「詩客」短歌時評

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短歌時評 第108回 歌集出版の多様化~新鋭短歌シリーズ出版記念会で浮き彫りになったこと~ 山崎聡子

2013-12-06 22:12:00 | 短歌時評
 2013年11月30日、日本出版クラブ会館(東京都新宿区)で行われた新鋭短歌シリーズ出版記念会に参加してきた。本会は、福岡の出版社・書肆侃侃房から発行された「新鋭短歌シリーズ」第1期12冊の出版を記念するもので、第一部として「歌集を出すかもしれないあなたへ~第一歌集のこれまでとこれから~」と銘打った加藤治郎・東直子・光森裕樹らの座談、第二部「短歌を遠くへ届けたい!」では木下龍也、嶋田さくらこ、陣崎草子、田中ましろら同シリーズ著者によるトークセッション、第三部は各歌集から抜粋した短歌の合評、という構成で進められた。全体的に、短歌、もとい歌集出版のいまがわかる充実した会であったが、本稿ではおもに第一部の内容をもとに、歌集出版の現在とこれからについて考えていきたい。
 改めて「新鋭短歌シリーズ」について説明をすると、本シリーズでは、加藤治郎、東直子の二人が監修者として新人の歌集出版をバックアップしており、選歌や解説文の執筆も含め、著者たちは加藤・東のどちらかのプロデュースのもと歌集を世に送り出すことになる。また、書肆侃侃房から出された公募による第二期の出版要綱を見ると(http://www.shintanka.com/shin-ei/apply/faq.html)、買い取りなどの諸条件はあるものの、形態としては商業出版に近い形式がとられていることがわかる。
 近年、ウェブや「うたつかい」「うたらば」等の独自の冊子媒体を舞台に、結社によらない短歌人口の層が厚くなりつつある。歌集出版の意義はひとまずここでは置いておくとして、たとえば、これからこのような媒体からでてきた書き手が歌集出版を考えたとき、結社等による従来の編集ノウハウがないなかでどのように歌集をまとめるのか。その一つの答えとして、「新鋭短歌シリーズ」の取り組みは興味深いものだと思う。
 このシリーズの新しさは、いままで“結社内”で蓄積されていたノウハウを、外部に向けて可視化したことにある。たとえば、出版社をどうみつけたらいいのか、どのように歌をまとめたらいいのか、解説や栞を誰に頼めばいいのか、贈呈や書店流通などの流れはどうなるのか……。
 筆者自身も昨年から歌集出版を検討してきたが、その時点では結社に入っておらず、また周囲に歌集を出版したという人間もさほど多くなかったため、手探りのなか準備をすすめていったという実感があった(もちろん、その過程ではたくさんの方のアドバイスをいただき、なんとか出版にこぎつけることができたが……)。また、光森が「後から“普通はこうするらしいよ”という歌壇のルールを聞かされて、“知りませんでした”って思った(要約)」と述べていたように、解説や帯文・栞文の位置づけなど、なかなか外からではわからない決まりごと(と思われること)も多い。しかし、新鋭短歌シリーズでは、いままで結社の先輩格が担ってきた選歌や解説・栞文の執筆などを加藤・東が担当することで、ある意味“疑似結社”のようなシステムの中で著者を導くような形がとられている。つまり、先輩歌人に選歌を受け、アドバイスをあおぎ、栞文や解説をかいてもらう、という一連の流れができあがっているという意味で、新鋭短歌シリーズは実は意外なほどオーソドックスな歌集出版の形態なのではないかと思う。また、田中ましろ、嶋田さくらこなど、従来のシステムの中ではおそらく歌集を出さなかっただろう(と思われる)歌人たちの歌集が出版されたことは、この形態ならではのものだろう。
 一方で、パネリストの光森自身もそうだが、結社的なシステムの外で、自分の美意識に沿った歌集を出す、という流れも存在する。光森の言葉で印象に残ったのが、歌集出版を目指す人に対するメッセージとしてあげられた、「ベンチャー的であってほしい」という一言だ。光森自身は歌集の出版自体が初めてという出版社・港の人から、活版印刷の美しい歌集『鈴を産むひばり』を出版した。同出版社からは今秋、堂園昌彦がやはり活版印刷で『やがて秋茄子へと到る』を出版し、こちらも評判になった。この二冊が完成度が高い魅力的な歌集であることは疑いがないが、従来歌集を手掛けていない出版社が手掛けることで、独自の営業ルートを活かした、書店での幅広い展開が可能となった部分もあるだろう。そのほか、光森の第二歌集『うずまき管だより』、あまねそうの『2月31日の空』のように電子版での歌集出版、という形態も今後は増えていくことが考えられる。
 「現代詩手帖」12月号で山田航は、今春の紀伊國屋書店新宿店の短歌フェアの盛況について、「これまで歌集・歌書は『売れない』『歌人のあいだでしか買われていない』と言われていた。しかし実際はそうでなく、歌人のあいだですら買われていなかったのである」と指摘している。確かに、これまで、贈呈文化の外にいる人間には歌集の出版を知ったり、実際に手に取ったりする機会は極端に少なく、新たな試みとして行われてきた「オンデマンド出版」もISBNコードがなく、書店での流通がなかなか望めないという意味で広がりが難しい部分があった。本会第一部の質疑応答のなかで、松村由利子が贈呈文化の不健全性を指摘したうえで「適正な価格で書店で歌集が買えるようになってほしい」と発言したが、新鋭短歌のようなシリーズ、または光森らが試みている新たな歌集出版への取り組みは、すでに短歌をやっている人への歌集へのアクセスを向上させるという意味では大きな意味があっただろう。しかし、この流れを一瞬の盛り上がりにせず、さらに外に向かって広げていくためには、短歌の側から読み物として面白いものを継続的に、粘り強く発信していくしかない。
 「歌集は“歌壇”ではなく、“世の中”に問うてほしい」(光森)、「結局は内容がすべて」(加藤)――。これら発言の意味をどう考えるか。本会では、短歌の“いま”が提示されたが、“これから”を考えたとき、その未来は極めてあいまいなものであるように思う。それを考えるのが、いま、短歌に足を踏み入れている私たちの役目だ、と本会は投げかけているような気がする。