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ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(16)

2020-11-05 18:33:27 | 小説
「1か月前と大きく変わってないという事なので、こちらから薬をお出しする必要はないと思います。睡眠薬もまだほとんど残っているでしょうし」
「はい。大丈夫です」
「やはり、川奈さんを苦しめている原因は、大幅に若く見えることだと思います。他人の視線が気になると話してましたが、現在の家族についてはどうですか?ご主人とお子さんが3人でしたよね」
相変わらず口調は柔らかいのだが、徐々に核心に迫る刑事のようにも思え、佐世子は思わず紅茶で口を潤した。佐世子が緊張しているのが伝わったのか「話せる範囲でいいですよ」と町田は付け足した。
「いま一番気になっているのは末娘です。ここのところ、まともに口をきいてくれなくて。長女や長男にもそうした時期はありましたが、末っ子には両親ともども甘く接してしまって、この先どうなるのか不安です」
「下の娘さんはいくつですか?」
「高校3年です。秋で18になります」
「やはり娘さんとうまくいかないのは、川奈さんがここのクリニックに来る理由と繋がっていると思います?」
「それは繋がっていると思いますね。彩乃、娘は彩乃というんですが、あの子は友人たちに私を見せたくないみたいです。それを恐れているのが口に出さなくても伝わってくるんです」
佐世子は寂しげな笑みを浮かべた。
「もう少しの辛抱ですよ。そのうち恐らくお姉さんやお兄さんがそうだったように、下の娘さんも折り合いをつけるのではないでしょうか」

町田は少し暖かく微笑んだ。そしてすぐにクールな顔に戻り、佐世子に質問を続けた。
「ご主人との関係は上手くいっていますか?最近、変わったことはないですか?」
「5年ほど前、主人の要望で夫婦別々に寝るようになりました。理由は何か付けていたと思いますが、とにかく私と離れて寝たいという強い意志は感じました」
失礼な質問ですが、夜の関係はありました?答えたくなければ答えなくてもいいですよ」
町田は意識して柔らかな顔を作る。
「ええと、そうですね。5年前まではありました」
「じゃあ、川奈さんとしては突然という感覚でしたか?」
「考えてもみなかったですね。仕事が忙しくなったとか、取ってつけたような理由を話していた気はしますが、なんかピンと来なくて。忙しい時期ならこれまで何度もあったはずだし、本音ではないような気がしました」
佐世子は遠くを見つめるように言った。






若い罪(15)

2020-11-05 18:01:21 | 小説
「今のは姉じゃないよ」
彩乃は俯き呟いた。
「えっ?姉じゃなければ誰?従姉妹がたまたま来てたとか?」
小川の顔は明らかに困惑していた。
「私の母」
彩乃は勇気を振り絞った。自分のために。そして佐世子のために。
「またまた。川奈は真顔で面白いこと言うよなあ。だってあれじゃ、うちの母親の娘って言っても誰も疑わないぜ」
小川が素直に受け取ってくれないのは仕方のないところだろう。しかし、彩乃は彼を許せなかった。
「帰って」
「いや、だって今お姉さんがケーキを買ってきてくれるって」
「いいから帰って」
彩乃のただならぬ剣幕に押され「わかったよ」とだけ言い残し、小川は姿を消した。程なく彩乃の目は潤んだ。自転車で帰ってきた佐世子の姿もぼやけていた。この日以来、彩乃は佐世子とほとんど口を利かなくなった。

蝉の鳴く声の力が弱まり始めた8月末の午後、佐世子は町田メンタルクリニックの長椅子に腰かけていた。初めて来た時ほどではないものの、やはり緊張していた。旧友の牧野和枝に相談はしたが、佐世子の悩みの深さを理解してくれてはいなかった。しかし「私、その先生、嫌いじゃないよ。佐世子もそうなんじゃないの?」という言葉には少し背中が押された気がする。「確かに私は町田先生を嫌いじゃない」。それにしても何を話してよいやら纏まりがつかない。そのうちに「川奈さん、川奈佐世子さん」と名前が呼ばれた。佐世子はドアをノックして診察室に入った。
「こんにちは。よろしくお願いします」
佐世子は軽く会釈した。
「お待ちしていました。どうぞお掛けください」
町田の凛とした表情の中には優しさが浮かび上がっていた。

「よく眠れましたか?」
「そうですね。前回とあまり変わらないんですけど、なかなか眠れそうもない時は、いただいた睡眠薬を2、3回飲みました」
「まあ、そのくらいなら問題ないでしょう。睡眠以外に何か変化はありましたか?」
町田は本題に話を移そうとしていた。
「1か月前と大きく変わった所はありません。婦人科や美容整形外科も頭には浮かびましたが、結局、行動には移せませんでした」
「それで正解だと思いますよ。婦人科はともかく、美容整形はちょっと違うと思うんです」
町田は穏やかに言った。
「それでまたこちらにお世話になろうと思いまして」
佐世子はすでに注がれている紅茶のカップに口をつけた。









若い罪(14)

2020-11-05 14:41:02 | 小説
中学生になると、さらにその傾向は強まり、佐世子とはよほどの事がない限り、一緒に外出はしなくなった。それどころか、たとえ近所の住人の前ですら、その視線が気になるようになっていた。
「いつまでも若いお母さんでいいね」
物心がついた頃から知っている隣のおばさんが言う。「はい」と一応返しておくが、本当にそう思っているのかと疑いたくもなる。
学校の友人達とラインに参加しても心からは楽しむ事が出来なかった。話題は多岐にわたり、自分たちの恋愛を含めた悩み事からグループに入っていない男女の噂話や、誰と誰が付き合っているのではといった話、また教師への評価、部活、趣味。高校に進学してからはアルバイトの愚痴も加わるなど様々だったが、時々は家庭の事も話題にのぼる。彩乃は黙ってやり過ごそうとするが、とにかく母のことを聞かれないよう苦心する。それが嫌でラインから抜けてしまった事もあった。
高校2年の夏、彩乃に恋人が出来た。相手は同級生のバスケット部に所属していた小川という男子生徒だった。初めて人前で手を繋いだ時は、汗が体の内側から湧き出てきた。それは相手も同じで、お互いが暑さを言い訳にしていた。そんな小さなデートを繰り返した後、小川は言った。「川奈の家に行きたい」と。「もう少ししたらね」と何回かやんわりと断っていたが、何か事情があるのではと思われるのも嫌で、自宅の前までならと妥協した。小川も顔に少し不満の色を浮かべていたが、一歩前進と前向きにとらえたのか「それでもいいよ」と応じた。

すでに二学期、つまり季節は秋に変わっていた。自宅前の歩道で二人並んで背にもたれ、時々話す。
「暇だね。どっか行こうよ」
彩乃は一刻も早くこの場を離れたかった。しかし、小川も引かない。
「いや、もう少しここにいよう」
「約束通り、自宅まで来たでしょ。もういいじゃない」
「何でそんなに嫌がるの?」
「雰囲気悪いから」
「オヤジさんが無職とか?」
彩乃は力なく首を横に振る。
「引きこもりの兄弟がいるとか?」
それにも彩乃は気だるく首を振るだけだ。

その時、自宅の玄関が開く音がした。姿を見せたのは佐世子だった。彩乃は激しく動揺した。無職の父でも引きこもりの兄でもない若く美しい母親の姿に。予想外だった。昨日、買い物をまとめてしていたので、今日は外出しないはずだったのに。佐世子が白い自転車を出しながら「2人ともそんな所で立って話してないで、中に入って待っていなさいよ」。そう言い残して母は去っていった。
「お姉さん綺麗だね。ああ、俺もあんな姉貴が欲しかったなあ」
小川は羨望の眼差しで言った。


若い罪(13)

2020-11-05 14:03:27 | 小説
「ねえ、さっきのウエイトレス、私たちの事、絶対親子だと思ってるよ」
和枝はいたずらっぽく笑った。
「随分、自信持ってるんだね。仕事先の先輩、後輩もあり得るんじゃないの?」
「服装がカジュアルだし、そうは思わないよ。別に親子と思われても全然気にしない。でも10年位前かな。最初に間違えられた時はちょっとショックだった。私だってまだ40前後だったしね」

和枝とはランチの後、カラオケボックスで懐かしい曲を歌いあって別れた。しかし、頭では解っていても、若く見える辛さを親友の和枝でさえ理解できない現実を確認すると、少し寂しくはなる。彼女には町田クリニックの町田朋子についても話した。和枝は「話で聞いただけだから何とも言えないけど、私はその先生、嫌いじゃないな。佐世子もそうなんじゃないの?」と迷っている背中を押されるような言葉を並べていた。

川奈彩乃にとって、佐世子は自慢の母親だった。姉や兄と比べても自分には優しく、きっと私が一番可愛いのだろうと漠然と思っていた。彩乃は佐世子が32歳の時に生まれた。年齢的には他の母親たちと比べて若い訳ではない。しかし、行事などで母親たちが集まると、佐世子はひと際輝いて見えた。
「彩乃ちゃんのお母さん綺麗だね。それに若いし」
クラスの子からそう言われるたび、彩乃は自分が褒められたようで有頂天になった。だから積極的に友達を自宅へ呼んだ。自慢の母を見せるために。彩乃にとって佐世子は女神だった。少なくとも小学校低学年までは。

小学5年の時だった。休み時間の廊下でクラスメートの女子が話しかけてきた。
「彩乃ちゃん。昨日、駅前の交差点を渡ってるの見たんだけど、隣にいた若い女の人ってお姉さん?」
クラスメートは屈託のない笑みを浮かべている。彩乃の手のひらに汗が浮かんできた。
「ああ、うん。そうだよ」
「美人なお姉さんだね。私もああいうお姉ちゃんがほしかったなあ」
クラスメートは友達に声をかけられて小走りに去っていった。彩乃はショックだった。漠然とは感じていた母親の若さに戸惑う自分を。親しくしている友人はともかく、初めて母を見たクラスメートが姉と認識したこと。そして正直に姉ではなく母だと否定できなかった彩乃自身を。それ以来、彩乃は当時高校生だった麻美を外出に誘うようになった。彩乃は姉が好きだった。優しくて外見は母をそのまま少女にしたようだった。何より堂々と歩ける事に幸せを感じた。嘘をつくのは嫌だったから。母を母と呼べない自分に罪悪感を抱いていたから。





若い罪(12)

2020-11-05 11:39:31 | 小説
それに比べると、町田は恵まれていた。20代後半から大学病院で患者を受け持ったのだ。初めの頃こそ「あんな姉ちゃんにこの苦しさが分かる訳ないよな」と聞こえよがしに診察室を出ていく患者もたまにはいて、それなりに傷つきもしたが、しだいに慣れた。
町田は30歳で5歳年上のサラリーマンと結婚したが、その生活は長くは続かず、約2年で離婚した。夫は言葉はマイルドにしていたが、男二人で暮らしているようだったと芯の部分で語っていた。子供もなく、互いにそれなりの経済力もあったため、金銭的な揉め事もなく円満離婚となった。町田は二度と結婚はするまいと心に誓った。
数年後、母の頼子が亡くなり、町田は天涯孤独の身になった。大学病院での患者一人に向き合う時間があまりに短いことに疑問を抱いていた町田は独立し、町田メンタルクリニックを開業するに至った。
そして個人経営を始めて約5年後、佐世子が現れたのだ。診察の途中からは半分、若くして亡くなった姉の育海と話している気分で、それを抑えるのに大変だった。敢えて予約も勧めなかった。せいぜい軽い睡眠障害くらいにしか診断できない患者と予約しないのは珍しくもないし、佐世子は再び町田クリニックを訪ねてくるという確信に似たものが町田にはあった。

川奈佐世子は迷っていた。婦人科や美容整形などに問い合わせようとも考えたが、未だに行動には移せず、結局、短大時代からの親友である牧野和枝に「近いうちに会いたい」とメールするのが限界だった。
「何かあった?」
ファミレスのテーブルを挟み、和枝は少し心配顔で問う。高々と舞い上がった日の光が、カーテン越しにも十分伝わってくる。
「うん、こないだメンタルの病院へ行ってきた。多少抵抗はあったけど,どこへ行けばいいのか分からなくて」
「えっ?もしかしてうつ病とか?」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃないって事は、ええと」
和枝は思案顔をしていたが、永遠に答えられそうにない。
「若く見えること。若く見られることがどうしようもなく苦痛になった」
和枝は少しの間、口を開けたまま沈黙していたが「その事で佐世子が悩んでいたのは知っていたけど、まさかメンタルクリニックに行く程とは思っていなかったから」と辛うじて言葉をつなぎ、コップの水を一気に飲み干した。
和枝が動揺するのも当たり前だ。同年代の女性と外見が大きく違ってしまうのは、それなりに不便な事も多いだろうとは彼女も理解しているのだと思う。しかし、それ以上に老けない羨ましさが、女性の本能としてどうしても先に立ってしまうのだろう。



若い罪(11)

2020-11-05 11:17:33 | 小説
姉は高校の途中まで精神科医を目指していたが、学年が進むにつれ成績が伸びなくなり、医師を諦めざるを得なくなり、文系に転向した。その後、一流大学に合格し、商社への就職も決まったのだが、ほぼ同時期に体調を崩し、白血病の診断が下された。それから半年後、育海は息を引き取った。姉からの最後の言葉は「楽しく生きてね」。高校1年だった町田は耐え切れず、病室を出てうす暗い廊下で涙した。

姉の育海が亡くなるまで、町田は遊んでばかりいた。当然、通っている高校も進学校とは程遠い。姉の「楽しく生きてね」の意味も考えた。確かにこれまでも楽しく生きてきたつもりだった。しかし、それが通り過ぎると満たされていたはずの心に空洞が生まれ、虚しさに変わった。姉の最後の言葉はこれまでのような楽しさも含まれているのだろうと思う。しかし、それだけではないような気もしたのだ。

町田は姉の遺志を継ぐように勉強に明け暮れるようになった。「すぐに飽きるよ」という周囲の陰口をよそに、町田の取り付かれたような姿勢に変わりはなく、高校3年に進級した時には、一流大学を目指す受験生と同じ程度まで学力が向上していた。原動力は姉の無念と彼女が目指していた精神科医になるという強い意志に他ならなかった。町田は一浪の末、医学部に合格。姉の果たせなかった精神科医への道が拓けた。大学入学後も彼女は以前にも増して、知識の獲得に貪欲になった。しかし、トップクラスの成績での卒業を控えたある冬の日、町田に不幸が襲う。父の政夫が突然、死んだのだ。急性心不全だった。
母の頼子によれば、その日も仕事から帰宅後も特に変わった様子はなかったという。しばらくして「少し眠る」と寝室に向かった。数時間後、頼子が異変に気付き、救急車を呼んだ時にはすでに心肺停止状態で、病院で死亡が確認された。58歳だった。すでに安いアパートを借り、一人で生活していた町田は父の死に立ち会えなかった。

若い頃、父は無給医だったらしい。以前、同僚の意志が自宅を訪れた時、そう話していた。卒業した大学系列の病院に勤務していた父は、上司から「誰のおかげで医者になれたんだ」、手術に立ち会っても「ただで勉強させてやってんだから感謝しろよ」という言葉が日常だったらしい。姉の育海は「私が小さい頃は母も外で働いていた」と話していた。結婚後も世間がイメージする報酬とはかけ離れていて、それを埋めるために無理を重ねて働いていたのだろう。だから父の死は若い頃から積み重ねた緩やかな過労死と言えるかもしれない。