南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

母とマーライオン

2006-03-20 23:13:15 | シンガポール
「おかあさん、これがあの有名なマーライオンだよ」
私は母を連れて、マーライオンを見に来ていた。
「まあらいおん?なんだんこりゃあ、ライオンかん。シャチホコみたいだけど
そり方が違うねえ」
「上半身はライオンで、下は魚だね」
「なんだかようわからんけど、めずらしい生き物だね」
母は珍しそうに、マーライオンを眺めていた。

「以前はあの橋の向こう側にあったんだよ。前、くんちゃんと勝美君
(私の二人の弟)がシンガポール来たときは向こう側だったけど、今は
こっちに移ってきた」
「なんだん、歩けるのかん」とちょっとびっくりした顔になる母。
「いや、歩けるわけじゃないんだけど、工事で移転してきたんだ」

マーライオンが作られたのは1972年。というと、大阪万博で太陽の塔が作
られたのが1970年だから、このマーライオンは太陽の塔のニ学年下になる。
できた当初は、シンガポールリバーの河口から、梅を眺めてたっていた。
それが、いつの間にか、マーライオンの目のまえに橋ができ、景色は最悪に
なった。この時期にマーライオンを見に来た人はかなり幻滅したと思う。
環境がよくないと造形物はぜんぜんさえなくなってしまうということを、この
マーライオンは教えていた。

2002年9月、マーライオンは今のマーライオンパークに移転した。工事中の
様子を見ていたが、こんなことしても無駄なのになあと思っていた。しかし、
今の姿は結構いい。周りはひろびろとしたマーライオンパーク。正面からも
眺められるように桟橋のようになっている場所もある。背景は高層ビル。
アンティークな雰囲気のフラトンホテルも背景としてはいい。また別の方角に
は、ドリアンのような外観のエスプラネード(コンサートホール)が見えて
いる。写真を撮るには最高だ。

この場所はいつも観光客が写真を撮っている姿を目撃できる。桟橋のほうに
行ってマーライオンを見ていると、日本人と思われる若者が一眼レフカメラを
持って、私のほうに近寄ってきた。ちょっと照れ笑いしながら、英語で、
"Excuse me, can you take a photograph of me? Just press this button."と
言う。私は日本人と思われていないのか、と唖然としながらもカメラを構える。

マニュアルフォーカスの一眼レフカメラだ。なんか懐かしい。フォーカスはす
でに彼が立つべき位置あたりに合わせられている。彼をフレームのど真ん中に
入れるのは写真としては構図がよくないので、すこしずらしてあげる。
マーライオンもしっかり入れて。シャッター音が心地いい。デジタルカメラに
はない感触だ。

そばにいた母が寄ってきて「なんだんあの人は外人かん」と言う。
「たぶん日本人だと思う」と私は言う。
「あんたのこと外人だと思っただねえ」
「外人って、ここじゃあ、おかあさんだって外人だよ。シンガポール人以外は
みな外人なんだから」
「なんだかそういう理屈っぽいことはようわからんねえ」
全然理屈っぽくないのになあと思いながら、マーライオンをあらためて眺める。

「水をずっと吐いとるけど、水がもったいないねえ」
「たぶんこれは水道の水じゃなくて、この海の水だから大丈夫だと思うよ」
「そうかん。なんか心配しちゃうやあ。水道代はどうするのかと思ったねえ」
あまり贅沢な暮らしをさせてあげられなかったので、母には倹約精神がしみつ
いている。

「あんたはずいぶん長いことシンガポールにおるだね」
海からの風で少し髪が乱れたのを直しながら、母がつぶやく。
「うんもう8年以上になるだよ」
と言いながら、もうそんなになってしまったのかとあらためて思う。

母は遠い水平線を眺めながら、遠い記憶をたどるようにつぶやく。
「どんどん、どんどん遠くに行っちゃっただね。
田舎を離れて、東京に行ってしまって、
そしたら今度はシンガポールにまで行ってしまった。
私んところからどんどん遠くに行ってしまうんで、寂しかったよ」
「ごめんね」私はちょっと頭を下げる。

「でもあんたは外国に行くの憧れとったでね」
近くを観光用のボートがゆっくり通り過ぎていく。
「そう小学校の頃から外国に憧れていた。今はシンガポールで仕事ができて、
あの頃の夢がかなったんだね。おかあさんには迷惑をかけたねえ」
「迷惑だなんて思っとらんよ。自分の息子が夢をかなえることは、親だっ
たらいちばんうれしいことだでねえ。自慢できることだでねえ」
私は、思わず母の手を両手で握った。
母の手のぬくもりが伝わってきたような気がした。
血管がまだ脈をしっかり打っているような気がした。

「今まで、口に出して一回も言えんかったけど、おかあさん、
ありがとうね」
母は、こんなところで恥ずかしいじゃないかと言わんばかりの表情だった。
「ありがとう、ほんとにどうもありがとう」
そう言いながら、私の目から涙がぼろぼろこぼれた。
「マーライオンの水しぶきで濡れちゃうよね」
と言いながら、私はハンカチで顔をごしごし拭いた。

しばらくして目をあけると、そこに母の姿はなかった。
目の前にはマーライオンが水を吹き出しているのがあるだけだった。
周りでは観光客が楽しそうに写真を撮っていた。

私は、にぎやかな観光客にまぎれて、いつまでも、一人たたずんでいた。