南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

母とドライブ

2006-03-19 22:49:33 | シンガポール
「おかあさん、やっと来れたねえ、シンガポールに」
助手席に座っているはずのない母に私は語りかける。
「あんたが運転する車に乗ったのは初めてだけど、あんまりスピード出さん
ようにせりんよ。私はもう死んでるからいいけど、あんたはまだ生きとるで
ねえ。気をつけりんよ」
そんな声が聞こえたような気がした。

何年か前、両親をシンガポールに観光に招待しようと思った。
二人とも海外には行ったことがない。したがってパスポートも持ってなかった。
母親は糖尿病を患っていたので、病院の先生に英語で証明書を書いてもらった。
パスポートの申請用の書類まで用意したのかどうかわからないが、そのうちに
母親も身体の具合が悪くなり、父親も歩くのが少し困難になった。結局、パス
ポートは申請できず、母は外国旅行を一度も経験できずに、人生を終えた。

亡くなる日の前日、弟が「元気になってみんなでシンガポール行かまい」と母
に言った。母は苦しい息の中で「一人じゃあ行けん」と言った。弟は、「そん
な一人じゃ行かせんよ、みんなが付いていってあげるで、安心せりん」と笑い
ながら言った。シンガポールどころか、立ち上がってベッドの外に出ることす
らできなかったのに。

私の車の助手席にいる母は、見慣れぬシンガポールの景色をきょろきょろ
眺めている。
「ここがシンガポールかん?やっぱり日本とは違うねえ。木が違う」
「よう見えるようになったね。ちょっと前まではあんまり何も見えんかった
もんね」
「身体がなくなったで、今じゃあいろんなもんがよく見える」
どことなく母は嬉しそうである。まるで若い娘が恋人とドライブしている
かのようだ。

「私が死ぬ前はちょっと苦しかったけど、みんなが来てくれて嬉しかったよ。
あんたはシンガポールにおるでねえ、来れんかもしれんと思っとったけど、
来とってっくれて嬉しかったよ。ありがとうね」
「ほんとうはもっと早く行ってあげんといかんと思っとったけどねえ」
「そんなんええよ。あんたにもいろいろ世話になってすまなんだね」
「世話になったのはこっちのほうだよ。子供の頃から、迷惑ばかりかけてね」

そんな会話をしながら、今日の日曜日、車を走らせた。