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秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(1)

2010-12-31 18:59:20 | 中国異論派選訳
秦暉:低自由かつ低福祉の中国モデルにはいかなる優越性もない(1)

初出:2010年04月06日 経済観察報

秦暉(清華大学歴史系教授)

思うに、中国モデルとは比較によって導かれる概念である。もし、私たちが他の国家から何らかの特徴を帰納したとき、その特徴が中国にはなく、また、中国のある種の特徴がそれらの国家のどこにもないとき、それ〔他にあって中国にないことと、中国にあって他にないこと〕はたぶん中国モデルと言えるだろう。

中国の左右と西側の左右

今回の危機〔リーマンショック後の金融危機〕は、私たちにそのような「特徴」を観察するのに得難い機会を提供してくれた。いわゆる「西側」は、実は万華鏡であり、その中にはスウェーデンのように中国よりずっと「社会主義」(社会の平等、共通の繁栄)の「左派」国家もあるし、米国のように自由競争・市場開放を重視する「右派」国家もある。しかもそれらの国家の内部も万華鏡であり、それぞれ内部で左右両派が論争していることを、私たちは知っている。だが、一つの共通点は、各国が難題に直面しており、しかも率直に言って、両派はどちらも良策を持っていないということだ。金融危機以降、外国の左右両派は騒々しく論争している。左派はこれは右派の自由放任によって金融監督が緩んだからだと言い、右派は左派がケインズ主義で赤字を膨らませたため国家財政が破たんしたのだと言っている。

派閥の偏見を取り除けば、実際は左派と右派の主張にはどちらも長短がある。だが、いま私たちが目にしている状況はこの二つの欠点のどちらでもない。今西側では、米国でも欧州でも、今回の危機の核心問題は民間と政府の債務が多すぎ、財政の穴が大きすぎて、資金繰りに行き詰ったことだ。民間債務の問題は複雑なので、別の機会に譲って、ここでは省く。だが国家はなぜそれほど大きな債務を負ったのだろう? 左派の主張する高税率高福祉であれ、右派の主張する低税率低福祉であれ、どちらも欠点はあるとはいえ、理論的には収支は釣り合うはずだ。ケインズ主義者が認める財政赤字はコントロールできる範囲内のはずだ。なぜ今のようになってしまったのだろう?

実のところ理由は簡単だ。つまり西側の左右両派はどちらも民主制の土台の上に立っており、双方がともに民衆のために発言しなければならないからだ。左派は高福祉を主張するときは自信満々だが、高税率を主張するときはしどろもどろだ。右派は低税率を主張するときは自信満々だが、福祉を後退させるとなるとしどろもどろになる。もしも、高福祉・高税率、もしくは低福祉・低税率の組み合わせなら、どちらも財政破たんには至らない。だが、低税率・高福祉なら当然財政に大穴があく。西側の左派が政権を取ると国家は民衆のためにより多くのお金を使おうとし、右派が政権を取ると国家は民衆からの徴税を抑えようとする。それを何回か繰り返していたら、国家財政が破たんしない方が不思議だ。お互いを恨んで何になろう? それはもともと両派が共同で作りだした結果ではないか。もし民主制がいつもこのように運営されていたら、とっくに破産してしまうだろう。

では、なぜ民主制はこれまでうまく運営されてきたのだろう? それは民衆も道理が分からないわけではなく、もし本当に財政に問題が生じたら、本来ならすぐに社会に反映され、小さな危機が生じたら民衆も気付く。そして、民衆がそれを問題と感じたら、増税であれ、福祉の削減であれ、受け入れないわけではない。ここ二百年ほどの民主制発達史を見れば、税率は明らかに高くなってきている。もし民主制の下では増税ができないのであれば、どうして今日まで維持できようか? 福祉も同じだ。民主制の下で民衆が福祉の削減を受け入れたという前例には事欠かない。

では、ここ二十年はなぜそうできないのか? それはグローバル化の大幅な深まりと広がりに関係している。またグローバル化の性質のねじれとより大きく関係している。深まりとは、つまり経済のグローバル化の深まり、とりわけ金融のグローバル化の深まりである。もともとのグローバルな売買では大きな問題は起きない。いまはグローバルに借金ができ、グローバルに借り越し〔国債の外国による引き受けのことか〕ができるようになって問題が起きた。なぜなら債務の穴は借り越しで埋められ、社会に反映されないから、民衆は危機に気づかず、そのため「餌をやらずに馬を走らせる」というゲームを続けることになる。とりわけ米国では、米ドルの地位にたよって借り越しが特にはなはだしい。

広がりとは、以前はグローバル化に参加していたのは西側とその植民地だけだったが、その後開発途上国が参加し、冷戦後は「旧計画経済諸国」も加わったので、グローバルな借り越しの対象は大幅に増えた。とりわけ中国はかれらの最良の借り越し対象となっている。

この点中国は西側と正反対だから、これこそ「中国モデル」と言える。中国にも左派と右派がおり、中国の左右両派の理論(たとえば社会主義と自由主義)もすべて西側から伝わったものだから、正直なところ「特色」には程遠い。中国の特色は、「主義」にではなく、その土台にある。中国の左右両派は西側とは正反対の土台の上にいる。その結果、中国の左右両派は民衆を第一に考慮するのではない。私は「道徳的な非難」をしているのではない。中国の左右両派はあるいは良心は西側の両派に劣らないかもしれないが、問題は彼らが生存する土台が異なるということだ。だから彼らは右であれ左であれ、演じる役割は西側とは正反対である。私たちの左派は国家がしゃにむに民衆からカネを吸い上げることを主張し、そうでなければいまいましい「新自由主義」だと非難する。一方私たちの右派は国家は民衆のためにカネを使う必要はないと主張し、そうでなければにくらしい「福祉国家」だと非難する。以前は、私たちのやり方は「左折ランプを点けて、右折する」ものだと言われた。実は西側にも似たような問題がある。ただ方向は逆だ。私たちの政府は「社会主義式の権力」を持つが「資本主義式の責任」しか負担しないが、西側の政府は「資本主義式の権力」しかないのに、「社会主義式の責任」を負担しなければならないのだ。

私たちの以前の言い方で言えば、市場経済改革とは民衆が「市長ではなく市場に解決を求める」ことだ。この言葉は非常に面白い。理論的に言えば、市場経済は政府の権力を制限し、「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」、つまり市場経済の下では「市長」は勝手気ままに民衆をいじめてはならない。「市長」は官営企業が好きだから、計画経済の下では彼は民営企業をいじめて、つぶすことができる。だが市場経済の下ではそれはできない。官営企業は市場で民営企業と競争しなければならない。計画経済の下では新聞が「市長」の怒りを買ったら、市長は新聞社をつぶすことができる。だが、市場経済の下ではそれはできない。新聞が気に入らなければ、自分で民衆により好かれる新聞を発行し、市場で相手をつぶさなければならない。これが「市長が命ずるのではなく、市場が命ずる」ということであり、西側の市場経済だ。

ところが私たちのところでそれを言っても、「市長」は聞かない。そこで、彼が聞き入れる言葉を探して言う。「計画経済の下では民衆の薪米油塩、生老病死みんな市長が世話しなければならない。それは面倒でしょう? 市場経済をやれば、自然に任せればいいから、『市長に解決を求め』られる面倒はなくなります」。こうして「権力の制限」は「責任の回避」に変る。責任は回避しても、権力は制限を受けない。「市長」は「民衆」をわずらわせることができるが、民衆は「市長に解決を求める」ことはできない。何と素晴らしいことだろう。

だが、問題は市場経済の下で市長の仕事は何かということだ。それは民衆にサービスを提供することだから、民衆が市長に解決を求めてはならないなんてことがあろうか? 民衆が市長の所に来たら、「市場に行け」と言って追い出すのだろうか? 「市長」は勝手気ままに民衆から徴税できるのに、民衆は「市長」に対して福祉を求められないのであれば、その国家は大金持ちならないはずはない。私が言う「大金持ち」とは国家財政のことで、民衆の懐具合のことではない。私たちが現在目にする中国モデルの特徴とは何か? それは政府が大金持ちだということだ。西側で政府の財政がひっ迫してあちらこちらに布施を求めている時、私たちの政府は湯水のようにカネを使っている。私たちの鎮政府の豪華ビルは西側の大都市の市役所よりもずっと豪華だし、私たちの都市には「イメージ・プロジェクト」〔共産党中央のメガネにかなうように、街の目に就くところを飾り立てる事業〕が充満していて、西側の「豊かな国」から来た観光客はあっけにとられる。「ビッグパンツ(「大褲衩」中央テレビ局ビルのあだ名、建築費50億元と言われている)、ゆで卵(「水煮蛋」中国国家大劇院のあだ名)、他人ができないことを、俺たちはやる!」。それでもカネを使いきれないので、米国にカネを貸している。隠しておいても心配だからね。

これが我が国の「モデル」だ。中国は決して他の国より左だったり右だったりしているわけではない。ただ、中国は「左」になると政府の権力拡大は簡単になるが、政府の責任追及は困難になる。中国が「右」になるとどうだろう? そうなると政府の責任逃れは簡単になるが、その権力を制限することは難しくなる。これはこれでもちろん優越性がある。原始的蓄積が速いということと、事態を収拾する能力が非常に強いことである。手中に巨額のカネを握っているから、経済刺激策を実行するのはもちろん容易だ。もめごとの解決にも、物惜しみをしない。だが、その結果はどうだろう? こんなに投資を加速していて生産能力は過剰にならないだろうか? 独占部門の利益追求は社会の二極化を激化させないだろうか? 人為的に家計消費を抑えることは内需不足を招かないだろうか? そして、権力集中の様々なリスクなどいろいろなことを人々は心配している。これらについてはここでは議論しない。いま私が話したいのは、もしもこのようなモデルおよびこの中国モデルと前述した西側のモデルの相互作用を特徴とする、現在私たちが目にしているこのグローバル化が進展していったら、中国と世界の未来は一体どうなるのだろうかということだ。

悪貨は良貨を駆逐する

現在世界の社会学界、政治学界には中国に対する批判もある。だが経済学界は私の見るところ称賛一色である。最初は「左派」、ケインズ主義者の称賛で、「中国が自由放任を行っていないのは素晴らしい!」と言い、 次いで「右派」も出てきて、「中国が福祉国家を目指していないのは素晴らしい!」と言いだした。ネイスビッツ〔米国の未来学者〕が1997年に中国で出版した『アジアのメガトレンド』に対するある人の書評は「アジアは自由主義の手本か?」という題だった。この本は全世界がいま福祉国家によって台無しにされているが、中国だけが全く福祉に構わず、庶民は自分と家族の努力だけに頼っているから、非常に我慢強くなって、経済の奇跡を生み出せたと主張している。当時彼はこの本を書いたあと、中国に来て急いで翻訳を依頼し、英語より先に中国語でこの本を出版し、中国でベストセラーになって大もうけをした。当時彼はこの主張にあまり自信はなかった。最近彼はもう一冊『中国のメガトレンド』という本を英語でフランクフルト・ブックフェアで大々的発表し、この観点をさらに膨らませたが、今回は「中国は確かにいける、世界に福祉国家を打ち破る道を切り開いた」と自信満々だった。張五常〔香港の経済学者〕も最近、「中国は人類最良の体制を創造した、それは福祉もなければ労働組合もない国家だ」とか「世界の趨勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶことだ」(つまりは高福祉国家が低福祉国家に学び、低福祉国家がマイナス福祉国家に学ぶことだ)と言っている。要するに、いま西側経済学の左右両派はどちらも中国モデルに魅力があると思っており、左派は中国の低自由を称賛し、右派は中国の低福祉を称賛して、大合唱している。

だが本当のところは、彼らがいくら称賛しても、彼らが民主制を放棄しない限り、中国に学ぶことはできない。理由は非常に簡単だ。彼らの民主制の土台の上に福祉を切り下げ、同時に自由を切り下げることは、ほとんど全く不可能だからだ。しかも、彼らは本当にそうしたいと思っているのだろうか? そうとは限らない。西側の左右両派は「中国の奇跡」をそれぞれの主張の論拠に使って、相手をたたいているに過ぎない。左派は中国の低自由を持ち上げることで福祉国家の正当性を証明しようとし、右派は中国の低福祉を持ち上げることで自由放任の正当性を証明しようとしている。だが、低自由かつ低福祉の可能性など彼らは考えてもいないだろう。

もちろん、低自由かつ低福祉は「競争の優位性」を体現する。だが、それはグローバル化に参加した後に初めて体現される。もし二つのモデルが門戸を閉じて体制間競争をしていたら、優越性などあり得ようもない。朝鮮がその例で、改革前の中国もその例だ。だが、門戸を開き、一つの市場に融合し、投資行為が高度にグローバル化し、金融も高度にグローバル化し、一方で人権基準はグローバル化していないという条件の下で競争したとき、はじめて中国モデルの優越性が体現される。なぜなら自由経済の本当の優位性はそのイノベーション・インセンティブであり、それが人の命をすり減らして働かせる鉄腕体制に対して対抗できるとは限らない。グローバル化条件の下では、前者のイノベーションの成果を後者はまねることができるが、後者の鉄腕を前者がまねることはできない。そこで、後者はある意味で「優位性」を有するだけでなく、確かに一つの可能性(ここで私は可能性とだけ言う。私は歴史になんらかの「必然性」があるなどと考えたことはない。)、つまりグローバル化の中で「悪貨が良貨を駆逐する」現象が出現する可能性があると思う。

もちろん逆の流れも存在する。中国「モデル」の今日までの積弊については、識者も多くを語ってきた。とりわけ今回の危機発生後、外需が委縮したので、投資に頼って経済を刺激し、投資によって生産能力が形成されると、より深刻な生産能力過剰をもたらした。昨年の内需拡大はかなりの進展があったと言われているが、多くの人がそれは主に政府消費であって家計消費ではなく、「民内需」ではなく「官内需」の拡大が非常に大きな比率を占め、問題が内蔵されていると言っている。つまり、今では「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)はすでに必須となっている。

またその転換も無条件ではない。華生〔中国の経済学者〕は改革以降、中国の自由と福祉はどちらも進展したと考えている。もちろん、私も自分の文章の中で、中国の人権は「縦方向では進歩しているが、横方向では落差がある」と書いた。「低人権の優位性」はおもに横の比較についてであり、その種の「優位性」は縦方向で比較した時に人権が進歩していることと矛盾するものではない。中国の改革30年間、自由についても福祉についても、人権は疑いもなく進歩してきた。改革前の中国の人権状況は今より確かに悪かった。だから私は改革の進歩性を肯定しており、改革後は改革前に及ばないと考える「左派」理論には賛成しない。だがそれは、私が今の私たちの人権水準に対し批判的態度を有することを排除するものではない。

それどころか、私が最近提起した南アフリカもやはり同じだ。アパルトヘイト時代はそれ以前の奴隷制時代と比べて、またアパルトヘイトの末期は初期と比べて、人権状況はいずれも改善している。とりわけ1978年以降の数年間、その改善は非常に大きかった。もっと前にさかのぼっても同じことが言える。人々は「移動労働」制度〔南アフリカで行われていた単身男子労働者の出稼ぎ就労制度。就労先地域への定住を認めない点で中国の戸籍制度の下での出稼ぎ制度に類似している。〕を批判するが、それ以前の徴用労働制度の方がよりひどかったということを知っている。人々は「飯場労働」制度を批判するが、アパルトヘイト末期には黒人労働者の家族同居率はかなり高くなっていたこと、少なくとも今の中国より高いことを知っている。経済の高度成長について言えば、黒人と白人の間の著しい不平等はあったが、黒人が成長の中で多少なりとも利益を得てたことを否定することもできない。縦方向で比べれば、南アフリカ黒人の収入は以前より増加しており、白人との格差も縮小傾向だった。横方向で比べれば、南部アフリカ周辺諸国の黒人より収入は高かった。実際は、南アフリカの1994年の民主化も、突然の出来事ではなく、「量の変化」の積み重ねが「質の変化」に転化するプロセスであった。しかも、それはそれまでの黒人人権運動の漸進的推進の結果であった。だがそれら一切は、この時期全体の南アフリカの人権状況に対して人々が批判的態度を取ることを排除するものではない。

そしていわゆる横方向の比較としての「低人権の優位性」もまた縦方向の人権の進歩が経済成長率に及ぼすプラスの効果を否定するものではない(経済成長の質もしくは成長の共有性〔公平な分配〕のプラス効果はほとんど争いがないのでここではふれない)。中国の改革時代は改革前と比べて人権が進歩したことは当然プラス効果があった。私たちが言う「移動労働」のような低人権労働方式が南アフリカの経済成長に効果があったように。つまり「移動労働」は奴隷制度や徴用労働制度に比べればやはり進歩しているのだ〔改革開放前の農村統治も出稼ぎ移動さえ認めない点、生産資材の私有を認めない点で農奴制的であった〕。その点から言えば、人権の進歩は経済成長に効果を発揮する。問題は、そのように言っただけでは、なぜ横方向の比較の中で人権がより進歩している諸国家で、成長率は逆に(少なくともある時期)低いのかということを説明できないことだ。例えば、なぜ民主化した中東欧諸国の経済成長率は中国より低いのか(それらの国の民衆の生活は中国より悪いとは言えないが)? なぜアフリカの一部の民主国家の経済成長率はかつての南アフリカより低いのか? なぜ国際資本は中東欧に投資せずに、競って中国に投資するのか? なぜ大量の低価格商品が中東欧からでなく、中国から世界に押し寄せるのか? 実はグローバル化の下では、これは決して難解な問題ではない。もしも「投資誘致」面での「競争力」がグローバル市場経済の下で成長率にとって極めて重要であれば、労働組合がなく、好き勝手に土地収用のできる国家と、労働組合が発達し、土地収用も困難な国家(たとえば中東欧国家)を比べてどちらが「投資誘致」しやすか、はっきりしているではないか? だから、縦方向の比較での人権の進歩と横方向の比較での「低人権の優位性」の双方を考慮して初めて「奇跡」に対する信頼に足る分析ができるのだ。

このような「低人権の優位性」には確かに「悪貨は良貨を駆逐する」という論理が存在する。この点を説明するために、私は以前ノーベル経済学賞受賞者ロバート・フォーゲルの米国南北戦争前の南側奴隷制経済の「効率」問題に関する研究を引用したことがある。同時に相反する流れもある。つまりグローバル化条件の下では「高人権」地域の「低人権」地域に対する改革影響作用もある。私はこの二つの流れを「フォーゲル影響」と「サリバン影響」〔レオン・サリバン、アフリカ系アメリカ人牧師。アパルトヘイト政策を取る南アフリカに進出する企業に対し社会的責任を果たすよう求めるサリバン原則を提起した〕と名付ける。要するに、グローバル化は世界各国の相互影響を著しく強めたが、どちらの影響が最終的に勝つかについては、決定論的答案があるわけではない。

そして、「自由のために権力を制限し、福祉のために責任を問う」ことを求める努力により我が国の自由と福祉を持続的に進歩させていくことができれば、それは実質的に前述の西側と逆のいわゆる「中国モデル」のフェードアウトと中国が世界文明の主流に溶け込んでいくプロセスとなるであろう。

〔 〕内は訳注

出典:http://finance.ifeng.com/opinion/xzsuibi/20100406/2014124.shtml

(転載自由、要出典明記)

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