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王霄:中国にはなぜ漢奸が多いのか

2006-06-18 20:01:23 | 中国異論派選訳
()内は訳注もしくは振り仮名。
2005年8月21日
 「中国にはなぜ漢奸が多いのか」という問題を提起するのは、抗日戦争勝利60周年の慶祝気分に水をさすことになるかもしれない。しかし、私はこの日に、敗戦国である侵略者が反省を要するように、戦勝国である被侵略者もまた反省を要すると思う。1945年9月2日、ミズーリ号艦上で中国(中華民国)を代表して日本の降伏を受け入れた徐永昌将軍は、降伏文書に署名した後、短い演説をし、その中で「今日はみんなが反省する日である。今日ここに代表を送った国もまた過去を回想すべきである。もし彼らの良心が彼らに過ちがあったと告げたならば、勇敢に過ちを認め懺悔すべきである。」と述べた。
 私は徐将軍の演説とこの演説の示す思想に深く賛同する。徐将軍が具体的に指摘したのはイギリス、フランス、ロシア(ソ連)などの国の当時のドイツ、日本に対する宥和政策と(ソ連とドイツによる)ポーランドの分割により敵国の野心を膨張させ自国の災厄を招いたことであるが、敷衍すれば中国国民の欠点が日本の侵略を助長したことを反省すべきでないとはいえない。
 よって、この特殊な歴史の時に、漢奸の問題を討論することは意義あることだと思う。
 まず、抗日戦争中の漢奸の人数の問題を検討する。専門家によると、日本の無条件降伏後にまとめた統計によると、満州国以外のすべての中国国内の親日軍の武装解除を受けた人数は118万6千人、満州国と親日モンゴル軍には当時40万人の軍隊と警察がおり、それに加えて各省・県に親日地方武装勢力がいたので、今日広く流通している資料によると200万人を越える親日軍がいたとされる。しかし、これにはさらに抗日戦争期間中に、死傷したり、捕虜になったり、投降した親日軍兵士118万人を加えるべきである。これを加えると親日軍は300万人あまりとなる。この数の親日軍は中国で降伏した日本軍の人数120万人の2倍を超える。この日本軍の人数は台湾とベトナム北部の日本軍を含み、これらは一般に抗日戦争の対象部隊ではない。
 漢奸は親日軍のみではなく、政府の職員を含む。この人数はつかめないが、その役割は非常に大きい。この他に周作人のような、多くの漢奸文化人がいた。
 異民族の侵入によって国が危うくなると、漢奸走狗売国奴が出現するのは不思議ではない。しかし、数が多すぎると、深く考えなければならない。我々は「当時の中国ではなぜこんなにも多くの漢奸がいたのか?」を問わなければならない。
 原因は多分多様であろうが、私が思うに、つまるところ、中華民族(漢民族)の民族性の問題である。言い換えれば、中華民族(漢民族)は民族の核心凝集力と精神的支柱を持っているのかという問題である。もし核心凝集力と精神的支柱を持っているならば、民族の存亡に際し、国民はそろって敵に当り、万民が心をひとつにして、異民族の侵略と戦って屈しないであろう。もしこのような凝集力と精神的支柱がなければ、国民はばらばらになって、敵を父と慕い、進んで侵略を受け入れ、漢奸となるだろう。
 この民族性の形成は、民族の伝統的文化的価値観を含み、また現状の政治、経済、社会形態が国民に与える影響を含む。
 第一の点から見ると、中華民族(漢民族)はこのような文化的価値観に欠けてはいない。中国伝統文化には古くから国家と民族の観念があり、国家と民族への帰属意識は中国人(漢民族)の基本道徳信条と行動規範であった。夏商周のころから、中国の国家形態は形成され、中国人(漢民族)は国家の正統性と国家の統一を理想としており、単に「王于(ゆ)きて師(いくさ)を 興(おこ)こさば,我が 戈矛(くゎぼう)を修め,子(し)と仇(きう)を 同じうせん」(詩経・秦風・無衣)や、「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)げども,外其の侮(あなどり)を禦(ふせ)ぐ」(詩経・小雅・常棣)だけでなく、中華と夷狄の区別も強烈であり、(漢)民族が異民族の侵入を受けて存亡の危機に立つと、賞賛と感動を呼び起こす無数の忠君報告の(漢)民族の英雄が生まれた。岳飛は『満江紅』の詞に「靖康の耻,猶ほ未だ雪(すす)がず。臣子の憾(うらみ),何時か滅せん。長車に駕し,賀蘭山を踏破して缺(こぼ)たん。壯き志あるもの饑しとき餐すは胡虜の肉,
笑ひ談じて渇きしとき飮むは匈奴の血。頭(はじめ)從(よ)り、舊(もと)の山河を收拾せるを待ちて,天闕に朝せん。」という。陸游は「死去せば元もと知る萬事空なるを,但だ悲しむ九州の同ふするを見ざるを。王師北のかた中原を定むるの日,家祭忘るる無かれ乃翁に告ぐるを。」という。いずれも、この種の強烈な(異常な)愛国精神を表出している。
 第二の点は、より重要だと思う。現状の国家の政治、経済、社会形態がいかなるものか、そのような形態が人民にどのような結果をもたらすかは、多くの場合イデオロギー的国家理念の影響力を超越する。理念がカラではなく、価値のある理念であれば、必ずその理念を信ずる人民に実際的利益をもたらさなければならない。国家理念は確かに重要だが、「民は国の本(おおもと)為り」であり、人民の実際的利益の方が重要である。国家の統治者が暴政を行う時、人民は立ち上がって反抗し、国家は王朝が代わる。もし、政治が乱れていたり、暴政のときに、異民族が侵入してきたら、戦士は戦わず、人民は侵入者を歓迎するであろう。アメリカがイラクを攻撃した時のように。
 もちろん、国家には仁政と暴政の間に、中間状態もある。すなわち、国家の統治者が凡庸で、政治が不明朗で、経済が衰え、人民の生活が成り立たないときである。このようなときには、全社会の思想の混乱が発生し、古人の言う「世道澆漓、人心不古(人情は酷薄になり、人心は昔のようでない)」ということになり、人びとの道徳意識や責任感は薄まり、価値観と行為規範とが伝統と正統の標準から乖離しゆがんでいく。このとき、もし外敵が侵入すれば、内憂と外患がともにおそいかかって、多くの特殊な現象が生まれる。
 中国の歴史上、いくつかの異民族が打ち立てた王朝を持っていることは、この点を説明している。モンゴル民族は宋を滅ぼして元を打ち立てた。満州民族は明を滅ぼして、清を打ち立てた。これらはいずれも、前の王朝に矛盾が積み重なって、内乱がやまず、積年の悪弊を改められず、人民の心が離れた状況のもとで実現したのである。その時にも、史可法、文天祥、張惶言、黄宗羲などの民族主義の英雄はいたが、多くは風にたなびく投降将軍であった。清軍が明に侵入したとき満州民族はわずか数十万人で、軍隊はわずか20万人に過ぎなかった。この侵略軍が、数千万人の人口を擁する漢民族政権を打ち破り、漢民族人民は異民族の侵入に抵抗しなかった。むしろ、大量の漢奸部隊を生み出し、抗日戦時代の親日軍と同様、彼らは狂ったように同胞を虐殺した。
 そして、清末になって歴史はまた繰り返した。清朝末期には林則徐のように「苟しくも国家に利するは生死を持ってし、豈(あに)禍福に因って、これを避けんや」の憂国憂民の英雄豪傑も多かったが、大厦の傾かんとすることを、人力で挽回することはできなかった。武昌で砲声が上がると、全国が其れに呼応し、大清帝国は寿命が尽きた。
 しかし、中華民国成立後も、国家はいまだ人民に(原文は「国家と人民に」であり、共産党的かつ封建中国的国家観が現れている)安定と幸福をもたらさなかった。むしろ軍閥は混戦を繰り広げ、人民は塗炭の苦しみを嘗め、列強は陵辱し、国運は日ごとに衰えた。このような状況の下で、日本は東アジア併呑の「聖戦」を始めた。抗日戦争の始めのころはどのような状況であったか?遅浩田将軍の回想によると、日本軍の共産党根拠地に対する掃討作戦では、8人の日本軍へ意思が5丁の歩兵銃と、1丁の機関銃だけで、ひとつの県城の数万人の軍民を県城から追い出した。そのため、汪精衛のような、同盟会時代には清国の摂政を暗殺したあと「慷慨(かうがい)して燕市に歌ひ,從容(しょうよう)として楚囚と 作(な)る。刀を引き一(ひと)たび快を 成せば,負(そむ)かず少年の頭に」と強烈な民族主義的気概を持っていた人物までが、中国最大の漢奸となった。
 もちろん、個人としては、どの漢奸にも、それぞれの原因がある。あるものは死を恐れ、あるものは苦労を恐れ、あるものは地位を求め、あるものは目先の安逸をむさぼり、あるものは権力を争い、あるものは板ばさみとなり、呉三桂のように「沖冠一怒爲紅顔(美女のために怒髪冠を衝く)」の者もいたであろう。しかし、我々がここで検討するのは集団としての行動であり、社会学の視点から、車界の全体的環境の中でなぜ漢奸が多いのかを分析しなければならない。
 抗日戦争前後には、一般の社会構成員はその多くが国家の観念が曖昧であっただけでなく、当時の支配集団と軍事集団も利益の違いゆえに、国家に対する帰属意識は複雑な様相を呈していた。国民党にとっては、まず盧溝橋事件には断固として不抵抗路線をとり、東北(満州)を日本に差し出した。その後には、「外敵を追うにはまず内部を安んじなければならない」として、共産党と紅軍の消滅を図った。のちに張学良と楊虎城が兵をあげていさめた後、蒋介石は共産党と連携して抗日に当ることに同意した。しかし、少なからぬ摩擦があり、「皖南事変」まで起し、新四軍を消滅しようとした。汪精衛政権成立後にも、蒋介石は日本との曖昧な交渉を続けた。共産党もまた抗日戦争中、実力を保持し、勢力を拡大する方針をとり、彭徳懐の百団作戦は、日本軍の八路軍包囲作戦を招き、毛沢東は「共産党の主力を敵に明らかにする」といって叱責した。その後、八路軍、新四軍は後方でゲリラ戦を展開しただけであった。その間、共産党の軍隊は紅軍の3万人から、100万人の大部隊に発展した。解放後、毛沢東は何度か日本からの客に対して「私たちは日本に感謝している」といっているが、その意味は日本の侵略がなければ、共産党は国民党に滅ぼされていたということだ。抗日戦争勝利後、ソ連の支持を得るために、国民党は外モンゴルの独立に同意し、共産党もそれに賛成した。
 政治が不明朗で、経済が遅れ、社会が不安定であれば、必然的に国家と民族に対する帰属意識は弱まる。かつて、徐永昌将軍が中国を代表して日本の降伏式典に参加した後、同行の部下は勝利に祝い酒を飲もうと提案した。しかし、徐将軍はそれを止めて、次のように記している「日本の再興は、時間の問題である。規律のない国民は、その将来の苦しみは日本よりも大きいであろう!」。後に、徐将軍は次のように指摘している。「中国は徳と才能を兼ね備えた総統が、任期を終えたあと平民となっても、当然に人生の幸福と自由を享受できる所を、愚昧な野心家に見せ、よく感得させて後、初めて国家が進歩し、中国人の人格と才能があまねく向上するであろう」。彼は権力者が自らを規制し、政治を改良することを主張した。これは問題の根を探し当てたものだ。
 まとめ:漢奸が多いのは、日本の強暴によるのではなく、吾等の政治によるのである。

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