南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

母は私を呼んでいたのだろうか

2006-03-14 00:56:17 | 故郷
3月2日木曜日、東京からこだまで豊橋に、豊橋からローカル線の渥美線に乗り
換える。豊橋はこの地域では一番の都会だが、しばらくすると、窓の外の風景は
次第に農業地帯の風景になっていく。電車は杉山という駅に停車する。駅員はい
ない。40年くらい前はちゃんと駅舎があり、改札もあった。駅の向こうの家は、
駄菓子屋だった。駄菓子屋と言っても、コンペイ糖や、その他数種類のお菓子を
売っているだけの小さな店だった。

この杉山という場所は、母が生まれて育った場所だった。この駅から歩いて数分
でその家に辿り着く。私が子供の頃、よく遊びに行った。母の実家は大きな農家
で、いろんな畑があり、いろんな動物がいた。そんなことを思い出しているうち
に、電車は杉山の駅を後にして、終点の三河田原に向かった。窓の外に夕陽が落
ちていくのが見えていた。

三河田原の駅前通りに私の実家がある。昔は菓子製造販売を行っていた店だが、
今は駄菓子屋である。父は認知症がひどくなったので、2月に海のそばの施設に
入った。母は、2月の7日から病院に入院していた。家には弟が一人いるだけで
ある。普段は弟は近くの料理屋にアルバイトに行っているが、この日は休みなの
で家にいた。

弟と二人で病院に行く。母は酸素マスクをしてベッドに寝ている。点滴が痛々し
い。弟は、仕事が終わった後、夜は病室に泊まっていた。病室の片隅に折りたた
み式の簡易ベッドが置いてあった。母は食欲をなくしているが、きちんと食べら
れるようになればまだ持ち直す可能性はあるとのこと。息は苦しそうだが、私を
まだ認識できた。

金曜日と土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいた。弟は夕方から料理
屋に仕事に出かけていた。深夜から朝までは弟が病室に泊まりにくるので、私は
家に帰った。まさか、そんなに早く逝くことになろうとは思ってもいなかったの
だが、土曜日の夜看護婦さんが、「ちょっとあぶなくなってきたので、もう会う
べき人にはみんな会えましたかね?」と言った。まさか、それって危篤ってこと?
あと数日かもしれないとのこと。どうしよう、シンガポールには会社の支払いな
どが待っているしなあ。

日曜日の朝、弟からの電話で、母が朝食を少し食べれたとのこと。何だ、元気に
なるんじゃないか、そう思った。弟と私はいつものようにモーニングを食べに喫
茶店に行き、ゆっくりと病室に戻った。一番下の弟が前日から豊橋のホテルに家
族で宿泊していたが東京に帰る前に、母親を見舞いにきた。私は、メールやブロ
グが気になっていたので、豊橋のインターネットカフェに弟の車で連れていって
もらった。

豊橋で、下町娘と落ち合った。お見舞いに来てもらった。タクシーで田原の病院
に向かった。病院に到着する。母は、身体を起こして座りたいという。前日もそ
ういうことを言っていた。身体を起こして座らせてあげる。しばらくして母親の
一番末の妹が見舞いに来る。私たちがまだ食事をしていないのなら、ちょっと行っ
てきていいよとのこと。3人で食事に出かける。食堂で食事を待っている間に、
電話が入り、母親の息が止まったとの連絡。すぐに病院に戻る。母はすでに息を
ひきとっていた。医者が来て、死亡鑑定。公式には2時50分が死亡時刻となる。
まさか、そんな、まじ?そんな、あっけない。
嘘でしょ、という感じ。

それからのことは、いろいろなことがあり、通夜、葬儀、告別式、火葬、初七日の
法要、などいろいろな行事がすぎて行った。命あるものが、命がなくなり、形ある
ものが、形がなくなっていくというプロセスを目の前で見ていて、人の命という
もののはかなさを実感。葬式というのは大学生の頃、祖母の葬式に出たのが最後で、
ずっと出ていなかった。何十年ぶりかで出席した葬式が自分の母親の葬式だったな
んて。

母親は、昨年から時々言っていた。「外国にいたら、もしものときにすぐに戻って
来れんねえ」とそればかり心配していた。しかし今回は、偶然にも戻ってきていた。

思えば、今年の2月、いろんな物が壊れた。2月の頭に、車のナンバープレートの
所が壊れた。それを直すとすぐ数日後に、車のバッテリーがおかしくなった。
レッカー移動で、修理してもらった。オルタネーターという部品が壊れていた。
2月中旬、ノートブックパソコンに水をこぼして、機能停止。2月終わり、会社に
あったiMacのヒューズが切れ、機能停止。同じころ、家のプロパンガスのガスが
切れ、洗濯機のところの水道の水漏れを修理した。

今から思えば、あるいは母が私を呼びよせるために出していたシグナルだったのか
と思えてならない。「そんなシンガポールなんかで仕事してないで、すぐに戻って
きて」というシグナルだったのかもしれない。また今回の飛行機は、実は、景品で
もらった切符だった。2月中に発券して、3月中に飛ばなければいけないという
条件の切符だった。とりあえず、この日程で切符をとった。
まさかそんなことになるなんて。

何かこれはちょっと不思議な話です。なんだか超自然的な感じがします。
こんなことってあるんですね。なんか考えれば考えるほど不思議です。

6 コメント

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お葬式って映画ありましたよね。 (へいたらう)
2006-03-14 12:59:33
あの映画を見たら、うちの祖父が亡くなったときとよく感じが似てました。

よく、とらえてるなーと。



うちも、一昨年でしたか、祖母が亡くなりました。

この話を聞いていると、何だか私の祖母がなくなったときを思い出しました。



祖母も、連休が終わった日に、飯食ってたら、突然、電話が掛かってきて・・・で、すぐ近くだったものの、駆けつけたときにはすでに・・・。

博多の街中の病院に入院していたものですから、もし、一日早かったら、連休の渋滞で病院に近づくことも容易ではなかったでしょう。



お力落としのございませんよう・・・。

よろしければ、これを。

結構、感動したというやつが多く・・・。

  ↓

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1387/walkingtour.html
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感動しました (南の国の会社社長)
2006-03-14 15:47:22
へいたらうさん、これすごいいいです。

ありがとうございました。

会社で見ていたら、ぼろぼろ涙が出てきました。

英語版でも見て、中国語版でも見ました。

あまりに感動したので、数ヶ月前に父親をなくした

ローカル社員にも教えてあげました。
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さみしいです (下町娘)
2006-03-14 18:32:55
たった今ブログを見ました。

営業前のお店で読んでいますが、涙がポロポロこぼれました。



お母さんとは数回したお会いしなかったけれど、

とってもやさしくてかわいらしくて、息子思いの素敵なお母さんです。

私はまだ嫁姑戦争も味わえなかった・・・そんな戦いなんてありえない程の素敵なお母さんでしたが。



私はお母さんの代わりになんてなれませんが、お母さんの遺影の前で「彼をずーっとずーっと守ります」と約束してきました。

がんばります。



二人でいつもお母さんの事思い出してお話しようね
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ありがとう (南の国の会社社長)
2006-03-14 20:14:19
下町娘さん、いろいろありがとうね。でも、あのときはびっくりしたね。

二人が偶然そこに居合わせたのは奇跡としか言いようがない。

弟と、母の妹のサチ子さんと、そしてぼくたち二人。心電図のメーターが大きなゼロの数字を示していて、病室は時間が止まったような静寂に包まれていた。

ついこの間のことなんだけど、なんか遠い昔の物語のような気もする。
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これにコメントした後で (へいたらう)
2006-03-14 22:02:42
一件、打ち合わせがあったのですが、その方の様子が何かおかしい・・・。

よく聞いたら、その方も、今、お父さんが危篤だとのこと。

「キャンセルしてもらってよかったのに・・・。」と言ったら、「そうも行きませんから。」と。

あと、1~2時間で亡くなるんだとか・・・。

多分、今頃は・・・。



何だか、こういうときは、こんな話が続きますねぇ・・・。
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ご冥福をお祈りいたします (南の国の会社社長)
2006-03-14 22:10:37
へいたらうさん、その方のお父さんのご冥福をお祈りいたします。

そんな状況で仕事をする人のことを考えると泣けてきます。

ここのところ他のへいたらうさんのブログを訪問する気力がなくて、申し訳ありません。今のところは、自分のブログに引きこもりです。もう少しお時間をください。
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