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白雲去来

蜷川正大の日々是口実

大学の文化祭へ。

2015-05-28 15:39:55 | 日記
五月二十三日(土)晴れ。

良い天気である。今日は、上の子供の大学の文化祭?がある。中学時代に三年間、吹奏楽部でアルトサックスを吹いていたので、大学生になってから、「ジャズクラブ」とかいうサークルに入った。その演奏会があるとのことで愚妻と下の子供を連れて聞きに行った。駐車場が狭いとのことで、バスと地下鉄を乗り継いでから、大学まで炎天下を二十分ほど歩いてクタクタになった。

我々の時代の大学と言えば、至る所に左翼学生のスローガンの書かれた看板があって、随分と政治的だったが、一つも見ることがなかった。やっと演奏会のある教室を探し当てて、座ったが、子供が演奏するのは二曲のみ。お世辞にも上手とは言えなかったが、一生懸命さは伝わってきた。学生たちの手造りのお店が出ていたが、まあ今回は遠慮した。昼を過ぎていたので、駅の近くの蕎麦屋に入ったが、これが人生で食べた最悪の物だった。「ざるそば」は箸を入れたら、もさっと全部箸に付いてきた。こどもの「うどん」は、醤油の海の中に、うどんが浮いた状態。愚妻の「ニシンそば」は、これでもかと言うほど、大盛りのそばが入っていた。文句を言ってやろうと思って調理場を覘いたら、八十歳ぐらいのおじいちゃんが一人でいたので、気の毒でやめた。まあこんなこともあるさと家族で笑い飛ばした。人生の大事な一食が台無しになった。

夜は、サリーズバーへ行く。何やら「アド街天国」?とか言うテレビ番組の取材があるとのことで誘われた。お客さんには、元ゴールデンカップスのエディ潘さんや浅野忠信さんのお母さんのジュンコさんなど、その昔の横浜の不良たちが集まって、取材を無視して盛り上がった。終了後は、久しぶりに野毛の焼き鳥屋の「むさし」へ。一時間ほど飲んで帰宅

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天才と凡人の酒。

2015-05-28 09:11:02 | 日記
五月二十二日(金)晴れ。

どうも酒と縁が切れない。朝起きた時は、たまには酒を抜くか。などと殊勝な気持ちにもなるが、陽が落ちる頃になれば、朝の決意などどこかにすっ飛び、さあ今日は、何を肴に飲むか、などで頭の中が一杯になる。そして行きつけの魚屋やスーパーを思い浮かべて、昨日はカツオだったから、今日は中華でも作るか。などとルンルン気分で(ちょっと古いか)買い出しに行く。それでも我が酔狂亭で飲むときは、九時を過ぎると眠くなり、あっと言う間に寝てしまうので、クラブ活動をしていた頃に比べればいくらか健康的かもしれない。

こんな私の健康を気遣って、お世話になっている後輩が年に一度「断食」に連れて行ってくれる。
以前は一週間コースだったのだが、最近は、これが人気となり半年前までも予約でいっぱいとなっている。仕方がないので三泊四日の「プチ断食」に行っているが、このコースも予約が取りにくくなっている。決して安い値段ではないのに、それもほとんど食事をしないにもかかわらず十万円近くもする。ある意味、食べることよりも贅沢なのかもしれない。まあ私としては、如何に酒を美味しく飲むかのために健康に気を遣っているのだから、しばしの空腹など何ともない。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり。などの酒の歌で有名な若山牧水は、アルコール依存症で度々病院の世話になっていた。嵐山光三郎センセイの『文人悪妻』(新潮文庫)によると、死ぬ三週間前の九州めぐりの旅では、五十一日間の旅で、一石三斗飲んだと述懐し、朝起きて四合、昼に五合、夜は一升以上という飲酒が連日続いたとある。牧水はつらい青春時代を過ごし、失恋し、貧乏に苦しみ、酒を覚えた。牧水にとって酒を飲むことは、生きながらにして自分を葬ることだった。と嵐山センセイは書いている。私は、健康と日々の楽しみのために飲んでいる。ここが天才と凡人の差かもしれない。

牧水は夜になれば、女房の喜志子に、「オイ酒を燗しろ」との日々。その喜志子にこういう歌があるそうだ。「にこやかに酒煮ることが女らしきつとめかわれにさびしき夕ぐれ」。私も、飲んでいる時に、愚妻に度々、「オイ氷入れろ」と強制するのは今夜から止めることにします。

夜は、茄子とひき肉の炒め物、チヂミ、アスパラのニンニクバター炒めを肴に酔狂亭で月下独酌。

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男子は厨房にも入るべき。

2015-05-27 11:20:38 | 日記
五月二十一日(木)晴れ。

最近、「牛筋」の煮込み料理が上手になった。「煮込み」といっても様々な味付けがあり、ビーフシチュー風、薄味のおでん風、韓国料理のようにコチュジャンを使った、カルビスープ風と色々と楽しんでいる。しかし何と言っても基本は牛筋の煮方にある。正直言ってオーストラリア産の物より国産の物の方が格段に良い。その匂いや食感も違うし、特に、下ゆでする際の「アク」が全く違う。国産の物は、下ゆでを一回もすれば、後は圧力鍋で煮ることが出来るが、オーストラリア産の物は、最低二回は下ゆでをしないと、後でスープが濁り、匂いも消えない。

また牛筋をまとめて買ってきても、固い部分とそれほどでもない部分がある。それを一緒に圧力鍋で煮ると、軟らかい部分がクタクタになってしまい、肉の感触がなくなってしまう。面倒でも下ゆでをした後に、肉を良く洗い、固い所と柔らかい所を分けて圧力鍋で時間を調節して煮るようにしている。また、一緒に玉ねぎ、生姜、長ネギの青い部分などを入れるが、大根やニンジンなどは既に味付けをしたスープで別に煮ておく。牛筋が柔らかくなった時点で、大根やニンジンを煮ているスープに入れて再び煮るのである。その際には、勿体ないが、牛筋を煮たスープは捨てる。最近は、牛筋を煮るのも慣れてきて、かなり美味しい物が出来るようになった。

落語家の故立川談志師匠は、料理上手で「談志厨房に入る」と言ったとか。その昔からわが国では、男尊女卑の気風ゆえ「男子厨房に入らず」というのが武士の心構えのように言われてきた。(今はほとんど死語となりましたが)しかしながら、これは孟子の言葉の勝手な解釈で、本来の意味とは随分と違う。

日本風のことわざの語源となったのが、孟子の「君子遠庖厨」(君子は厨房に近づかない)。その意味は、『徳(仁)の高い者は、牛馬や鳥等の家畜がされる厨房には近づくべきでない。高徳(仁)の人が食事を安寧に食べられるようにと配慮した言葉である。』と故事にある。昔の中国では家庭で家畜が飼われていて、厨房内は生き物をし料理するところである。徳(仁)のある方がするところを目にしたり、声を聞いたり、臭いを感じたりすると、その料理を食べられなくなる。だから、厨房には近づくべきではない。これが日本に伝わってきて、「君子は厨房に近づかない」=「君子は厨房に入らない」→「男子厨房に入らず」というように言い換えられた。

だから男が料理をしたとしても女々しいことなどはないのだ。大体、閨房(けいぼう・調べてみてね)ばかり入って、厨房に入ら無いのは、男の身勝手というもの。そんな訳で、夕食は、。家族に、きぬさやと新玉ねぎのオイスターソース炒め、海老とソラマメをチキンコンソメで味付けしてからとろみをつけて中華風にしたものを作った。私は、カツオの刺身を独り占めして、ふふふの独酌。

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遣独潜水艦の本。

2015-05-26 17:56:26 | 日記
五月二十日(水)晴れ。

今日は私が役員の末席を汚している大行社の幹部会議があり出席。車で行こうとも思ったが、読みかけの本があったので、久しぶりにバスと電車を乗り継いで東京行き。

会議は一時間ほど、四宮正貴先生の後にご挨拶をさせて頂いた。夜の食事会を所用ありて欠席。往復のバスと電車で、読みかけの本を読了した。随分前にマゾンで購入した『消えた潜水艦イ52』(NHK出版)。以前NHKのドキュメンタリーで放映したそうだが、残念ながら見ていなかった。終戦間際にドイツに向けて、五隻の潜水艦が出航した。無事に日本に帰ったのはただの一隻のみ。この遣独潜水艦のことは、吉村昭の『深海の使者』という名著があり、潜水艦好きな人にはお勧めの本である。

潜水艦は、その大きさで区別され、大きい順からイ号、ロ号、ハ号と呼ばれた。伊52の派遣の目的は伊30号により持ち帰ったドイツ製工業製品の製造技術の取得のために派遣された。当艦に便乗していたのは主に民間の技術者である。ドイツへの技術供与の対価として二トンの金塊、および当時のドイツで不足していたスズ・モリブデン・タングステンなど計二二八トンが積載されていた。アメリカ軍は訪独潜水艦作戦に特別な関心を示し日本とドイツ間で交わされる無線を傍受、その動きを追い続けていた。 イ52は無線交信では「モミ」と呼ばれていた。しかし、当時ドイツが占領していたフランスのロリアン港に向かう途中で、アメリカのアベンジャー攻撃機によって撃沈された。

当時、日本側は、イ52が撃沈されたと言う情報がなかった。あくまでも「撃沈された可能性が高い」という憶測が唯一の情報だった。それが、最近になってアメリカ側の大戦当時の情報公開によって、イ52が撃沈されたことが分かったのである。最高機密であったイ52などの件独潜水艦作戦は、アメリカの暗号の解読によって、航路や乗船した幹部乗組員や民間の人たちの情報も知っていたのである。イ52を撃沈する際に録音したテープが残っており、NHKで放映したものがユーチューブなどで見ることが出来る。イ52のスクリュー音や、音響魚雷によって爆沈する際の爆発音が鮮明に分かり、胸を締め付けられる。

最近、大量の金塊が積載されていたいう記録から近年トレジャーハンターにより沈没位置が特定され船体も発見された。そして遺品や積荷のごく一部が引き上げられたが金塊は発見されなかったが、深海に眠るイ52の艦影を見ることが出来た。しかし水深五千メートルもの深海であることから資金がかかり過ぎるので、それ以上の調査と金塊の引き上げは断念された。遺品は日本に送られた。

折角命懸けで日本に持ち帰った魚雷艇用のエンジンも、当時の日本の技術者のトップレベルの人たちが、どう研究しても同じ物が出来なかった。レーダや対空砲火のVT信管など、技術の差があり過ぎたことが良く分かる。単に潜水艦のことだけにとどまらず、当時の日本とアメリカやドイツとの技術力の差、と言うものを知る上でもとても勉強になった。そして、なぜゼロ戦を凌駕する戦闘機が作れなかったのか、ということも理解できた。本を買って、良かったと思うのは、こういった本を読んだ時である。

お世話になっている方からアスパラを頂いた。早速バター焼き、てんぷら、フライなどにして酔狂亭でアスパラ三昧の夕餉。快酔なり。

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洪門の方とお会いした。

2015-05-25 11:35:09 | 日記
五月十九日(火)雨後曇り。

家族がいたならば顰蹙を買うだろう今日の朝食。マルシンのハンバーグ、マカロニサラダ、ナポリタンが少々に目玉焼き。昭和のメニューである。私は、マカロニサラダとケチャップで炒めたナポリタンは、ハンバーグの付け合せとして、ご飯のおかずとして食べる。当然愚妻も子供たちも見向きもしない。これに二種類のソースを使って食べる。至福の時である。

夜は、大東島でサトウキビ畑を手伝っている大陸浪人の杉山茂雄さんの友人で、台湾の洪門の方で横浜在住のK氏とお会いし台湾の知己の安否や、洪門のことなどについて話を伺った。

その洪門に関することは、安部英樹さんの『洪門人による洪門正史―歴史・精神・儀式と組織』や、宮崎学さんの『血族―アジア・マフィアの義と絆』を読んだくらいの知識しかない。また大行社の方々と一緒に台湾を訪れる際に、現地の洪門の組織の方をご紹介して頂き、何度か食事を共にしたことがある。しかし不勉強ながら、そう言った人たちが、どのような運動をしているのかは詳しくない。K氏と雑談のような二時間だったが、勉強になった。

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