出典:http://saveeastturk.org/jp/index.php
私は暗黒の世界で苦しむ民族の声を伝えるために日本に来た。自分の声を世界に伝えたくても伝えることができない民族の声を聞きに来てくれた来場者の皆に感謝したい。私の名前はラビア・カーディル、民族はウイグルである。
1949年から中国となった東トルキスタンは、中国共産党によって新疆ウイグル自治区とされ、中国の支配下にある。東トルキスタンはチベット、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタンと接している。
私は11人の子供の母であるが、今日は母親としてではなく、ウイグルの代表として話をしたい。私はアルタイの商人の家で生まれ、家族と共に幸せに暮らしていたが、13歳から不安定な生活を送るようになってしまった。結婚し6番目の子供を産んでからウイグル人を救うため商売をはじめ、成功を重ね中国で7番目の富豪となった。自分が経済力をつければ民族の役に立つと思っていたが、さまざまな地域の現実を見るにつけ、経済力だけでは彼らを救えないということを理解するようになった。自分のビジネスと共に、学校に寄付したり、孤児や貧民に経済援助しているうちに社会的な影響力が増していき、ついには中国共産党によって自治区政治協議会の一員として、自治区の代表として選ばれるようになった。私は政治家として企業家として中国の最高レベルにまで達したのである。このことでウイグル人の置かれている境遇についてより詳しく理解できるようになってきた。自分の目が世界に開かれていき、世界には民主というものがあることを知るようになった。
そもそも中国が新疆ウイグル自治区を設置したときには、ウイグル人を幸福にし、自由にし、民族の文化を保護し、民族自決を保証し、宗教も尊重し、教育や仕事も保証する、自然や天然資源はその土地の人々のために活用できるようにし中国は協力するだけであると言っていた。中国共産党の支配が始まった1949年の段階では漢人は人口の2%を占めるのみであったし、自治区として成立する際にはソ連の協力があったからこそ可能であったのである。中国からの移民を増やさないとも約束していた。
しかし、そのような約束は全て反故にされ、ウイグル人は地球上のどこの民族よりも酷い経験をすることになってしまった。経済は停滞し、人口は抑制され、言論の自由・表現の自由・移動の自由が制限され、そしてついには言語と宗教にまで制限が及ぶようになってきた。中国共産党がこの地域を支配した直後には、ウイグル人のことを「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族である」と評価していた。しかしその素晴らしいと言われた民族はどうなってしまったのか。一夜にしてテロリスト、国家分裂主義者、反革命主義者、犯罪人、野蛮人と呼ばれるようになってしまった。世界が発展しているときに、ウイグル人は後退してきたのである。
1954年からは富裕層や知識人が刑務所に入れられ数万人が処刑された。1957年からは多くの知識人が、1967年からはウイグル人の役人が、1987年からは現在は宗教指導者らが刑務所に入れられ弾圧を受け、処刑されるようになった。東トルキスタンにおける全ての就職口は中国からの移民に与えられ、豊かな天然資源は中国内地へ持ち去られ、その開発や運搬の労働力でさえウイグル人には与えられなかった。
このような酷い扱いを改善して欲しいと訴える人々は刑務所に入れられた。農民は日に3食の食事すらできず、10人の家族がいればその10人が一つの布団に寝るようなひどい有様であった。あの「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族」は、終始ビクビクして何でも言いなりになってしまう民族に変えられてしまったのである。
私はこのような酷い状況を何とかしたいと思い、前に出ることにした。子供を教育し、貧しい人を助けたいと思っていたが、色々な障害によってまともにできなかった。社会的な地位も与えられたが、この地位がウイグル人の犠牲の上にあるということに耐えられなくなった。そして中国の全国協議会でウイグル人の現状を報告し改善を訴えた。今置かれている民族の状況を良くしていかなければ不満が高まり、社会が不安定化し、大きな事件に発展すると中国政府に対して警告した。
1997年冬にイリで1万~1万5千人のデモが起きた。地域の集まりであるマシュラップが禁止されたことに対して異議を唱えるために始まったデモであった。暴力などを伴わない平和的なデモであったが、この武器を持っていない群集に対して中国政府は武装警官でもって当たらせた。407人がその場で銃殺され、千人以上の人がサッカー場に集められ消防車の放水を受けた。集まった若者は自由や言語、文化が尊重され、人間らしい暮らしを送りたいということを要求しただけなのに、政府はこれを弾圧したのである。
自治区政府は私達、人民政治協商会議の議員らを呼び、このデモは犯罪者による暴動であり、中国共産党が行った措置は正しかったと宣伝するよう要求した。自分の地位のためにこれに従ったウイグル人もいた。この事件では8千人が捕らえられ、トラックに乗せて市中を引き回され処刑場に運ばれていった。一家族で2~3人が同じ日に処刑されたというケースもあった。
私はこのような酷い扱いを北京政府に直接抗議した。「ウイグル人は土地も資源も、仕事さえ奪われてしまった。多くの漢人が移住してくるために、中国のほかの地域と同じような土地になってしまった。ウイグル人には平和と安定が必要である。しかし中国政府は大勢の若者を捕らえ刑務所に入れている。」
政府指導者はこの私の訴えを聞き、その場では改善の約束をしたのであるが、私が北京からウルムチに戻ったときに、私の全ての役職が解かれていることが分かった。そのときから私は政府の監視下に置かれるようになった。中国政府は、「あなたは愚かなことをした。あなたに経済力を与えたのも、社会的な地位を与えたのも中国であり、もし元の地位に戻りたいのなら政府に言うことに従うように。」と言ってきた。しかし私の経済力は自分の手で獲得したものであり、中国政府が与えてくれたのではない。
この時からウイグル人の境遇は益々酷くなっていた。今までウイグル人の老人らが「こんにちは。」と普通に言っていたものが、「お宅の息子は元気にしているか。」「逮捕されていないか。」が挨拶代わりとなってしまった。歴史家や文学者らも捕らえられるようになっていった。
このように、私は国内だけでウイグル人の境遇を変えるのは不可能であると悟り、アメリカの議員に対してウイグルの置かれている状況をまとめたレポートを渡そうとした。しかしこのことで、私も1999年11月に逮捕されることになってしまった。それまでの大富豪から一転、犯罪者として扱われるようになってしまったのである。
刑務所で過ごした最初の2年間は、真っ暗な部屋で暮らした。40日のうち1回だけ外に出してもらうだけで、それ以外は光の差さない真っ暗な部屋に座らせられ、ものを言うことも文章を書くことも、体を動かすことも禁止された。このような状況下で自分の意識を保てたのは、ウイグル人を助けるという信念であった。本当なら処刑されるはずであったのであろろうが、国際人権団体など国際組織の働きかけによって明るい部屋へと移ることができた。
あるとき看守に「お前が助けようとしている民族を見せてやろう。」と言われ、ある部屋に連れて行かれた。その部屋の両隣の部屋から拷問を受けている人間の声が聞こえたが、とても人間のものとは思えず、けもののような声であった。その声が大きくなったり小さくなったりした後に、私は部屋から外に出されたが、その時に隣の部屋で拷問を受けていた20~25歳くらいの若い男が血だるまになって連れ出されてきた。「お前が救おうとしている者の運命はこうだ。救える力があるなら救ってみろ。」と言われた。私自身が彼らと同じように拷問を受けた方が、ただ見ているだけであるよりもよっぽど楽だっただろう。
刑務所にいる6年間、私は笑うことも話すことも本を読むこともなく、じっと座っているだけであった。肉体的な暴行こそ受けなかったが、彼らは私を精神的に追い込もうとしていた。ある看守は扉の前の地面を指差し、「お前は死んでここに埋められる。そして私はお前の死体の上を通って扉を出入りするのだ。」と言った。また私の髪を可笑しげな形に切ったりした。中国人の看守は常に私を非人間的に扱った。「そんな酷い姿、人間とは思えない姿でどうする?」、「自分を救えずにどうやって他人を救う?」、「ウイグルの母はなんて美しい姿をしているんだ。」というような言葉を投げかけた。
しかしアムネスティ・インターナショナルなどの国際人権組織やアメリカ政府の働きによって、2005年3月に釈放され、アメリカのシカゴの空港に降り立つことができた。迎えに来ていたRFAの記者によって、私の声が始めて外の世界に発せられた。
2003年からウイグル語は学校で禁止され、幼稚園から大学まで中国語が使われるようになってしまった。大勢の子供達が教育を施すという名目で、東トルキスタン域外に連れ出されてしまった。
私には11人の子供がいるが、そのうちの5人が中国に残っている。中国政府は私の母性愛につけこんだ嫌がらせをするようになった。世界ウイグル会議の会長就任の話が出たら、新疆に残っている子供達が全て逮捕された。息子が拷問されているその声を国際電話を通して聞かされた。そのときに電話で会話したのは娘であったが、「いま弟達が殴られている。今引き倒された。死んだかもしれない。」と電話で話していた。そして最後に、息子の大きな悲鳴が聞こえたときに電話が切られた。2006年11月に世界ウイグル会議の会長に就任したその日に、2人の息子に有罪判決が出された。その他の逮捕されていない子供達や孫達も中国の監視下に置かれている。自分の子供達が今現在どうなっているかも分からない。しかし私はこの子供達のことで、今の活動をやめるつもりはない。私が刑務所から出されるときには、「5人の子供が我々の手元にある、下手なことはするな。」と中国に脅されていた。子供の一人は国家転覆罪で、もう一人は脱税で有罪とされた。私のビジネスを引き継いだ息子達は中国の厳重な監視下にあったはずある。息子達がビジネスを始める以前は、一人は医者で、もう一人はコンピューターエンジニアだった。脱税で捕まった息子に対しては、「お前の母親が脱税していたから、代わりにお前が逮捕されたのだ。」と言ったそうであるが、それまでに私は18回も模範的な納税者として表彰されていたのである。そして今、私はテロリスト呼ばわりされている。ウイグル人もテロリストであるとして世界中に喧伝されている。しかし私はペンと口によって平和的に解決を訴えているだけである。ウイグル人に安定を、自由を与えるよう働きかけている。ウイグル人の人権が改善され、ウイグル語で自由に話ができるようになり、刑務所にいる数十万人の政治犯が釈放されるようにしたい。
中国では、漢人に対してはそれなりの裁判が行われているが、ウイグル人の政治犯は秘密法廷で裁かれ、全く公平な裁判が行われていない。2004年にに新疆の書記長である王楽泉は、8ヶ月間で22団体から55名の政治犯を処刑したと笑顔で発表した。公式でこれだけの人数に上るのであるから、非公式ならどれだけの人数になるのか想像もできない。東トルキスタンの政治活動家は国外に亡命しているが、カザフスタンやウズベキスタン、キルギスといった、ウイグル族とは兄弟民族の国でさえ、SCO(上海協力機構)によって中国に協力するようになっており、ウイグル人の亡命者を中国に強制送還しているのである。中国政府は中国国内から逃げ出したウイグル人が政治犯であろうがなかろうが、全て刑務所に入れて刑罰を与えているのである。
私達の民族が置かれている状況はこのような悲惨なものである。もっと他にも、例えば若い娘達が強制移住させられている話もしたいが、またの機会にしたいと思う。
私はウイグル人の置かれている状況を日本に伝えるためにきた。日本は世界有数の経済大国であり、アジアでもっとも進んだ民主国家である。東トルキスタンにいる人々を自分のことのように、自分の家族のことのように捉え同情し、支援して欲しい。
私は暗黒の世界で苦しむ民族の声を伝えるために日本に来た。自分の声を世界に伝えたくても伝えることができない民族の声を聞きに来てくれた来場者の皆に感謝したい。私の名前はラビア・カーディル、民族はウイグルである。
1949年から中国となった東トルキスタンは、中国共産党によって新疆ウイグル自治区とされ、中国の支配下にある。東トルキスタンはチベット、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタンと接している。
私は11人の子供の母であるが、今日は母親としてではなく、ウイグルの代表として話をしたい。私はアルタイの商人の家で生まれ、家族と共に幸せに暮らしていたが、13歳から不安定な生活を送るようになってしまった。結婚し6番目の子供を産んでからウイグル人を救うため商売をはじめ、成功を重ね中国で7番目の富豪となった。自分が経済力をつければ民族の役に立つと思っていたが、さまざまな地域の現実を見るにつけ、経済力だけでは彼らを救えないということを理解するようになった。自分のビジネスと共に、学校に寄付したり、孤児や貧民に経済援助しているうちに社会的な影響力が増していき、ついには中国共産党によって自治区政治協議会の一員として、自治区の代表として選ばれるようになった。私は政治家として企業家として中国の最高レベルにまで達したのである。このことでウイグル人の置かれている境遇についてより詳しく理解できるようになってきた。自分の目が世界に開かれていき、世界には民主というものがあることを知るようになった。
そもそも中国が新疆ウイグル自治区を設置したときには、ウイグル人を幸福にし、自由にし、民族の文化を保護し、民族自決を保証し、宗教も尊重し、教育や仕事も保証する、自然や天然資源はその土地の人々のために活用できるようにし中国は協力するだけであると言っていた。中国共産党の支配が始まった1949年の段階では漢人は人口の2%を占めるのみであったし、自治区として成立する際にはソ連の協力があったからこそ可能であったのである。中国からの移民を増やさないとも約束していた。
しかし、そのような約束は全て反故にされ、ウイグル人は地球上のどこの民族よりも酷い経験をすることになってしまった。経済は停滞し、人口は抑制され、言論の自由・表現の自由・移動の自由が制限され、そしてついには言語と宗教にまで制限が及ぶようになってきた。中国共産党がこの地域を支配した直後には、ウイグル人のことを「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族である」と評価していた。しかしその素晴らしいと言われた民族はどうなってしまったのか。一夜にしてテロリスト、国家分裂主義者、反革命主義者、犯罪人、野蛮人と呼ばれるようになってしまった。世界が発展しているときに、ウイグル人は後退してきたのである。
1954年からは富裕層や知識人が刑務所に入れられ数万人が処刑された。1957年からは多くの知識人が、1967年からはウイグル人の役人が、1987年からは現在は宗教指導者らが刑務所に入れられ弾圧を受け、処刑されるようになった。東トルキスタンにおける全ての就職口は中国からの移民に与えられ、豊かな天然資源は中国内地へ持ち去られ、その開発や運搬の労働力でさえウイグル人には与えられなかった。
このような酷い扱いを改善して欲しいと訴える人々は刑務所に入れられた。農民は日に3食の食事すらできず、10人の家族がいればその10人が一つの布団に寝るようなひどい有様であった。あの「優しく、客好きで、心根の良い素晴らしい民族」は、終始ビクビクして何でも言いなりになってしまう民族に変えられてしまったのである。
私はこのような酷い状況を何とかしたいと思い、前に出ることにした。子供を教育し、貧しい人を助けたいと思っていたが、色々な障害によってまともにできなかった。社会的な地位も与えられたが、この地位がウイグル人の犠牲の上にあるということに耐えられなくなった。そして中国の全国協議会でウイグル人の現状を報告し改善を訴えた。今置かれている民族の状況を良くしていかなければ不満が高まり、社会が不安定化し、大きな事件に発展すると中国政府に対して警告した。
1997年冬にイリで1万~1万5千人のデモが起きた。地域の集まりであるマシュラップが禁止されたことに対して異議を唱えるために始まったデモであった。暴力などを伴わない平和的なデモであったが、この武器を持っていない群集に対して中国政府は武装警官でもって当たらせた。407人がその場で銃殺され、千人以上の人がサッカー場に集められ消防車の放水を受けた。集まった若者は自由や言語、文化が尊重され、人間らしい暮らしを送りたいということを要求しただけなのに、政府はこれを弾圧したのである。
自治区政府は私達、人民政治協商会議の議員らを呼び、このデモは犯罪者による暴動であり、中国共産党が行った措置は正しかったと宣伝するよう要求した。自分の地位のためにこれに従ったウイグル人もいた。この事件では8千人が捕らえられ、トラックに乗せて市中を引き回され処刑場に運ばれていった。一家族で2~3人が同じ日に処刑されたというケースもあった。
私はこのような酷い扱いを北京政府に直接抗議した。「ウイグル人は土地も資源も、仕事さえ奪われてしまった。多くの漢人が移住してくるために、中国のほかの地域と同じような土地になってしまった。ウイグル人には平和と安定が必要である。しかし中国政府は大勢の若者を捕らえ刑務所に入れている。」
政府指導者はこの私の訴えを聞き、その場では改善の約束をしたのであるが、私が北京からウルムチに戻ったときに、私の全ての役職が解かれていることが分かった。そのときから私は政府の監視下に置かれるようになった。中国政府は、「あなたは愚かなことをした。あなたに経済力を与えたのも、社会的な地位を与えたのも中国であり、もし元の地位に戻りたいのなら政府に言うことに従うように。」と言ってきた。しかし私の経済力は自分の手で獲得したものであり、中国政府が与えてくれたのではない。
この時からウイグル人の境遇は益々酷くなっていた。今までウイグル人の老人らが「こんにちは。」と普通に言っていたものが、「お宅の息子は元気にしているか。」「逮捕されていないか。」が挨拶代わりとなってしまった。歴史家や文学者らも捕らえられるようになっていった。
このように、私は国内だけでウイグル人の境遇を変えるのは不可能であると悟り、アメリカの議員に対してウイグルの置かれている状況をまとめたレポートを渡そうとした。しかしこのことで、私も1999年11月に逮捕されることになってしまった。それまでの大富豪から一転、犯罪者として扱われるようになってしまったのである。
刑務所で過ごした最初の2年間は、真っ暗な部屋で暮らした。40日のうち1回だけ外に出してもらうだけで、それ以外は光の差さない真っ暗な部屋に座らせられ、ものを言うことも文章を書くことも、体を動かすことも禁止された。このような状況下で自分の意識を保てたのは、ウイグル人を助けるという信念であった。本当なら処刑されるはずであったのであろろうが、国際人権団体など国際組織の働きかけによって明るい部屋へと移ることができた。
あるとき看守に「お前が助けようとしている民族を見せてやろう。」と言われ、ある部屋に連れて行かれた。その部屋の両隣の部屋から拷問を受けている人間の声が聞こえたが、とても人間のものとは思えず、けもののような声であった。その声が大きくなったり小さくなったりした後に、私は部屋から外に出されたが、その時に隣の部屋で拷問を受けていた20~25歳くらいの若い男が血だるまになって連れ出されてきた。「お前が救おうとしている者の運命はこうだ。救える力があるなら救ってみろ。」と言われた。私自身が彼らと同じように拷問を受けた方が、ただ見ているだけであるよりもよっぽど楽だっただろう。
刑務所にいる6年間、私は笑うことも話すことも本を読むこともなく、じっと座っているだけであった。肉体的な暴行こそ受けなかったが、彼らは私を精神的に追い込もうとしていた。ある看守は扉の前の地面を指差し、「お前は死んでここに埋められる。そして私はお前の死体の上を通って扉を出入りするのだ。」と言った。また私の髪を可笑しげな形に切ったりした。中国人の看守は常に私を非人間的に扱った。「そんな酷い姿、人間とは思えない姿でどうする?」、「自分を救えずにどうやって他人を救う?」、「ウイグルの母はなんて美しい姿をしているんだ。」というような言葉を投げかけた。
しかしアムネスティ・インターナショナルなどの国際人権組織やアメリカ政府の働きによって、2005年3月に釈放され、アメリカのシカゴの空港に降り立つことができた。迎えに来ていたRFAの記者によって、私の声が始めて外の世界に発せられた。
2003年からウイグル語は学校で禁止され、幼稚園から大学まで中国語が使われるようになってしまった。大勢の子供達が教育を施すという名目で、東トルキスタン域外に連れ出されてしまった。
私には11人の子供がいるが、そのうちの5人が中国に残っている。中国政府は私の母性愛につけこんだ嫌がらせをするようになった。世界ウイグル会議の会長就任の話が出たら、新疆に残っている子供達が全て逮捕された。息子が拷問されているその声を国際電話を通して聞かされた。そのときに電話で会話したのは娘であったが、「いま弟達が殴られている。今引き倒された。死んだかもしれない。」と電話で話していた。そして最後に、息子の大きな悲鳴が聞こえたときに電話が切られた。2006年11月に世界ウイグル会議の会長に就任したその日に、2人の息子に有罪判決が出された。その他の逮捕されていない子供達や孫達も中国の監視下に置かれている。自分の子供達が今現在どうなっているかも分からない。しかし私はこの子供達のことで、今の活動をやめるつもりはない。私が刑務所から出されるときには、「5人の子供が我々の手元にある、下手なことはするな。」と中国に脅されていた。子供の一人は国家転覆罪で、もう一人は脱税で有罪とされた。私のビジネスを引き継いだ息子達は中国の厳重な監視下にあったはずある。息子達がビジネスを始める以前は、一人は医者で、もう一人はコンピューターエンジニアだった。脱税で捕まった息子に対しては、「お前の母親が脱税していたから、代わりにお前が逮捕されたのだ。」と言ったそうであるが、それまでに私は18回も模範的な納税者として表彰されていたのである。そして今、私はテロリスト呼ばわりされている。ウイグル人もテロリストであるとして世界中に喧伝されている。しかし私はペンと口によって平和的に解決を訴えているだけである。ウイグル人に安定を、自由を与えるよう働きかけている。ウイグル人の人権が改善され、ウイグル語で自由に話ができるようになり、刑務所にいる数十万人の政治犯が釈放されるようにしたい。
中国では、漢人に対してはそれなりの裁判が行われているが、ウイグル人の政治犯は秘密法廷で裁かれ、全く公平な裁判が行われていない。2004年にに新疆の書記長である王楽泉は、8ヶ月間で22団体から55名の政治犯を処刑したと笑顔で発表した。公式でこれだけの人数に上るのであるから、非公式ならどれだけの人数になるのか想像もできない。東トルキスタンの政治活動家は国外に亡命しているが、カザフスタンやウズベキスタン、キルギスといった、ウイグル族とは兄弟民族の国でさえ、SCO(上海協力機構)によって中国に協力するようになっており、ウイグル人の亡命者を中国に強制送還しているのである。中国政府は中国国内から逃げ出したウイグル人が政治犯であろうがなかろうが、全て刑務所に入れて刑罰を与えているのである。
私達の民族が置かれている状況はこのような悲惨なものである。もっと他にも、例えば若い娘達が強制移住させられている話もしたいが、またの機会にしたいと思う。
私はウイグル人の置かれている状況を日本に伝えるためにきた。日本は世界有数の経済大国であり、アジアでもっとも進んだ民主国家である。東トルキスタンにいる人々を自分のことのように、自分の家族のことのように捉え同情し、支援して欲しい。