼の手紙を出したところ、その方から返信が来た。ラインやメールの時代に、その方の手紙は、心のこもった、かつユーモアに富んだ素晴らしい内容だった。手紙はもちろん小説なども、最初の二、三行も読めば、大体、面白いのか自分の好みなのかが分かる。そういう歳になった。久しぶりに手紙を頂いて、嬉しいと思った。

以前、河原博史さんの紹介で西日本新聞の記者の方から電話取材を受けた。そんなことも忘れていたが、先日、福岡在住の後輩から「蜷川さんのことが、西日本新聞の『右傾化の正体』(注第四回)に出てます」と連絡を頂いた。その時点では新聞が届いていなかったので、河原さんにお願いして、新聞を送って頂いた。その「右傾化の正体」のシリーズをパソコンですべて読みたかったが、「有料」と言うことなのであきらめた。(セコくてすみません)肯定的な物はもとより、例え否定的な物であっても、マスコミとは向き合うというのが、私の考えである。無視されるよりは、よほど良い。歳は取ったが、まだ現役である。


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我が心の長嶋茂雄さん。

2025-06-04 18:28:11 | 日記

6月3日(火)雨。

朝起きるや、天下の一大事、長嶋茂雄さん身罷えり。起きてテレビのスイッチを入れた途端にこのニュース。89歳。いつかは来るとは思っていても長嶋さんだけには来てほしくはなかった。私は、巨人しか知らない巨人ファンである。しかし、長嶋さんが監督を辞めてからは、球場はもとよりテレビ中継も見ることがなくなり、今では野球に全く興味がなく、現在の巨人で顔と名前が一致するのは監督の阿部慎之助さんぐらいである。

私が子供の頃、長嶋さんが巨人の4番で活躍していた頃、唯一無二、憧れていたのが長嶋さんだった。小学生の低学年の頃は、野球をしたくてもバットやグローブなども買えず、近所にも、そんなものを持っている子供たちもいなかった。当時住んでいたすぐ近くに、建具屋さんの家があって、そのおじさんに棒を削って貰いバットにしたり、グローブも母の手作りのものだった。しかし、全員がグローブを用意できず、もっぱらやっていたのは、「ゴロベース」と言ってゴムボールを使い、ピッチャーはゴロを投げ、打つ方は親指を人差し指の上に折り曲げて、そこで打つというものだった。普通は、「三角ベース」で、一類と三塁しかないものだつたが、人数が多くなると、一類、二塁、三塁と一応普通の野球のようにして遊んだ。

当然ながら、人気なのは四番でサード。皆長嶋さんに憧れていたのだ。そしてほとんどの子が巨人の野球帽をかぶっていた。当時は、自宅にお風呂のある家が少なく、町内に必ず一軒あった銭湯に行った。その時に下駄箱の番号を争って取ったのは3番、そう長嶋さんの背番号である。現在でも、稀に座敷のあるお店で、下駄箱(靴箱)があると自然と3番を意識している自分がいて、苦笑する。野球を見ていた頃。新聞は報知と読売、お菓子は「ナボナ」、飲み物は「オロナミンC」、コートは「三洋」。(分かる人は分かる)

長嶋さんの現役引退のセレモニーの映像を見ると、今でも目頭が熱くなる。美空ひばり、石原裕次郎、長嶋茂雄。どんどん昭和が遠ざかって行く・・・。

 

 

 


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創業150年の老舗。

2025-06-02 14:28:40 | 日記

5月31日(土)雨のち曇。

ヨコハマの「天ぷら屋」の名店と呼ばれる店が何軒かある。私の知る限りでは、関内の駅前の「天吉」、馬車道の「天七」、関内は相生町の「天富」の三軒か。(良いお店を知っている方は教えて下さい)。日ノ出町駅の川沿いにあった、野村先生の行きつけだった「天作」は、残念ながら廃業したと、野村先生の奥様から聞いた。「天吉」の創業は明治だそうだ。「天吉」は、野村家、野村先生のご尊父の、故野村三郎氏の馴染みのお店と聞いていた。野村先生が昭和38年の「河野邸焼き打ち事件」にて、公判を待つ間に、何度も初代の店主が野村先生に差し入れに行ったと、五代目の当主が言っていた。私も、先生から聞いたことがある。また、サザンオールスターズの「原坊」こと、原由子さんのご実家であることでも知られている。

そのお店に、サリー夫妻や、私の妻やお世話になっている方たち総勢6名でお伺いした。個室のカウンターで、店主が揚げてくれる天ぷらを堪能した。目の前で揚げてくれる個室の部屋は、中々予約が取りにくいと言うことで、今回は、店主とお友達のサリー姐さんのご尽力で実現した。食後に、サリーズバーにより、其の後、一軒転戦して帰宅。

久しぶりに「ディアゴスティーニ」の「東方特撮映画DVDコレクション」の第一『ゴジラ』を買った。これまで「ディアゴ」のシリーズは、何回か買ったことがあるが、途中で解約し、最後まで到達したことがない。最初は「世界の戦車シリーズ」。どんどん送られてくるので、置いて置く所がなく、途中で解約した。最近では「ブルーノートJAZZ」シリーズ。これも最初は良かったが、送られてくるうちに、知らないプレイヤーばかりとなり、聴いていて良いのか分からなくなり、これも解約。過去に、欲しいなぁーと思ったのは「伊号400潜水艦」と「空母赤城」。しかし、飾っておく場所がなく断念した。今回の「東宝特撮シリーズ」も、ラインナップを見て、興味のある物だけを書店で買うつもり。しかし、「赤城」は惜しいことした。

 


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古いデーターの復元が出来ない。

2025-05-31 15:03:25 | 日記

5月30日(金)曇りのち雨。

目覚めつつ 眠りつつ知る若葉雨。とは野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の中の春の句。のんびりと起きて、昼食を兼ねた朝食は、オムライスにマルちゃんの「ワンタンスープ」。夜は、新玉ねぎのオニオンリング・フライ、アスパラのナムル、豆もやしのナムル、ポークソテーにスライスマッシュルーム。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

「蜷川さんはどんな家に住んでいますか」と稀に聞かれることがある。「我が家には、庭があって湧水を引いた池には築山がありますよ」と答えると。「へぇー凄いですね」と驚かれるが、「勘違いしては困る、湧水の小川や築山と言っても、実は質の流れに、借金の山」だよ。定職を持たない浪人暮らし、良い生活など出来るわけもない。それでも能天気に、酒が飲めるのは、盟友、社友、機関誌の購読者のお陰と感謝しています。

その機関誌だが、現在300号の記念誌を編集中である。300号記念誌の特集は、昭和52(1977)年3月3日に恩師らが「財界の営利至上主義を撃つ」として同志と共に決起し、財界の総本山である経団連を襲撃占拠した、所謂「経団連事件」の特集号。過去に、弊誌では、現在の『燃えよ祖国』の前身である『大悲ジャーナル』時代に第48号(平成8年)、58号、59号(平成9年)、99号(平成12年)、そして『燃えよ祖国』と改題してから220号(平成28年)、230号(平成29年)と6回の特集を行なってきた。それを、予算が許せば一冊に、もし予算が追い付かなければ、2冊、或いは3冊にまとめたいと思っている。

しかし、大きな問題が、『大悲ジャーナル』時代のデーターが、パソコンを換えたり、ソフトが新しくなったことで、古いデーターの復元が出来ない。仕方がないので、スキャンスナップを使って、パソコンに取り入れて、編集している。これが殊の外大変な作業となっている。恩師が亡くなられてから、すでに32年。恩師の晩年の歳をはるかに超えて、古希を過ぎ、正直言って私の持ち時間も限られて来た。今、残しておかなければ、資料も散逸してしまうかもしれない。それで「経団連事件」の完全版の編集を思い立ったわけである。全体を三部構成にして、第一は、「公判記録」、判決文。弁護団の最終弁論、野村先生らの最終意見陳述。第二部は、「行為者たちの回想」、第三部は、様々な方たちの「論評」である。できたら一冊にまとめたいが・・・。頭の痛い所である。読者の皆さんには、もう少しの猶予をお願い致します。


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