南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

そのとき何を優先するかということ

2006-03-15 08:58:12 | 故郷
成田空港で新井満さんの「般若心経」の本を買って、飛行機で読んだ。
葬儀のときに聞いた「般若心経」は意味がよくわからなかったけれど、
この本を読んで、そういうことだったのかとわかった。目から鱗が落ち
るというのはこういうことなのかと思った。本文もさることながら、後
書きの「母が遺してくれたもの」という文章に感動した。

この著者はリレハンメルオリンピックの時、イベントのプロデューサー
をやっていて、次の長野のデモンストレーションを担当していた。リレ
ハンメルに出発する日、母親の危篤の知らせが入った。リレハンメルに
いくべきか、母親のもとにいくべきか悩んだ。最終的に母親のところに
行くことを選んだ。これはすごい選択だったろうと察せられる。

母親の臨終には間に合わなかったのだが、彼は、自分を産んでくれた母
親がいなかったら今の自分も仕事もあり得なかったと理解し、仕事より
も母親に優先順位を置いた。彼は、母親の遺品を整理していて、たまた
ま「般若心経」を発見し、それを読み解くことを決意したらしい。

私は、2月に母親が入院したという知らせを弟から聞き、次第に病状も
悪化してきているという情報が逐次入るなか、月末にはなかなか日本に
帰れなかった。22日にインスタントラーメンのパッケージの商品撮影が
入っていて、24日には某記録媒体メーカーの商品撮影140点ほどの仕事が
入っていた。また月末には、社員の給与の支払い手続き、売り上げ帳簿
の整理、支払い手続きなどがぎっしりあった。

なんとかとりあえずの仕事を片付けて、3月1日の夜11時20分シンガポー
ル発東京成田行きの飛行機に乗った。病床の母を2、3日お見舞いして、
東京で雑用でもしようと考えていた。3月の7日の飛行機で帰って来る
予定で飛行機をおさえていた。

今回は危篤の知らせを受けて帰ったのではなかった。しかし、木曜日の
夕方、病室を訪ねたとき見た母はすでにかなり苦しそうであった。弟に
よれば、ここしばらくこんな感じで特別なことではないとのこと。金曜
日、土曜日と、日にちが経つにつれて、これはちょっと苦しそうだなあと
いう気がしていた。テレビドラマとかで見る危篤の人もこれほど苦しそう
ではないのになあなどと思いながら、そんなに早く亡くなるということは
想像もしなかった。

ちゃんと食べれるようになれば、まだ元気になる可能性がある。食べられ
なくなったとしても、点滴で生き延びられる。そんなことを信じていた。
それでもかなり苦しそうだったので、これじゃあエネルギーをかなり使い
はたしちゃうなあと思いながら心配していた。

土曜日の朝、弟と喫茶店でモーニングを食べながら話した。シンガポール
に予定通り帰らないといけないんだけど、そのためには明日の日曜日には
東京に戻らなければならない。一日くらいは延ばせるんだけど、向こうで
仕事がたまっているため、それ以上は無理だなあ。とりあえず、ちょっと
帰ってまたすぐにこっちに戻ってくるようにするよ。とりあえず、支払い
関係とかの段取りは丸一日あればできるので、それを処理してまた来るよ。
というような予定で考えていた。

そこに東京の下町娘から電話が入った。その日にちょっとだけ母親のお見
舞いに来る予定だったのだけれど、日曜日の予定を土曜日にずらせたので
来るのは日曜日にしたということだった。私は携帯を前日の夕方からマナー
モードにしてあったので、電話がつながらなかったのだと言う。日曜に来
るのだったら、その日の電車で一緒に東京に帰れるなと、そんなことを
考えていた。母の臨終が翌日に迫っていることなとつゆ知らず。

土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいて、パソコンをつないで
仕事をしようとしていたが、全然手がつかなかった。仕事のことを考えよ
うとするたびに母が苦しそうに助けを呼ぶ。「看護婦さーん、看護婦さーん」
と母は苦しそうに何度も呼んだ。看護婦が来たときに、どうして呼んだのか
聞かれた母は「最後を見てくれんと困る」みたいなことを言っていた。
この時、母がすでに死を意識していたのかどうかよくわからない。

金曜日も土曜日も何時間も私は母のそばにいた。土曜日の夜に看護婦さんが
「お兄さんは後できますかねえ。ちょっと容態はよくないので」と言った。
実は、私のほうが兄なのだが、あえて訂正しなかった。一応私が長男である。

翌日の日曜日、弟の情報では、朝ご飯のおかゆを少し食べれたという。これ
でちょっと安心していたのだが、その日のうちに母は逝ってしまった。そう
いえば、土曜日の夜、母の病床で私は宮沢賢治の「けふのうちに遠くへ行っ
てしまう妹よ、みぞれが降っておもてはへんに明るいのだ」という詩を思い
出していた。まさか本当に遠くに行ってしまうことになるとも思わずに。

母が亡くなって、通夜、葬儀の段取りを調整している間も、私にはシンガ
ポールの会社のことが頭から離れなかった。日曜日の夜中に、豊橋のインター
ネットカフェに行き、メールでいろいろな段取りをした。東京の本社の総務
に母親が亡くなったことと通夜、葬儀の日程をメールしておいた。月初の
会議のための仕事の報告書を書いて、深夜にメールで発送した。シンガポー
ルの社員全員に、葬儀のため、シンガポールに戻るのが二三日遅れるとの
メールを出した。本来ならば亡き母の枕元にいてあげないといけないのだ
ろうが、こんな仕事の段取りをしている自分がなんだか冷酷な人間に思えた。

葬儀があり、初七日の法要もその日のうちに済ませた翌日に私はシンガポー
ルに戻った。通常は親の葬儀の時には数日の忌引きをとるのだが、会社の
ことが心配だったので、非情にも仕事に戻ってしまった。戻ってわかった
が、その週末までゆっくりして戻ったところでそれほどの致命的なことに
はならなかったかと思った。そう思えば、母のもとにもう少しいてあげた
ほうがよかったのになあと、仕事人間の自分を憎んだ。

3月の12日は、ローカル社員の結婚式に招待されていた。行く予定にして
いたのだが、喪中の人には来てもらっては困るという。従って結婚式には
いかなかったが、その代わり、いろいろと仕事が入ってしまい、週末は
忙しくすぎていった。

仕事も大事だけれど、それよりももっと大切なものがあったんだと今に
なってわかる。仕事に埋没していると、その大切なものが見えない。
そんなことでは人間失格である。

おかあさん、ごめんなさい。そして、ありがとう。